カテゴリ:学生運動
(学生運動の記録のブログ紹介⑦・・・・・アホな記録だが・・・) 野次馬雑記 1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。 野次馬雑記(ブログ) http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2008-06.html
2008年06月27日 連載No36 1969年 学園ハガキ通信 連載32で「朝日ジャーナル」回収事件のことを書いたが、「朝日ジャーナル」は新左翼や全共闘系の記事が多いこともあり、大学時代はよく読んでいた。1969年発行の「朝日ジャーナル」には「学園ハガキ通信」というコーナーがあり、毎号ではないが、大学の紛争の現状など大学生からの投稿を掲載していた。 連載19.24.25.26で全国大学紛争校一覧を紹介したが、あれは「サンデー毎日」記者が集めた情報を編集したもの。こちらは読者の投稿をそのまま載せているので、より大学紛争の実態に近い内容と思われる。今回の連載から何回かに分けて、その「学園ハガキ通信」を紹介したい。 今回は「朝日ジャーナル」1969.4.6号に掲載されたものだが、この号には ○ゲバ棒から就職への道程 座談会・獲得したものをどう活かす ○加藤新総長の東大再建とは ○高校生その心 告発(卒業式闘争の写真) ○刑事弁護にみる黒い死の思想 「暴力学生」弁護拒否論を批判する ○「山谷解放」の虚像と実像 などの記事の最後のページに「学園ハガキ通信」が掲載されている。
【朝日ジャーナル 1969.4.6号「学園ハガキ通信」】(引用) □いぜん立入り禁止(日大農獣医学部) 『2月10日に学校側は「入試をやるために」との理由で警官に守られてバリケードを解いた。しかし2月11日の入試は学部ではなく、両国講堂で警官に守られて行われた。 「清掃整備のため当分登校しないように」と1ヶ月以上も校舎に入れない。3月31日現在、校舎内には学部長代行の許可を得た者しかはいれず、教職員でもはいれない人がいる。校内には警備員と他の大学の学生を高給でやとって泊りこませている。 学校近くで集会やデモをやると、すぐ警官隊や機動隊がかけつけ、ただ集まって話をしているだけで、都公安条例違反になる。公園などで集まるのは、違法になるのだろうか。 われわれがバリケードを築いていたときには、だれでも自由に学校内にはいれ、自立講座を開いていた。21日の朝刊には、授業再開を前提として近々学部集会を開くという広告が載っていた。 (金子俊輔 農業工学科)』
<管理人:注> 日大全共闘関係のホームページは学部ごとにいくつかある。農獣医学部のホームページをリンクに載せたので、そちらも参考に見て欲しい。 そのホームページの年表欄から、今回の投稿に書かれている出来事を引用してみる。 (1969年) 2/10 機動隊導入 バリケード撤去 農闘委は学科ごとに学外に撤退 2/11 農獣医学部 日大講堂にて入試 農闘委は日大講堂周辺でビラ撒き・抗議集会 その後 中大中庭での「労学市民5万人集会」に参加 2/12 農闘委は 明大和泉校舎に拠点を移動 3/28 世田谷公園野球場にて学部集会 後に学部側は多数決により授業再開を決議した と主張 ※リンクの「1968年全共闘だった時代」HPの掲示板に40年後の農闘委の皆さんの赤ヘル写真が載っています。
