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2020.03.16
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カテゴリ:社会主義

あのころ、僕たちは、クメールルージュ(カンボジア共産党)について、いったい、どれだけの知識・情報を持っていたのだろう・・・ 

リベラル=社会主義=共産主義という偏見の塊(かたまり)だったような

気がする・・・大学封鎖の中に入り込んだ(お祭り気分)の学生たちも、

封鎖糾弾を叫んだ(民主的学友?)も、認識のベースには、大きな違いは無かっただろうと、想像する。

 

(英雄的ベトナム人民)というフレーズに、無条件にひれ伏した人士は多けれど、疑問を投げかける(考える葦)は、いなかったと思うのだ。

 

1975年のサイゴン陥落後、多くの「ボートピープル」が、命がけで故国を捨てて逃げ出す様を知って、僕は、困惑するしかなったのだから・・・

 

後になって、ベトナム戦争の主役が、南ベトナム解放戦線ではなく、ベトナム共産党であったことを知り、ようやく事態を理解する事ができた。

 

情報不足は、致命的である・・・と、つくづく思う。都合の悪い情報を、拒否し、見て見ぬふりをする人々の存在には、人間不信を増すばかりだ。

 

「公開処刑は、村の広場で村人全員を集めて行われた。打ち首、刺殺、撲殺、拷 問の様子などが、妻子を始め、全住民の見守る前で行われた。」(本文)・・・

これって、つい最近の北朝鮮の現実と どれぐらいの違いがあるのだろうか?

 

歴史は、かくも残酷に、繰り返されねばならないのか? 

しかも、厚顔無恥にも、彼らを称賛するグループが、僕たちの周囲で、「人権守れ」と叫んで(運動?)しているのだ・・・・人間不信極まれり・・・

 

皆さんは、どう思われるか?       (はんぺん)

―――――――――――――――――――――――――――――――

本の紹介「ノー・モア・ヴェトナム」(著)リチャード・ニクソン、(翻訳)宮崎緑、宮崎成人、(出版社)講談社、1986年出版

(前略)

―――――――――――――――――――――――――――――――

 1975年4月、世界が見いだした答えとは?

 

 1975.4/15、ニューヨーク・タイムズには次のような見出しが躍った。「アメ リカ抜きのインドシナ、大半がより良い生活」

  この翌日、カンボジアは陥落した。反戦派マスコミは、インドシナ人民にとっ て、アメリカが行う戦争ほどの災厄はないと断罪した。

  1975.4/、世界はついに、答えを見いだした。

 

  1974.2/より、国務省カンボジア専門官ケネス・クウィンはクメール・ルージュ をこう分析していた。

  彼らは、「全体主義社会革命」をもくろむ狂信者であり、あらゆる過去の伝統 は、「呪われたものであり破壊されねばならない」と見なし、「個々人を心理的 に改造する事が」必要で、それはすなわち、「個人生活を形成、誘導してきた伝 統的な基盤、構造、権力といったものを、恐怖その他の手段を用いて剥奪」し、 「それを党の教義に基づいた新しい価値観にとって代わらせて、人心を再構築す る」事を意味した。

 

  4/17、カンボジア、陥落。

 

  同、クメール・ルージュの指導者ポル・ポト&キュー・サンファン、プノンペ ン市民300万の強制退去を要請。

 

  300万人が、銃を突きつけられ、僻地に追いやられた。道端でぐずぐずしてい る者は、射殺された。重病患者さえ、病院のベッドから追いやられた。

 

新政府に、 反戦派マスコミが思い描いたような倫理や秩序はなかった。医師や看護婦が強制 されて、点滴をぶら下げたままの患者を病院から運び出す様は世界に放送された。

 

  二万の負傷者は、着のみ着のままジャングルに放り出された。それは、死を意 味した。

 

  同様の退去令が、カンボジア全土で行われた。続いて、危険分子の処刑が行わ れた。クメール・ルージュ兵士は、軍人、役人、知識人、教師、学生、重病人を 見れば、即座にこれを殺して回った。

 

シェム・リアプでは、百人以上の患者がベッドで寝ている所を、ナイフや棍棒 で惨殺された。モンコル・ボーレイでは、入念に地雷を敷設した所へ、政府軍将 校200人をそこへ踏み入らせた。ドゥー・ナウイでは、一人の陸軍大佐が鼻と耳を そぎ落とされ、三日がかりでなぶり殺された。処刑が終わると、犠牲者の妻子が 刑場に引き出された。

 

