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2021.08.23
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カテゴリ:社会主義

シベリア抑留については、(捕虜は、終戦後は、速やかに帰国させる)という国際ルール違反であることはもちろんだ。

 

捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第三条約)

第十三条〔捕虜の人道的待遇〕

 捕虜は常に人道的に待遇しなければならない。抑留国の不法の作為又は不作為で、抑留している捕虜を死に至らしめ、又はその健康に重大な危険を及ぼすものは、禁止し、且つ、この条約の重大な違反と認める。


第二部 敵対行為の終了の際における捕虜の解放及び送還

第百十八条〔解放及び送還〕

 捕虜は、実際の敵対行為が終了した後、遅滞なく解放し、且つ、送還しなければならない。

 

シベリア抑留が、極めて重大な人権侵害であるが、(人権)(人権)と叫び続けてきた、戦後リベラルたちは、見て見ぬふりを続けてきた・・・そして、(社会主義の闇)に迫ることは無かったのだ・・・

 

戦後の日本では、1991年のソ連崩壊、そして、社会主義体制の崩壊までの相当の長い期間、(社会主義幻想)が、しつこく、リベラルたちを縛り続けてきた・・・・それを、僕たちは、苦々しい思いで、噛みしめてきた。僕自身が、そのダブルスタンダードの真っただ中に、身を置いていたから・・・・

 

(2枚舌の世界)に、身を置いてきた僕自身の不甲斐なさに、あきれ果てるし、今なお、自己批判無しで、(反省する勇気)を持てない弱小(になった)リベラルたちにも、さらにさらに、あきれ果てている。

 

46300人の名を読み、聞いて、その人がどんなふうに生きたのかを想像してほしい。」(本文)・・・想像力の乏しい人間に、歴史を、戦争体験を伝承することは、難しい・・・と言ってきた。

 

拉致問題、社会主義の人権問題など、予断と偏見、思い込みでしか、理解しようとしない人たちには、所詮、(反省)や(自己批判)は、無理なのだろうと、つくづく思う。

 

新社会党や社民党などの人たちだけを言っているのではない。

多くの無党派の個人全てについても・・・今でも、真実だと思う

 

皆さんは、どう思われるか?     (はんぺん)

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音楽による「洗脳」、大好きなアコーディオンが阻んだ帰国――95歳が若者に語り継ぐシベリア抑留

    2021-8-22      Yahoo!ニュース オリジナル 特集


「ちょっとやってみようか」と自宅に置いてあるアコーディオンを引っ張り出し、ロシアで演奏していた曲を聞かせてくれた新関省二さん。「楽譜を見なくてもすべて頭に入っている」(撮影:西村綾乃)(写真省略)

 

「話さなければ、風化してしまう」。新関省二さん(95)は、シベリアでの抑留体験を語り続けている。

 

旧ソ連の指導者・スターリンの指示で、1945823日に始まった強制移送。約575000人の元日本兵らが捕虜として連行され、寒さや飢餓により約55000人が命を落としたとされている。

 

厚生労働省は、「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」に基づき、死亡日や埋葬地などの調査を行っているが、15000人の経緯は今も不明だ。コロナ禍の中、記憶をどうつないでいけばよいのか。当事者や市民団体に話を聞いた。(取材・文・撮影:西村綾乃/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

 

朝起きると、隣で寝ていた人が死んでいた

「『ガタン、ゴトン』。列車が揺れる音を耳にすると、行き先も分からないまま貨車で移送された絶望の時間が思い出される」と新関さん(撮影:西村綾乃)

 

「国のため、立派に死にます」

 

新関省二(にいぜき・しょうじ)さんが遺書にそう記したのは18歳の時だ。「航空機に乗って敵の戦艦に突っ込み、華々しく散りたい」と、陸軍が新設した特別幹部候補生として千葉県柏の航空教育隊に入隊した。19447月に旧満州の第29飛行場大隊に転属し、整備兵として作業した。ある時、「天皇陛下からの励ましの声だ」とラジオの前に集められた。

 

