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2021.02.05
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カテゴリ:知識

明治の初めに、日本を一人で旅行した英国のイザベラ・バードに、興味が出て調べてみた。初めての外国人から見た日本の姿が、ありのままに紹介されている。

 

旅は、好奇心の塊のような彼女の人生そのものだったようだ。当時は、外国人は、自由に移動できる範囲を、横浜・神戸・長崎・函館・新潟という五つの開港場と東京・大阪という二つの開市場(かいしじょう)から半径10里(約40キロメートル)以内に局限されていた時代だった。彼女は、「内地」と言われたこの外国人遊歩区域よりも奥を旅するには「外国人内地旅行免状」を認められ、不自由で、困難極める旅を 人力車とカゴなどを使って、北海道まで、足を延ばしている。

 

驚嘆すべきバイタリティーであり、記された貴重な記録の価値は、すこぶる高いことだ。このいくつかの(動画)で、明治初期の日本、とりわけ困窮していた東北地方の庶民の暮らしを勉強させていただいた。

 

皆さんは、どう思われるか?      (はんぺん)

―――――――――――――――――――――――――――――――

イザベラ・バード 出典:フリー百科事典『ウィキペディア

Wikipedia)』

(動画)イザベラバードの日本紀行 三谷幸喜

https://www.youtube.com/watch?v=0K2WyIQS-w8

 

(動画)1.イザベラ・バードの日本紀行01

https://www.youtube.com/watch?v=3ruV741bVLI&t=2284s

 

(動画)11.イザベラ・バードの日本紀行11

https://www.youtube.com/watch?v=-PKwyMYofC8

 

(動画)イザベラバード 2020

 

イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird

18311015日(天保2年)、英国・ヨークシャー・バラブリッジ出生。 1904年(明治37年)107日(72歳没)

19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家、写真家、ナチュラリスト。

18311015日、イギリス・ヨークシャーで牧師の二人姉妹の長女として生まれる。

 

『日本奥地紀行』の著者として知られるイザベラ・バード。制約の多い中、彼女は日本滞在の7カ月で4500キロ以上を旅した。その目的は当時の日本を記録すること、そしてキリスト教普及の可能性を探ることであった。

 

1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。多くの行程は伊藤と2人での旅だったが、所々で現地ガイドなどを伴うこともあった。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を、1880年(明治13年)、"Unbeaten Tracks in Japan" (直訳すると「日本における人跡未踏の道」)2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳らかに紹介したほぼ唯一の文献である。1904年(明治37年)に73歳の誕生日を前にしてエディンバラで死去した。同地のディーン墓地に埋葬されている。

 

『日本奥地紀行』・・・1878年(明治11年)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、1880年(明治13年)に "Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。

 

54年から亡くなる3年前の1901年まで海外の旅を重ね、その舞台は南米以外の全大陸に及んだ。期間の長さ、世界の広がり、そして、旅に基づく作品にとどまらない膨大な著作や講演活動を総合的に判断すれば、女性という枠をはめずとも旅行家の頂点に位置する一人と評価できる。

 

キリスト教伝道に結びつく場所を重視・・・

 

日本の旅の最重要拠点は、滞在日数が都合50日にも及んだ英国公使館である。東京滞在も日本の旅の一部だったが、滞在日数の上位8位の五つまでが宣教師館や同志社女学校などキリスト教伝道に結びつく場所、しかも英国教会伝道協会だけでなくアメリカン・ボード(北米最初の伝道組織)の拠点(京都・神戸・大阪)だった事実も重要である(バードは来日前に同ボードの要人に依頼していた)。このような事実は、キリスト教受容の意義の主張で2巻本を締めくくっていることと見事に符合する。

北海道の旅の目的地を平取に定め、滞在期間は第7位(大阪と同じ)ながら、その長ペンリウク宅で34日、アイヌのすべてを学び知ろうと全力を注ぎ、信じがたいほど濃密な記録を書き残したのも、実はアイヌへのキリスト教伝道とも結びついていた。

 

ただ忘れてならないのは、彼女がこのようなことを頭の片隅に置きながらも、旅で目にするもの、出会う人のすべてに関心をもち、率直な思いを吐露しつつ鮮やかに描き出していったことである。少女時代から培われてきたこうした鋭い観察力を駆使して、彼女は旅の一瞬一瞬を記録した。これこそは彼女の旅行作家としての優れた資質だった。

 

父が聖職者ということで、幼いときから転々と居住地をかえた。そのことでいろんな地域を見ることができ、ほとんど大人(知識人)の中で教育された。小さい頃から宗教的雰囲気の中で育った。