□道元禅士の怒り 『昨年の3月、受験生にビラを配布した学友が、そのビラの内容が建学の精神=仏教イデオロギーを否定したという理由で11人が処分された。 42日間にわたって闘い抜かれた駒沢大学闘争(処分白紙撤回闘争)は、パリの5月革命と時を同じくして、そして東大・日大全国学園闘争の口火を切る闘いとして展開された、というぼくたちの誇りがある。 当時、「一般学生」と呼ばれていたぼくの1年間の小さな歴史は、東大・日大闘争に参加し京大で機動隊導入に声をふるわし、「一般学生よ起て!」とアジる。もはや「暴力学生」と当局者は叫び、仏教イデオロギーを背負った道元さんはなげくでしょうか。 でも道元さんよ。彼ら当局者の言う仏教イデオロギーは、戦前の駒沢大学において、軍事教練優秀校として戦争を賛美したことをぼくたちは知っているし、そしていままた学生を弾圧する一つの手段として登場したことにぼくたちは怒りを持って弾劾するだろう。 彼らの言う仏教イデオロギーはそんなものです。一番、怒りを感じているのは道元禅士その人なのかも知れないね。 (赤坂義昭 文学部)』
<管理人:注> 駒澤大学は仏教系(曹洞宗)の大学である。 ウィキペディアによると、駒澤大学の建学の精神は「行学一如」と「信誠敬愛」である。 「行学一如」とは、修行(実行・実践)と修学(学問・研究)は一体で、互いに影響し合って発展していくという禅の思想に由来する言葉である。 「信誠敬愛」とは、大乗仏教に説く自利と利他の精神を敷衍して、自己を磨くには、誠の心をもってし、他者のために尽くすには、深い慈しみの心をもってすべきということである。 当時、駒澤大学は反帝学評の拠点校の1つであった。
次回も「学園ハガキ通信」の続きです。
2008年06月13日 連載No34 1969年 6.15反安保デモ もうすぐ6.15。日米安全保障条約改定の日である。いわゆる安保の日。今年は1970年の安保改定阻止闘争から38年目になる。時は刻々と過ぎ去り、あの時代の息吹も鮮烈な体験も、今の時代から見れば歴史のただの1コマになってしまう。時の流れに抵抗することはできないが、私の中には記憶が残されている。 今回も記憶を頼りに連載を書いていく。 まず新聞記事から
朝日新聞 1969.6.16 (引用) 『6.15反安保集会の行われた日曜の午後、東京の都心は統一行動デモの花と数百本の旗と横断幕が道いっぱいにゆれた。(中略)ベ平連を中心に、この統一行動の主役になった300近い市民グループは、ゲバ棒の代わりにアイデアをこらした幕やプラカードを持ってデモをした。社共両党、総評関係者の姿はなく、参加者は市民団体と反代々木系学生、反戦青年委。日ごろの激しいデモに加われない学生や市民も参加した。(後略)』
この記事とともに「道路いっぱいに広がってジグザグデモをする6・15集会の参加者」として、霞ヶ関の官庁街をジグザグデモする様子を撮った写真が載っている。この日のデモは、大規模なデモとしては私が参加した初めてのものだった。 明大からは私の属していた414B統一戦線も黒ヘル10名前後の部隊で参加した。その時の様子が明治大学新聞に詳しく掲載されているので、引用する。
明治大学新聞 1969.6.19(引用) 【6.15集会ルポ】 『今年の「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15統一集会」は全国29都道府県で約6万人を集め、東京でも反日共系学生、反戦青年委員会、市民など3万人以上が参加した。日比谷公園から国会議事堂わきを経て銀座、東京八重洲に至る約2キロのデモコースは、色とりどりのヘルメットや旗、人波で埋め尽くされた。先頭の市民団体が午後5時頃目的地の東京駅に着いた頃ようやく最後尾のベ平連などが日比谷を出発し始める程であった。 一方、このデモに対して機動隊による過剰の警備体制に批判の声が高まっている。 当日東京では、吉川勇一ベ平連事務局長ら72人が公安条例違反などで逮捕され、全国でも223人にのぼる検挙者が出た。 6月15日は梅雨に入ったにもかかわらず、くまなく澄み渡る青空が広がっている。 日ごろ賑わう駿河台周辺も静まり、本学周辺は今日の日比谷集会にむけ学館前、本館中庭で諸団体が集会を開催した。 