  400万の市民が、「新しい村」を建設する為に国中に四散させられた。それは 村起こしの為ではなく、死人を増やす為の計画だった。環境に適応できず、数十 万の人が死んだ。ジャングルに送り込まれた彼らは、生き延びる為に、素手ひと つしかなかったのだ。

 

  カンボジアは、共産主義の勝利以前は、インドシナの米所(こめどころ)だったのに、今や飢 饉を経験するようになった。通常市民は、一日500gから800gの米を必要とする のに、僻地へ追放された市民への配給は一日90gであり、それも欠配し勝ちだっ た。栄養失調と病気で、人口そのものが激減した。そんな中、共産党の役人や軍 人たちは、飢えに苦しむ国民を尻目に、肉や魚を好きなだけ貪っていた。

 

  これは、独裁、腐敗と言われるロン・ノル政権を、どれほど醜く歪曲しても、 まだ似ても似つかぬグロテスクな悪政であった。

 

  新しい村での生活は、開拓とは似ても似つかぬものだった。まったくのジャン グルの中で、原始に戻って、食べ物をあさって回る暮らし。魚、蟹、かたつむり 等、少しでも人の口に馴染みのあるものは、すでに取り尽くされた。

  藻、葉、木の皮、木の根、いなご、ばった、とかげ、蛇、虫、白蟻、等が主食 となった。ある地域の村人は、不用意に毒性の植物を食べて、吐血して、肌が黄 色くなった。

 

  食べ物に不平を言うと、クメール・ルージュ官僚に処刑された。妻と夫が長話 する事さえ、処刑の対象となった。

 

  公開処刑は、村の広場で村人全員を集めて行われた。打ち首、刺殺、撲殺、拷 問の様子などが、妻子を始め、全住民の見守る前で行われた。これは、ホー・チ・ ミンの土地改革時代のやり方と同じであった。このような儀式が、カンボジア全 土で何千回も繰り広げられた。

 

  19751976、両年で、120万人が粛清された。テロの第一波で10万、祖国から 逃げる途中で2万、強制移動中に40万、新しい村での刑死、病死、餓死が68万。

  1978.12/迄に、200万から300万のカンボジア国民が、自ら「解放者」と称する 者の手によって殺害された。

 

  ベトナムの様子。

 

  1975.4/統一ベトナム、恐怖政治を開始

  統一ベトナム、サイゴン政府や軍の関係者を粛清。それは、地方でより頻繁に 行われた。

  グエン・コン・ホァン(民族解放戦線のエージェントから、統一ベトナムの国 民評議会議員になり、1977年にアメリカに亡命した人物)の証言。「死者の数は 何万」

 

  反戦マスコミは、チュー政権が腐敗していたと告発する。しかし、チュー政権 下では、報道の自由があった。腐敗は、曲がりなりにも告発された。信仰の自由 があった。国際監視下の選挙では、仏教系の野党が危うく勝利するところだった。 経済の自由があった。南ベトナムは、小さいながら繁栄した発展途上国になった。 南ベトナムには、テレビ局が3、ラジオ局が20、新聞が27紙あり、それらがすべ て報道の自由を有していた。

 

  そのすべてが、失われた。仏教徒は、ジェム政権よりも、共産主義政権の下で の方が、より多く自殺している。経済は破綻した。テレビ局は1、ラジオ局は2、 新聞は2紙しかない。それも、政府のプロパガンダ機関になっている。

 

  独裁政権と、全体主義と、たいした違いはないという意見もある。しかし、か つての南ベトナムと統一ベトナムとを比べれば、昼と夜ほどの違いがある。

 

  ハノイ政府は、国中に続々と刑務所を作った。サイゴン政府関係者のみならず、 すべての知識人が収容された。反戦運動を組織した仏教徒、反チャー勢力の指導 者、政府の腐敗に抗議したグループまでが収監された。民族解放戦線の闘士でさ え、ハノイと意見が異なると刑務所送りだった。

 

  統一ベトナム刑務所の独房は狭く、囚人は両手両足を鎖で縛られた。それ は禁固というより拷問に等しいものだった。大部屋は多くの囚人が過密に詰め込 まれ、眠る為には交替で横になる必要があった。小さな窓で新鮮な空気を吸うの も交替で、足元では友が毎日死んでいった。

 

  真正の共産主義者グエン・ヴァン・タンは、フランス統治下で15年、ジェム政 権下で8年、チュー政権下で6年、そして、ハノイ政権下でも投獄され、すべて の時代の刑務所を比較する事ができた。「私の今の夢は、釈放される事でも家族 に会う事でもない。三十年前のフランスの刑務所に戻れたらと、切に願っている」

 

