コスモスの花咲く
知一左幾盤 千伊さき満ゝ耳於れ多流八 於連たる万ゝ二秋桜の花さ久昇地 三郎 作注:(昇地の昇と言う文字は、上が日に下が夕ヰです) 今日は最初に、既にご存知だと思いますが、昇地三郎 (しょうち さぶろう)氏の話をさせていただきますので長文で失礼致します、、、、、現在、日本の教育者、教育学者、福岡教育大学名誉教授。教育学・心理学・精神医学のエキスパートとして活躍されている方です。彼は、脳性まひとして生まれた2人のお子さんが教育を受ける場所を求め、私財を投げ打って日本初の障害児教育施設養護学校「しいのみ学園」を設立。昭和29年の4月1日のことです。◆「しいのみ学園」の名前について由来◆ 私は当初、『福岡治療教育学園』という名前を考えていたのですが、妻が“子供が読めない名前はダメでしょうって。そのとき、妻の手に大宰府で拾った椎の実がありました。そうだ、小さな椎の実は、人や獣に踏みつけられながらも、水と太陽の光があれば必ず芽をだすじゃないかと、その願いを込めて付けられたそうです。当時、脳性麻痺のように、知的障害と身体障害を併せ持つ最も重い重複障害児は、法制度上、どこにも行き所がなかったのです。その後、23年間の長きに渡り、財産を切り売りしながら無認可の施設を維持する日々が続きました。その間、「しいのみ学園」を卒業した子供たちは88人。うち4人が大学を卒業し、1人は和歌山大学の講師となりました。また、8人が結婚し、息子を東大に行かせた家庭もありました。心理学と医学を取り入れた独創的な「小集団活動療法」を行って、重度心身障害児たちの心と身体をぐんぐんと成長させていったのでした。夫妻の労苦は、大きな花を咲かせたのです・・・。ある日のこと、長男の有道君は、17歳の誕生を迎えると、夫妻に紙切れを差し出しました。そにはこう書いてあったのです。「しいのみ学園小使い 昇地有道」そして、言いました。「僕の手はまだ動く。始業時間に鐘を鳴らすことができるから、この学園の用務員に雇って欲しいんだ。これは・・・僕の名刺です」と。「しいのみ学園」には、始業・終業を告げる鐘楼がありました。“しいのみ学園小使い”となった有道君は、毎朝、この鐘楼に登り、鐘を鳴らすのが日課となりました。当時、「しいのみ学園」には、37人の子供たちが通ってきていました。ところが、ある日彼は、時を告げる鐘を鳴らすのをやめたのです。その代わり、今度は、通ってくる子供たちの一人ひとりが、不自由な身体で歩いてくるのを見つめながら、一つ一つ、ゆっくりと鐘を鳴らすことにしたのです。彼は、その理由を、「だって、僕が早く鳴らし終わったら、その生徒が遅刻になるでしょう?」有道君は、37回目の鐘を、最後の子供が門に入った時に鳴らしました。もう「しいのみ学園」には、遅刻で叱られる子供はいなくなりました。その彼も、39歳の時に帰らぬ人となりました、、、その折に、◆小さきは小さきままに◆ 長男の有道は,「しいのみ学園小使」という肩書きの名刺を持って学園の鐘を鳴らしていましたが、 39歳でこの世を去りました。親戚の反対を押し切って嫁いできた私の妻も83歳でこの世を去りました。郷里の先祖の墓に納骨する際,学園の椎の木から落ちていた椎の実一粒を「おまえの一生はこの椎の実だったね」と骨壷の中に入れてやりました。小さきは小さきままに折れたるは折れたるままにコスモスの花咲く私が詠んだ和歌の一つですが、一言でいえば、それが学園の教育理念です。と、昇地氏は語られています。歳月が過ぎ、妻と3人の子ども全てを見送り、95歳で初めて自分の自由な時間を得た彼の人生は、60歳過ぎから韓国語を勉強されていたのに加え、95歳からは中国語を学習し始め、2004年から中国の障害児教育支援と新しい幼児教育法の普及に乗り出したのです。中国の障害児教育の講演に招かれた時も中国語でスピーチをされていました。数えの100歳を期して、世界各国への講演旅行を始め、今も毎年続けておられます。昇地氏、現在104歳。健康長寿の秘訣は“一日一知”だそうです。本日の書、私は変体仮名の押し売りのような感じになりましたが、塾生には感じたままの自身の文字で歌を書いていただきました。 塾生の「書」には、数名にほんの少し構成を修正してもらっただけで、全員個性豊かに書けており、私はとても満足しています。華しゃんは、、、一日三十忘を、、何とか、、、くい止める、、、でふ、、 にほんブログ村↑↑↑ブログランキングに参加しています!