本館中庭には約500人の学生が「明大ベ平連」「闘法連」、「日本史」などのさまざまの旗のもとに集まっている。クラス・ゼミ・サークルから多数参加し、いつもより結集人員が多い。学生会館前では全中闘(中央大学全学中央闘争委員会)続いて本学学生会中執(社学同統一派)、本学学苑会中執(解放戦線)が次々と集まって集会を開く。(中略) 野外音楽堂では午後1時40分から「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15統一集会」(写真は明大新聞から転載)が開催され、ベ平連、各市民団体と反日共系全学連各派反戦青年委員会をはじめとした約7万人(主催者側発表)が参加した。 ベ平連の小田実氏の「さまざまな形態のたたかいが1つにまとまり、権力に立ち向かおう」とのあいさつなど各団体からの連帯表明がなされた。 午後2時44分あいさつが続けられていた途中、突如逮捕状が出て以来地下に潜行しながらも執拗に活動を続けている東大全共闘山本義隆代表が、厚い警備網を突破して会場に到着したと発表がなされた。会場はわれんばかりの拍手に湧きに湧き、東大全共闘が演壇上を陣取った。黒ヘルの一群が演壇に直進してくる旗で囲いをつくり、満場の拍手のなかを山本代表が現れ、約15分間の演説を終えてそのまま何処へとなく姿を消し去った。 3時半、ベ平連を先頭にデモ隊は出発した。霞ヶ関ー虎ノ門ー新橋ー銀座ー東京駅のコースである。公安委員会に許可申請した国会コースを一方的に変更され、付帯条件もつけられたなかをベ平連ー各大学ベ平連ー反戦青年委員会ー各大学全共闘ーフォークソングゲリラー無所属の順でデモ行進する。 国会近くを通過するときは約7メートル幅の機動隊の狭義地帯を歩むことを余儀なくされ、ちょっとでもジグザグデモをやると機動隊が規制に乗り出し、多数の負傷者をデモ隊は出す。頭をわられる者も出た。(後略)』
デモコースとしてはそれほどの距離ではなかったが、走ったり、歩いたり、ジグザグデモをしたり、手をつないでフランスデモをしたりといろいろなパターンがある。特にジグザグデモは低い姿勢でまとまってデモをするため、結構疲れる。 高校時代は走ることなどあまりなかったので、この日のデモでは運動不足を痛感した。大学に入った当初、和泉校舎の体育館で授業中に外で学内デモの笛の音が聞こえると、体育の講師が、「最近の学生は運動不足だから、ああやってデモをするのはいいことだ。」と言っていたが、まさにそのとおりでした。 2008年06月06日 連載No33 高校生たちの闘い ある活動家の日記 1967―1969 連載22で、1969年春の高校卒業式をめぐる闘いの新聞記事を紹介したが、1969年2月から3月にかけて高校の卒業式が全国で荒れていたことから、新聞でも高校生の特集記事が組まれた。 朝日新聞の2月の新聞記事に「ヘルメット高校生」という特集記事が3回にわたり連載され、その中で、ある活動家の日記が紹介されている。 1967年から1969年までの、主要な闘争に参加した活動家高校生の心情がよくわかるものなので、引用する。
朝日新聞 1969.2.15 「ヘルメット高校生」(引用) 【変身 戸惑いつつ体当たり 受験教育に持てぬ希望】 『42年10月8日、<(第1次羽田事件)オレと一緒に行動した人が死ぬなんて。同志山崎の死をむだにしてはならない。この日は忘れられない。先輩に誘われて恐る恐る大学生のシリについて行った羽田。燃える装甲車。もうもうと上がる黒煙。投石の音。かん声。赤旗の波。オレは疑わない。革命の日が来ることを。> 12月×日<民青を除名された。加盟して半年もたたないのに、いつかの会合でー問トッロッキストってなに?答右翼から金をもらって動く連中さ。ナンセンス。オオカミとなるもハイエナとなるな。> 43年1月17日<(佐世保事件)学校の仲間2人と日比谷公園へ。