|
カテゴリ:鑑賞
赤塚氏が、あらゆる人を受容すること、
そしてギャグに生きることについて、 タモリさんは弔辞の続きで次のように述べていた。 「あなたの考えは、すべての出来事・存在を、 あるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。 それによって人間は、 重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、 また、時間は前後関係を断ち放たれて、 その時、その場が異様に明るく感じられます。 この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。 すなわち『これでいいのだ』と」。 赤塚氏はあらゆることをあるがままに肯定的に受容したが、 この世の中には当然、 事実そのままでは肯定的に受け入れきれない不快・不条理なこともあるものだ。 彼はそんな現実に備わる不可解な「重苦しい陰の世界」の側面を 「ギャグ」という飛び道具を用いることによって身をかわし、 「ギャグ」によるナンセンスな飛躍によって 過去から現在、そして未来へと至る時間の連鎖をバラバラにして、 「今、ここ」という現在の時空間の一瞬に常に焦点づけて生きた―――。 タモリさんの弔辞から、 赤塚氏の生き方をそんなふうに思った。 で、何より驚いたのは、 そうした赤塚氏の生き方観が バカボンパパの『これでいいのだ』に集約していたということ バカボンパパが、こんなに深かったとは… 「赤塚不二夫展」では漫画の原稿がたくさん展示されていましたが、 それを見ると、 「ナシ」というコマが連続していたり、 登場人物の意欲のなさを下書き段階のボヤけた輪郭で表現しようとしたり、 漫画という媒体の新たな表現方法の可能性を模索した開拓精神もお持ちだったようです。 その模索の中にも、 既存の在り方を「ギャグ」にして飛躍しようとした、 彼の生き方観が現れているようです。 なお、Wikipediaによると、 「バカボン」の語源は、 現在公式には梵語の「薄伽梵」(ばぎゃぼん)に由来するとか。 また、バカボンパパの「これでいいのだ」は「覚りの境地」の言葉であり、 あのレレレのおじさんもお釈迦様のお弟子の一人がモデルで、 「掃除」で悟りをひらいた チューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく) がもとになっているとか。 複雑な精神世界を「バカボン」としてギャグに示そうとしたなんて、すごい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|