|
カテゴリ:カテゴリ未分類
今、一年前に買ったリリーフランキーの東京タワーをやっとこさ読み出した所なんですけど
結構グッと来ることは何度かあったんですがまだ泣けてないんですよね、大笑いは何度かしましたが(笑)、面白くです、僕こんな長時間本を読んだことありません。 あのオカンは死んだ婆ちゃんに似ているし、もしかしたら最後で号泣するかもしれない でなんで泣けないのかなぁと思っていたんですけど、今までTVや本を読んで泣いたのって自分にリンクしている部分があったからなんですよ、至極当たり前なんですけどね。 そのことに気づいてから僕はなんて自分のことしか考えてないんだと改めて気づかされて、知ってたんですけどね、本屋にいっても、自己啓発とか、性格分析の本に興味をそそられるし、 でも生理的レベルでそうなんだなぁと思い知らされた感じで 本を思い返してみて思い出したことがあって、僕は前に宗教の施設の本部に居たことがあったんですけど、いや決して怪しいところではないんでけど、と書けば書くほど怪しくなっていくんですけど(笑)、う~、危険なところではないです、はい。 その時、人の病を治すための祈りを繰り返していたせいか感じたことがあって、みんなの前で感想の発表みたいな場があって言ったんですが 「人を助けようとする心がそんな心を持てること自体が幸せなんだ」と言ったんですけど それは多分、人のことに手が回る余裕があるから幸せだということでいったんだよなぁと思っていたんですが あの場所で感じて僕が言った言葉の意味は違っていて、 僕の自分のことしか考えてない所と、東京タワーを読んでいて気づいたんでけど 「自分という枠を超えられた状態、自分よりも大きな存在がいるとこと」で自分いう鎖が取れた状態のこと「一時でも自分を忘れられた幸せ」を感じていたと思うんですよ それは宗教でにわか仕込みで祈っていた僕でも感じられたことで、 それはあの本に書かれたような親が子のために身を犠牲にすること、まごうことなき愛情、 ジョジョのディオを崇拝していた狂信者達の気持ち、う~、この二つを一緒にしてしまうのはやっぱ抵抗感ありますが、村上龍の「シールド」に書かれたいたような?、自分の存在より大きなモノのところに居るする「安心」自分のことをを忘れられる幸せ、それは自分の人生に意味を見出したということなのかもしれない。 う~、やっぱり親が子をというのとそれらは違うような気がしてきたな ともかく、その行動がどうあれ、狂信者であれ、子への愛情であれ、正義のために悪を倒しに行く旅であれ、自分の存在よりも大きなモノに身を委ねるのは、自分を忘れられる何かがあるということは「幸せ」な状態なんだと思う。 それが自分の奥底が納得いった場合、無理してないことが条件だけど 漫画のカイジについて書くことは昔は、あの世界観に引き込まれていたんですよね、勝つべくして勝つみたいな、多分今も でもあの世界観には「救い」が無いなぁと思っていて男が凄い無理している感じ今はしていて あの世界観で勝っても負けても虚しいなぁと感じています。 結局ああいう風に割り切ろうと思っても割り切れなかった、いくら真実を突いていて心揺さぶられても、あの世界観では僕は渇くだけのだと思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
エラーにより、アクションを達成できませんでした。下記より再度ログインの上、改めてミッションに参加してください。
x
|