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2021.05.27
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カテゴリ:学生運動

 凄惨な結末だった1972年の(山岳アジト事件)の時の、連合赤軍の最高幹部の森恒夫は、僕と同じ大学に在籍していた。

  1970年の「よど号ハイジャック事件」の日本赤軍の犯罪メンバーのトップ、田宮高麿(共産主義者同盟赤軍派軍事委員長)と、赤木志郎(僕より2年上だった)の2人も、同じ大学の出身だ。田宮は、1995年北朝鮮で病死、赤木は、今も北朝鮮に逃げて、独裁者の(お情け)で現地で住み続けている。

 

 そういうわけで、1970/6/23、僕が、70年安保の混乱に愛想をつかせて学生運動(僕の所属党派は、アホな赤軍とは別)から身を引いて、その後に起きたこの事件だが、当然ながら、大きな関心を持っていた。

 
 60年安保の後、ブント(共産主義者同盟)は、分裂を重ね、65年の日韓闘争のころには、全国的に退潮を加速させていた。僕の大学でも、全学自治会のヘゲモニー(主導権)を他党派に奪われつつあって、その流れをカバーするべく、戦術上の過激さの度合いを強めていった・・・

  その中で、ブントの流れは、社学同(社会主義学生同盟)として、67年の羽田闘争、68年の佐世保闘争では、(3派系全学連)の1派として、実力闘争を行い、一時的には、外見的に、運動の盛り返しに成功したかのようにも見えた時期もあった。(これは、一点突破全面展開戦術とも 一揆主義ともいわれ、展望の無いアナーキズムで、本質は敗北主義だった)

 

 思想的には、当時のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)や、68年以後、線香花火のように打ち上げられた全共闘運動などと共通するアナーキズム・・・・それらとは、まったく異なるスターリニズム的軍事思想を持った彼らは、ソ連の個人崇拝・軍事力や工作活動による暴力的な対外政策・恐怖政治や大規模な粛清などを特徴とする全体主義を この日本で展開したということだ。

  赤軍自体、革命戦争を主体的に担う軍事組織だから、我々日本人の常識は、通用しない。日本で、住み続ける限り、日本の法律に合った運動を続けるのは、権利として、保障されねばならないが、日本の法律を犯して、犯罪者としてふるまう以上、日本の法律で、罰せられねばならないのは、当たり前の話だ。

 

現在、北朝鮮で生活している、赤木たち「よど号」の生き残りが、日本への帰国を希望しながら、もがき続けているが、(自分たちは、無実だ・・・)と主張しているそうだ。とんでもない話で、こういう話を聞くたびに、いつも、彼らの無責任行為で、テルアビブで、無差別に銃撃され亡くなった無関係の市民の命の事を考える。彼らによって引きこされた事件により、無残な人生の結末を迎えざるを得なかった多くの人々の命は、帰ってこないのだ・・・

彼らの罪は・・「殺人罪」以外にはないだろう。

 

平時での殺人行為は、法律では、罰せられるが、戦時中に、敵を何人殺しても(殺人)で、罰せられることは無い・・・それが戦争というモノで、敵を多く殺せば殺すほど、高い評価を受けて昇進するし、勲章すらもらえる。

 当時の日本赤軍や その後の連合赤軍の連中が、自分たちの無法は、戦争のルールに従ったまで・・・と、もし主張することがあるなら、僕は、絶対に許せない・・・当時も、今も、戦時ではないからだ。

 

あの、赤軍派の重信房子。何十年もたってから、恥ずかしすぎる(反省?)(自己批判?)をしたことを 前にも、このブログで紹介したことがある。

考えられない、子供のような稚拙な言い訳・・・には、正直、僕は呆れかえり、怒りの感情がいっぱいになった。

 「ニュースに取り上げてもらうような事件を起こすことで、自分たちの訴えをアピールしようとした」(重信房子)だと、彼女は(ほざいた)のだ。

また、重信が一連の事件を振り返り、「ほかのやり方があったら良かったし、手段を考える機会をもった方が良かった」と反省の言葉を口にしたこともあったという。(娘の重信メイ談)・・・

今ごろ「もっと他のやり方があった」(重信)と言われても、殺されたものは・・・永遠に浮かばれることは無い。なぜ、彼らを死刑にしないのだろうか? 