「ガー、ガー」と雑音が響くだけの放送を聞き、持ち場に戻った。八路軍(中国共産党軍)が攻めてくるとの報を受け、退却のために南へ。飛行場があった大虎山(だいこさん、現在の中国遼寧省錦州市)でソ連軍に捕らえられた。「手を上げろ!」と突き付けられた短機関銃に部隊長以下全員が従った。

 

「惨めな格好でした。様子を見ていた満州の人が、両手を上げて身動きできない僕らのポケットから万年筆や時計などを奪っていってね。ソ連が来たのもおかしいし。疑問だらけだった」

 

玉音放送から約1週間後、ようやく敗戦したことに気が付いた。武装解除され、錦県(きんけん、現在の錦州市)の収容所に連れていかれた。兵器の片付けなどを命じられ、日々を過ごした。

 

104日、「ダモイ(ロシア語で『帰国』を意味)」と告げられ、貨車に詰め込まれた。1500人とともに母国を目指した。しかし、行けども行けども日本には着かない。ハルビンを通過した列車が到着したのは、ソ連との国境の街・黒河だった。

 

黒河を流れるアムール川が凍るのを待ち、歩いて対岸に広がるブラゴベシチェンスクの街へ。さらに貨車に乗り2カ月が過ぎたころ、下車した先で水辺と押し寄せる波が見えた。「ウラジオストクだ!」と拍手したが、舐めた水がしょっぱくない。身振り手振りで子どもに聞くと、海ではなくシベリア南東部にあるバイカル湖だと知った。「やられた! オレたちは捕虜になったんだ」と息をのんだ。

 

移送は夏服のまま。マイナス20度の寒さが新関さんたちを襲った。

「亡くなった仲間は、停車した先に放置した。墓なんて作れなくて、そのまま進んでね。かわいそうなことをしたよね」

 

ロシア中部のレニンスク・クズネツキーの収容所に着いたのは、128日の早朝。

「この日から、終わりが見えない強制労働が始まった」

 

ドイツ人捕虜と入れ替えで入った収容所で、最初に命じられたのは生活拠点となる宿舎づくり。年が明けてからは、炭鉱で18時間、3交代制で力作業をこなした。食事は黒パンと薄いスープという質素なもの。課せられたノルマを達成できないと、食事の量が減らされた。重労働、飢餓に加え、不衛生な環境下での感染症に苦しんだ。

 

「朝起きると、隣で寝ていた人が死んでいたこともあった。凍結した地面は硬く、満足に掘ることができなくて。裸にした遺体に雪をかけて安置したため、野犬や狼に食べられてしまうこともありました」

 

シベリア抑留体験者の画家・井上馨さんが描いたスケッチ(画像提供:シベリア抑留者支援・記録センター)

 

「入隊前は『国のために死のう』と思っていたけれど、仲間を送る中で『生きてやろう』と意識が変わりました。『あきらめるな。もう少しやればなんとかなる』」。励まし合っていた時、日本の上官から「慣れない仕事で、みんな参っている。楽器を買ってやるから、作業に出かける時に演奏してくれないか」と呼びかけられた。

 

中学2年生の時、父にアコーディオンを買ってもらったことがきっかけで、演奏家を夢見ていた。「仲間の力になれば」と快諾し、戦前のヒット曲「誰か故郷を想わざる」を奏で、背中を押した。

 

抑留生活が数カ月過ぎたころ、収容所内でギター、ドラム、尺八など7人ほど奏者を集めて楽団を結成した。週に23度、日本の流行歌や寸劇を披露した。収容所内の民主化(共産主義化)を図る一環で、音楽によって統制がとられようとしていた。

 

「僕は小柄だったから、スカートをはいて女装して舞台に立った。結構人気があってね。みんなが喜んでくれたのがうれしかった」

 

音楽による「洗脳」。帰国後は「アカ」だと差別

シベリア抑留体験者の画家・井上馨さんが描いたスケッチ(画像提供:シベリア抑留者支援・記録センター)

 

1948年の夏、新関さんは帰国対象者のグループに名を連ねた。何の前触れもなく、再び列車に乗るよう促された。到着したナホトカでは、シベリアはもちろんモンゴルなどの収容所から集まった約2万人が、日本からの船を待っていた。

