帝国海軍大地下壕
先日、慶應義塾大学日吉キャンパスの地下30mにある、旧大日本帝国連合艦隊司令部地下壕を見学してきました。東急東横線日吉駅に降りて、目の前に、慶應義塾大学の日吉キャンパスがあります。銀杏並木を進んで行くと、右側に、現在、慶應義塾高校が使用している第1校舎があります。この慶應義塾大学第1校舎は、1934年に完成し、10年後の1944年3月に、軍司令部第三部(情報部)が入ってきます。現在も、この校舎には、完成した西暦1934年と、皇紀2594年の数字が刻まれています。完成した時は、日吉の良い環境の中で、理想的学園を との願いで作られたはずなのに、10年後、戦争に深く関わって行くことを暗示するかのように、日本を中心とした、大東亜の地図が描かれた、石のカップも作られていました。さて、いよいよ地下壕ですが、今夜は連合艦隊司令部地下壕をご紹介します。日吉キャンパスに、「まむし谷」と呼ばれる場所がありますが、現在は、ここからのみ、地下壕に入ることができます。いつでも入れるわけではなく、現在は、慶應義塾大学で管理しています。1944年7月、サイパンが陥落し、B29による本土爆撃が始まり、7月15日軍令部第三部の待避壕の建設が始まりました。8月15日からは、極秘の中で、連合艦隊司令部の地下壕建設が始まり、11月には、司令部や通信隊が入ったようです。地下壕の壁は、40cmのコンクリートで作られ、この厚みは、3/30に開通する横浜市営地下鉄グリーンラインのトンネル壁の厚みと同じだそうです。この連合艦隊司令部地下壕は総延長で、約1200mあります。機械室(発電室)、司令長官室、地上司令部への階段、バッテリー充電室、食糧倉庫、水洗式便所、電信室、暗号室、作戦室、通信器財倉庫、消音器室、倉庫などがありました。連合艦隊司令長官室跡で、ここは内壁が綺麗に作られています。幅4m、高さ3m、長さ20mと、この地下壕の中では一番広い、作戦室です。当時の地下壕内は、地上から電気が配線され、停電時にも発電施設、蓄電施設もあったため、まだ市場では発売されていなかった蛍光灯で、昼間のように明るかったと言われています。電気配線に利用されたガイシです。通路には直径20cmの土管が張り巡らされ、地下水の集積用マンホールも設置され、壕内はとてもドライです。自然換気も重視されていて、風速が毎秒1mになるよう定め、地形、高低差なども考慮して作られていたようです。地上にある、耐弾式竪穴坑で、1トン爆弾が被弾しても耐えられるように作られ、この地下30mにある、連合艦隊司令部地下壕の換気のための施設でした。昭和20年4月6日午後4時、徳山沖に待機していた戦艦大和へ、「一億特攻のさきがけとなれ」という連合艦隊司令部命令が発せられ、戦艦大和は沖縄へ向けて出陣したそうですが、その命令も、この日吉の地下壕から発信されたことになります。その22時間後、アメリカ軍の攻撃を受けて、船が傾いて行く連絡は、無線を通じて日吉へ伝えられ、連絡が途絶えるまで、日吉では無線を受けていたようです。この地下壕は、そんな場所だったのです。