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テーマ:原爆の日によせて(43)
カテゴリ:つぶやき
8月6日、今日は65回目の「原爆の日」ですね。
私の父は原爆被爆者です。 「いしぶみ」と言う本で、広島二中1年生(当時13歳)が 原爆によって全員亡くなった話が 紹介されていますが、 父はその広島二中に通う2年生でした。 2年生は生き残った人が多いのです。 当時、中学生は広島市内の被爆地近くで 作業に駆り出されることが多かったのです。 作業の日と学校で授業の日が一日置きにありました。 8月5日は作業の日で翌日の6日は授業の日のはずでした。 二中に通うには父の家から現在の平和公園を 横切るように通らなければならず、 6日が作業の日でも、授業の日でも、 父は原爆で亡くなっていたかもしれないのです。 5日の作業の終わり、全員が整列をして先生の話を聞いていました。 「明日は学校で会いましょう」 と挨拶があり、まさに解散する前に、ある先生が 「ちょっと待って下さい」 と声をかけられたそうです。 「明日はイモ畑の草取りをしましょう」 と提案され、急きょ予定が変わったんです。 イモ畑は被爆地より少し離れた場所にありました。 原爆が投下された朝8時15分はちょうど作業開始の頃で 上着を脱いだり、おのおの準備をしている時だったそうです。 音はよく分からなかったと言います。 強い光を感じたそうです。 ひどい爆風で、強い光と熱が皮膚と髪の毛がじりじりと焼ける 音がしたそうです。 それは父の顔の皮膚と髪の毛が焼ける音だったんです。 父はまだ上着を着ていたので、やけどの範囲は少なかったようです。 顔、手、など服で覆われてない部分をやけどしたと言ってました。 また、服はやぶれぼろぽろになったそうです。 しばらく動くこともできず、ぼーっとしていたら、 周りから火があがり燃え始めたので、 あわてて家に向かったそうです。 重症ではなかったので、歩いて帰ることができました。 家に帰ると、ガラスが割れ、めちゃくちゃになっていました。 町の中は火の海で入れませんでした。 父の家は爆心地から3キロぐらい離れていたので 燃えてはいなかったのですが、すべて吹き飛び、ぐちゃぐちゃで 住むこともできませんでした。 親は先に親せきの家に向かい、妹が1人泣いていたそうです。 「○○の家に来なさい」とメモがあり、 妹を連れて、夜、親せきの家に着き、家族は再会したそうです。 今思えば、この時広島を離れたことで命もつなかったんだと思います。 8月6日に被爆していない人も人探しのため広島にやってきて 残留していた放射能を浴び、後に亡くなる人が多かったので。 思えば父はその頃14歳だったんですよね。 今は79歳です。 この話を伝えるべく、今も父は元気にボランティア活動しています。 海外から来た人たちに英語で平和公園を始め広島を案内する ボランティアです。 この父の体験談は小さいころから繰り返し聞かされた話で、 小さい頃は耳にタコができたと思っていました。 しかし父が高齢化してくると考えが変わってきました。 その時父は何を思ったんだろう。 どんな気持ちでいたんだろう。 父が元気なうちにもっとたくさん話を聞いて 私も受け継いで伝えていかなきゃな~と思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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