 

「船が来ると5列縦隊で港に向かって、“あいうえお”順に名前が呼ばれていった。新関の『に』の声を待っていたら、名字が呼ばれないのに、次に移ってしまった」

 

「新関、どうしたんだ!」と叫ぶ仲間の声が遠くなっていった。1500人を乗せた船を見送った後、残された理由をたずねると、「お前はアルチスト(音楽家)として、仕事をすることになっている」と告げられた。

 

大好きなアコーディオンが、帰国を阻んだことにうろたえた。収容所に戻ると、同じ理由でトランペット奏者ら15人ほどが留め置かれていた。ソ連軍からアクティブ(活動分子)の一員として行動することを求められてからは、共産主義を学んだ。

 

ナホトカで乗船を待つ同胞に向け演奏したのは「スターリン讃歌」などの闘争歌。「洗脳」が目的だった。「スターリンへ忠誠を誓うと早く帰国できる」と噂が立ち、抑留者の中には、点数稼ぎのために仲間を告発したりつるし上げたりするなど、いじめも横行した。

 

「スターリン讃歌」など71曲の楽譜が日本語詞とともに掲載された「ソヴエート歌曲集」。新関さんは同書をアコーディオンの蛇腹部分に隠し、日本に持ち帰った(写真提供:シベリア抑留者支援・記録センター)

 

新関さんが京都・舞鶴に向かう引き揚げ船に乗ったのは4911月。帰国する抑留者の民主化運動のピークが過ぎたころだった。「山澄丸」のタラップに足をかけ、勇んで船内へ。案内されたのは船底だった。

 

「思想教育を受けた僕らは、『アカ』と危険視された。ほかの日本人と一緒にならないように隔離されて。舞鶴では警察の取り調べも受けた。待ちわびていた帰国も空しかった」

 

日本社会から疎外されたという怒りもあり、北海道札幌市にある実家には戻らなかった。自分たちを拒まない共産党本部(東京・代々木)へ急いだ。入党届を提出して向かったのは国会議事堂の前。日常を監視され、“日陰者”呼ばわりされるくやしさを、アコーディオンの音に乗せた。

 

「デモをする様子が翌日の新聞に載ってしまってね。それを見た親父たちは、生きていたという安堵があった一方で、変わった息子の姿を見て『これは真っ赤っ赤に染まったな』と驚いたって」

 

父と再会を果たしたのは、「国のため、立派に死にます」と遺書をしたためてから6年後。青森からの連絡船で函館に着くと、大雪が降っていた。

「惨めな格好をしているんじゃないか」と、父は札幌の自宅から兄のスーツを持ってきてくれていた。

 

「“アカ”になったと心配していただろうに、そんな気配はみじんも見せなかった。『着替えれば捕虜に見えないだろう』と渡されたズボンにホームではき替えて」

優しい心遣いに言葉が出なかった。ナホトカで見送った戦友たちも、帰国を喜んでくれた。

 

復員者で楽団を結成しようと、アクティブの仲間に誘われたが断り、持ち帰った楽器も譲った。勤め先を探したが「シベリア帰りは危ないと、どこも門前払いだった」。上京していた弟やいとこを頼り、25歳で東京に出た。元捕虜という事実を隠し、26歳の時、ようやく通商産業省(現・経済産業省)のある外郭団体に就職が決まった。

 

4年におよぶ抑留生活は、父と五つ離れた兄以外には口外しなかった。職場で出会った7つ下の喜子(よしこ)さん(88)は、兄が抑留兵だった。抑留先で命を落としていたことを知り、深い縁を感じて結婚した。2人の娘に恵まれた今では、長女の家族と、神奈川県横浜市内で同居。来年、小学校に上がるというひ孫が演奏するピアノに合わせて、アコーディオンで伴奏する日を心待ちにしている。

 

「戦争になれば、必ず捕虜が生まれる」

強制収容所内の様子を再現したジオラマ。東京・新宿にある「平和祈念展示資料館」に展示されている(撮影:西村綾乃)