  ハノイの刑務所には、今も20万から34万のベトナム人が収容されていると見ら れている。ハノイの公式発表では、投獄されたのは5万人であるとされて来た。 しかし、1978年、ファン・ヴァン・ドン首相は、「100万人以上の囚人をキャン プから釈放した」と発表して、かつての見解が嘘である事を暴露した。

 

  さらにハノイは、刑務所とは別に、「新経済区」なるものを発明した。ここは 荒れ果てた原野で、刑務所に入れられた囚人の全親類縁者と、かつて裕福だった 人達が送り込まれた。そして、開拓や用水路づくりに従事させられた

100万の ベトナム人がここに送られ、病気や栄養失調と戦わされた。

 

  さらに、ハノイ政府はボート・ピープルを産み出した。

  1978、中越紛争を受けて、ハノイは、ベトナムにいる華僑が将来の脅威分子に なると判断。数十万人を組織的に追い立て、南シナ海の荒波へ追い詰めた。さら に、数十万のベトナム人が、これに続いた。

120万が集団脱出し、うち60万が溺 死したと見られている。

 

  ハノイは、権力を確立するには、ベトナムという国家を崩壊させる必要がある事に気付いた。グエン・コン・ホァンは語る。

 

 「我々国民は伝統的に祖国に愛着を覚えている。ベトナム人はひとりとして、喜んで家を離れたり、祖国や祖先の墓から去ったりはしない。もっとも抑圧的なフ ランス植民地支配や日本統治時代でも、多大な命の危険を犯してまでボートを漕ぎ出して逃げる者はいなかった。しかしながら、私の同国人たちが何千人も、それもあらゆる地位、職業の人々で、多くの幻滅したヴェトコンまでが、ベトナムから脱出し続けているのを、あなたは目の当たりにしている」

 

  ベトナムとカンボジアの惨劇が伝えられると、反戦派議員も態度を改めた。マクガヴァン上院議員は、1974年には、カンボジア国民が「自分自身の紛争を解決するよう放って置かれるべきだ」と発言した。1978.8/、になると、彼は国務省に対して、「カンボジア政権を権力の座から叩き出す」べく国際的な力を結集するよう勧告する事を求めた。

 

  寛大に眺めるなら、反戦派は、我々の敗北の後に何が起こるか予想できなかっ た、という事になるだろう。しかし、それは判っている事だった。

  1946、ホー・チ・ミンは何百もの民族主義者を殺害した。1954、彼が北ベトナ ム政権を握ってからは、五万人以上の農民を殺した。これは、秘密でも何でもな い。

 

  民族解放戦線が、35000人以上の南ベトナムの地域指導者を暗殺し、一般市民に組織的なテロを行使した事は、秘密でも何でもない。

  北ベトナム軍がテト攻勢の際、ユエを占拠した一ケ月の間に5000人近い人を殺害した事は秘密でも何でもない。

 

  北ベトナム軍が、1972クァン・チ攻防時に逃げようとしていた非戦闘員を故意に砲撃したのは秘密でも何でもない。

クメール・ルージュが19731974と、プノ ンペンの難民キャンプに砲撃を加えたのは、秘密でも何でもない。

 

  反戦運動家は、これらの事実に故意に目をつぶっていた。彼らの独善的な態度 が、彼ら自身の道徳観を醜く歪めていた。結果、真実に対して眼を塞いでしまっ たのだ。その真実とは、我々の行動、もしくは行動しない事による結末を、前もっ て判断する事が道徳的責任の本質だという事である。

 

  今日こそ、ベトナムとカンボジアを救おうとした我々の努力に、道徳的判断が 下される時だ。それは、我々がこれ以上道徳的な理由で戦った事はかつてない、 というものだ。反戦マスコミや、楽観的な予想は、かつてない貧困レベルだった 事を実証してしまった。

 

そこには、戦争よりも大きな悪が存在する

 

 カンボジア駐在アメリカ大使ジョン・G・ディーンは、ロン・ノル側近シソワッ ト・シリク・マタクに対して、渡米先を便宜しようとした。それに対して前首相 シリク・マタクは、愛する祖国で死ねないとしたら、それは悲劇だと辞退した。 彼は、クメール・ルージュによって真っ先に処刑された。

 

  我々がベトナム介入から学ぶべき教訓は、軍事力の行使をためらえば、ホー・ チ・ミン、レ・ジュアン、キュー・サンファン、ポル・ポトといった悪魔が大手 をふるうという事だ。アメリカ以外にどんな国が、南ベトナムを救えただろうか。

  共産軍は南ベトナムとカンボジアに平穏をもたらした。しかしそれは、墓場の 静にけさだった。






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最終更新日  2020.07.11 14:08:58
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