激しいジグザグ。高校生50人。わが校4人> 1月21日<1人で横須賀へ。機動隊にめった打ちにされた。権力が憎い> 2月20日<初めてヘルメットをかぶり王子集会へ。デモの前の方についたら機動隊の猛攻撃にあった。ヘルをとられ、さんざんけられたが、こちらもクソ度胸がついてきた> (中略) 4月9日<成田、王子の衝突で学友2人入院。だのにオレは日和(ひよ)った。こわいのだ。あのジュラルミンのタテのガチャガチャふれあう音が。> 6月8日<キョウハFコトデイト。成田デモサボリマシタ。1時、新宿。突然、海が見たくなった。3時、品川ふ頭。この広い世界にいるのは2人だけ。見渡す限り倉庫、クレーン、トラック。雨が降りだした。外国船が1隻、そーっと走っていった。> 6月11日<闘争。それは理論が思想がすべてだ。思想性の弱さがオレの行動を日和らせる。反省。マルクス「共産党宣言」から読み直せ。身辺の矛盾を的確に捕えろ。> 6月12日<高校生活でわれわれは、どんな目標を持てるか。試験で良い点とって有名大学に入ることぐらい?その大学はあのざまだ。> 6月15日<われわれのビラは、いつも教室の床に散らばり、踏まれている。クルマの話、女の話に埋没した享楽派。授業妨害しやがって生活破たん者め、といった目つきでオレたちを見るガリ勉屋。みんなぬくぬくと生きている。オレだけが疲れる。みんなにいやな顔されて。それでもオレは配る。> 6月16日<F子、君だけはオレをわかってくれ。苦労してビラをつくるのに、オレのどこが間違ってるんだ。安保まであと2年。どうなるんだ。> 7月×日<大学のバリケードの中で夜をあかす。たった2個のあのにぎりめしの味。ゲバルト。連帯感。指導部への信頼感。すばらしい。> 7月×日<デモスタイルのまま学友のキャンプに参加。しかし、この目的のない集団の生活と、きのうの大学コミューンの緊張と満足の生活との落差。これに堪えることにオレはいらだつ。> (中略) 8月20日<レーニン「帝国主義論」要約完成近し。マルクス「ドイツ・イデオロギー」「ヘーゲル法哲学批判」「フォイエルバッハ論」を読破する。人間とは?存在とは?意識とは?愛とは?新島淳良「毛沢東における弁証法の諸問題」毛沢東「老三編」を読む。> 9月4日<オレの将来は?大学に入って運動するか、高校を出て労働者になるか。> 9月7日<生まれて初めてゲバ棒を持ち、日大闘争に参加。素振りでヤル気を確かめた。警備車に思い切り投石。オレの自己変革の産物、ゲバ棒。> 11月18日<10月21日の新宿闘争の後、騒乱罪事後逮捕の恐れから、日記も隠した。新宿では1年前の10・8に見られなかった高校生が300人ほど集まった。> 44年1月23日<東大安田解放講堂落城。お茶の水バリケード。荒廃しきった精神と疲れきった肉体をいやしてくれるのは、赤旗とヘルメットとインター。あゝ、オレたちが報われる日はいつ。
オレは綱を渡る 迷ってはいけない よそ見をしてはいけない ただ一途に淡い炎に向かって 弱い1本の綱に オレをかける > 』
記事によると、この日記を書いたのは、ある高校生セクトの幹部。1969年2月現在で、高校2年生ということである。 この日記の最後の詩には、闘争を続ける者の孤独、そして遠くに見える「淡い炎」へと向かう強い意思を感じる。彼にとって「淡い炎」とは何だったのだろうか。 革命、連帯、希望、愛・・・・。答えは個々人で違うだろう。 私にとって「淡い炎」とは何だったのだろうか。そして、あの時代(とき)の君にとっては・・・。
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最終更新日
2022.05.31 15:41:22
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