 

新関さんが重い口を開くようになったのは、同じ収容所で過ごした仲間が集まる「シベリア抑留戦友会 レニンスク白雪会」の会長に任命されたことがきっかけだった。当時50代だった新関さんは「僕らが継承していかなくてはいけない」と覚悟を決めた。

 

「戦争になれば、必ず捕虜が生まれる。二度と誰にも経験してほしくない」

会を結成した直後は約500人が在籍していたが、高齢化が進み、現在は10人ほどだ。

 

シベリア特措法の制定から11年。厚労省はロシア側などから提出された死亡届などの資料と、日本側が持つ資料を突き合わせ、身元の特定を進めている。今年714日付の厚労省の文書「強制抑留の実態調査等に関する取組状況」によると、これまでに4586人の身元が分かっているが、2020年度に明らかになった数は151人と動きは鈍い。

 

シベリア抑留者支援・記録センターで、代表世話人を務める有光健さん(70)は昨年、オンライン会議アプリ「Zoom」を通じ、46300人の名を読み上げる企画を主催。様子は動画サイトで配信された。

 

きっかけは、第二次世界大戦中に虐殺されたユダヤ人102000人の氏名を、6日かけて読み上げる活動がオランダで行われたことを知ったことだった。

有光さんは、抑留経験者の村山常雄さん(享年88)が10年を費やして作成した名簿を活用することを考案。大学生から95歳の当事者まで、47人がリレー形式で約46時間をかけて、命の重さを伝えた。

 

当事者から直接話を聞ける時間は、あとわずか・・・

外村廉さん(撮影:西村綾乃)

 

読み上げ参加者の中には、曽祖父の戸倉勝人(とくら・かつんど)さんを亡くした大学院生の外村廉(とのむら・れん)さん(23)の姿もあった。旧満州で高級官僚だった戸倉さんは、1945年に少尉として入隊。終戦後、ハバロフスクの南に位置するホールの収容所に移送され、45歳で死亡したことが分かっている。

 

厚労省が公表している死亡者名簿では、戸倉さんが死去した日は49113日となっているが、日本政府が遺族に通知した日付は同年1027日だった。「病死」とされているものの、死亡日も含めて実情はあいまいだ。同居する78歳の祖母からは「共産化した若者と思想で対立し、暴力を受けて亡くなった」と聞いた。

 

2歳で生き別れたため、記憶はほとんどないそうです。僕と父がやり取りしていると、時々『お父さんと話ができてうらやましい』と言われる。やるせない気持ち」と視線を落とした。

 

勲章を付け、堂々と胸を張る戸倉さんの写真は家族に残された形見だ。「いつか曽祖父が最後に目にした、ホールの街を訪れてみたい」と思いをはせる。

 

2020年にオンライン上で開催した氏名を読み上げる企画の様子(写真提供:シベリア抑留者支援・記録センター)

Zoomを使った氏名の読み上げは、今年も823日の夜にスタートする。

 

「名簿に記された氏名、生年、階級、死亡日などから、それぞれの背景が浮かび上がってくる」と外村さん。中でも出身地に「朝鮮」と書かれた「トクヤマ・キデツ」さんが印象に残った。25年に生まれ48年に亡くなったトクヤマさんは、外村さんと同じ年頃。「何とも言えない無残さがある」と首を振る。

 

同会を主催する有光さんはこう言う。

 

46300人の名を読み、聞いて、その人がどんなふうに生きたのかを想像してほしい。当事者から直接話を聞くことができる時間は、あとわずか。実態解明に向け、政府だけが主体の事業から、民間やロシア側の地域住民らを含めた国際的な共同事業に発展させるなど、特措法の改正を求めていきたい」

 

「沖縄慰霊の日(623日)や終戦の日(815日)に平和を祈るように、823日を『抑留犠牲の日』として、国民全体が追悼する日になれば。収容所の跡地などをめぐるツアーや地元の人々との交流を企画するなど、戦争を知らない世代が『知る』機会を増やすことも大切です」






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最終更新日  2021.08.23 00:00:06
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