 

山岳アジト事件での12人の惨殺の加害者側の一人、植垣康博は、赤軍参加当時のころの事を、こう語っている・・・「高校の地学部の活動で、ニトロ化合物の爆薬を作った経験があり、それを知った赤軍派から『爆弾を作ってほしい』と依頼されたのです。当時赤軍派の詳しい理論は知らなかったが、革命のためには武装闘争も必要な時期に来ている、そう思って引き受けました。それが、赤軍派と関わるきっかけでした」

 何ということだろう・・・(赤軍派の詳しい理論は知らなかったが)、爆弾造りに参加したそうだ・・・「彼らは、勉強してない」「理論も、無い」という(革命ごっこ)だったということだ。

 この植垣らが、殺人行為に加担して、(総括)の名のもとに、反革命と見なしたメンバーたちを激しくリンチしたのだ。

リンチで殺害されたのは12人(妊娠8ヶ月の女性も含む)にもおよび、彼らは、殴られ、真冬の戸外に縛り上げられ、やがて絶命していった。その惨殺の方法はほかに、アイスピックで刺し、ナイフで心臓をえぐる、などと報道されている。

 

6970年、全共闘に参加していた学生たちから、僕たちは暴力を何度も受けたことがあるが、全共闘も赤軍とまったく同じで、(理論も無い、勉強もしない)・・・(遊び)だったのを、僕は良く知っている。

 だいたい、(革命運動)なんて(遊び)でするもんではないだろうが・・・!!!

そういう無責任な若者たちが、社会を改革(民主化)するのではなく、(革命と言う名の破壊)を楽しんで(遊んで)いたのだ・・・

 

いつも、当時の事を思い出すたびに、苦々しい思い出が、多くよみがえるのは、悲しい限りだ・・・

 この事件・・・勉強不足、情報不足を反省せず、全体主義の中国や北朝鮮に見て見ぬふりをするリベラルたちに通じるものがある・・・と思うが、どうだろう・・・・

 皆さんは、どう思われるか?    (はんぺん)

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

山岳ベース事件(ウイキペディアから)

総括・・・・

榛名ベースの「新党」においては、「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートするようになった。総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味し、当時の左翼政治運動家の間で好んで使われた思考法であった。

 連合赤軍において、総括対象者は最初は作業から外されるだけだったが、間もなく「総括に集中させるため」として、長時間の正座、食事を与えないなどされ、ついに殴打が加えられるに至った

 

この際に連合赤軍の最高幹部の森恒夫は、殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開した。

 この暴行はあくまで「総括」のための「援助」であるとされた[注釈 4]

暴行の対象者は日を追うごとに増えていき、死者を出すに至ったが、森らはこれを「総括できなかったための敗北死」とし、方針が改められなかったため、死者が続出することになった。

 

被害者らの死因は殴打による全身打撲や内臓破裂、氷点下の屋外にさらされたための凍死、食事を与えられなかったことによる衰弱死などであるとされる。

 一部のメンバーは森により「組織に対する裏切り」と断定され、「死刑」を宣告された。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺された後に絞殺された。

 

197112月末からの約2ヶ月の間に死亡したメンバーは12人にも上った。

犠牲者の中にはメンバー同士で恋仲であった者、兄弟であった者もいた。中には妊娠していた女性メンバーもいた。

証拠隠滅のため遺体はすべて全裸で土中に埋められた。

 連合赤軍事件の他にも多くの政治的過激派組織による殺人事件は発生しているが、当事者による事件の詳細な経緯の発表はほとんど行われておらず、事件の実態は闇の中となっている場合が多い。

 

そのような中にあって、本事件は事件を批判的に捉え返した詳細な記録が複数の当事者により発表されており、事件の実像に迫りやすいという点でも特異な事件である。

 






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最終更新日  2024.04.07 02:31:43
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