 

イザベラバード略年

 

18311015日 ヨークシャー(Yorkshire)のバラブリッジ(Boroughbridge)で誕生。

1834(3)  チェシア(Cheshire)のタッテンホール(Tattenhall)に移る。

1842(11)バーミンガム(Birmingham)に移る。

1848(17) ハンチンドンシャー(Huntindoshire)のワイトン(Wyton)に移る。

 1850(19)病気が重くなり手術を受ける。

 1854(23)医者に航海を薦められ、アメリカとカナダを訪れる。

 1856(25)旅行記「英国女性から見たアメリカ」(The Englishwoman in America)をマレー書店から出版。

 1857(26) 再度アメリカに行き翌春帰国。まもなく父病死。

 1859(28) エディンバラ(Edinburgh)に住む。宗教的社会活動に従事。

 1860(29) スコットランド西海岸やヘブデーズ諸島を訪れる。

 1866(35) 母病死。

 1872(41)7月 エディンバラを出発しオーストラリアへ向かう。

2ヶ月間当地に滞在し、11月にニュージーランドに向かう。

 1873(42)1月 ハワイ諸島に向かう。7ヶ月間滞在する。

アメリカに渡りロッキー山脈の療養所で数ヶ月間過ごす。

 1875(44) 「ハワイ諸島の6ヶ月」(Six Months in the Sandwich Islands)をマレー書店から出版する。

 1878(47) 日本に向かって出発。アメリカを経由して、5月に上海着。横浜に向かう。横浜でオリエンタルホテルに2日間宿泊し、汽車で東京へ行き、英国公使館に滞在。6月中旬、日光を訪れ、東北北海道旅行に入る。9月に東京へ帰る。12月に香港に向かう。

 1879(48)1月 マレー半島を5週間旅行し、2月にカイロへ向かう。5月に帰国。「A Lady's Life in the Rocky」出版。

 1880(49)6月 妹ヘンリエッタ病死。

 1880(49)8月 スイスで静養。

 1880(49)10月 「日本奥地紀行」(Unbeaten Tracks in Japan)2巻出版。

 1880(49)12月 ビショップ博士と婚約。翌年3月に結婚。

 1883(52) 「マレー半島紀行」(The Golden Chersonese)出版。

 1886(55) 夫ビショップ博士死去。

 1889(58)2月 チベットとペルシャを旅行するため英国を出発。3月にインドのカラチに到着。ラホールを経てカシミールに入り、4月にスリラガル着。医療伝道のため亡き夫を記念して病院を建設。カシミールから西チベットに入り、3ヶ月滞在。10月に山を下ってシムラへ行く。医療伝道のためアムリッツァに妹を記念してヘンリエッタ病院を建設。12月にラホールに戻り、カラチへ汽車で行く。汽船でペルシャ湾に入り、バグダッドに行く。

 1890(59)1月 キャラバン隊を組織してペルシャ湾に入る。2月にテヘラン到着。困難なペルシャ旅行をして12月に黒海に出る。行程2500マイル。舟でコンスタンチノーブルに向かい年末に帰国。

 1891(60) スコットランド地理学会(RSGS)特別会員に推される。12月に「ペルシャクルジスタン旅行記」(Journey in Persia and Kurudistan)出版。

 1894(63)1月 極東へ旅に立つ。カナダを経由し横浜着。神戸に寄港し朝鮮に向かう。朝鮮旅行を終えて6月に満州に入る。奉天を経て、天津、北京に行く。日清戦争の戦乱を避けるためにウラジオストックに向かい、11月に到着する。

 1894(63)12月 長崎、大阪、京都へ行く。

 1895(64)1月 再び朝鮮を訪れる。2月に上海、香港に行く。夏を日本で過ごす。

 1895(64)7月 伊香保温泉に滞在。

 1895(64)12月 再び朝鮮を訪れ、さらに上海に向かう。

 1896(65)1月 揚子江を船でさかのぼり、5ヶ月間に渡り中国西部を旅行する。

1896(65)6月 上海に帰る。夏は日本で静養。日光湯元温泉に滞在。10月に再び朝鮮を訪れる。3月に帰国。

 1898(67)1月 「朝鮮とその隣国」出版。

 1899(68)11月 「揚子江とその奥地」出版。

 1901(70) 6ヶ月にわたりモロッコ旅行。

 1904107日 病没。享年72歳。

 

 

 

 






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最終更新日  2021.02.15 00:30:56
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