カテゴリ:中国
文化大革命・・・問題の本質は、人民の名による共産主義の蛮行だ。全体主義の脅威は、昔の出来事ではない・・・現代進行形の悲劇が、繰り返されている。 (はんぺん)
巨大な傷跡を残した中国の文化大革命・・・それは、(革命)の名に値しない(殺し合い)だったことが、多くの資料で、よくわかる。 2016年は、「文革50年」の節目の年であったが、中国では、文革に関する研究会も開けなかった・・・というのは、共産党独裁の真実を批判されるのを認めたくなかった・・・という事だろう。
中国共産党の、(文革評価)は、下記の(歴史決議)が、よく知られてきたし、しばしば、西側のメディアで、紹介されてきたが・・・習近平の時代になって、毛沢東の評価が、またまた歪められてきていることは、間違いない。
今の中国では、毛沢東、文革などに対する発言は、(タブー視)されつつあるようだし、そう遠くない期間を経て、称賛に変わるのではないだろうか??
習近平の毛沢東崇拝は、良く知られているが、その先に、何が待っているのか・・・・・天国か?地獄か? これは、誰にも押しとどめられない悲劇の序章なのだ・・・
(ウイキペディアから)・・・ 文革後の中国共産党の対応・・・ 1981年6月に第11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議(歴史決議)」では、文化大革命は「毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」として、完全な誤りであったことが公式に確認された。
毛沢東についても、「七分功、三分過」という鄧小平の発言が党の見解だと受け止められている。一応教科書[注釈 1]にも取り上げられるが、中華人民共和国は現在も実質上の言論統制下にあるため「林彪、四人組が共産党と毛沢東を利用した」という記述にとどまった。
2006年5月、文化大革命発動から40周年を迎えたが、中国共産党から「文化大革命に関しては取り上げないように」とマスコミに通達があったために、中華人民共和国内では一切報道されなかった。このように「文化大革命」に関しては中華人民共和国内のマスコミにとって触れてはいけない政治タブーの一つとなった。 以上、ウイキペディア) ――――――――――――――――――――――――――――――――
(文化大革命)での具体的な行為の数々・・・(ウイキペディア) 紅衛兵は、街路や病院などの名前を、勝手に「革命的」なものに変更して回った。例えば、ソ連大使館があった揚威路は「反修(反修正主義)路」、アメリカの資金で建設された協和医院(中国語版)は「反帝(反帝国主義)医院」など。
音楽などの芸術も迫害の対象となった。中国各地の芸術学校の教員はつるし上げの対象となり、研究も完全にストップした。国内では党のプロパガンダに沿った作品しか演奏・上映できず、迫害の対象となったモダニズムなどの数多くの作品が破壊された。外国の作品も取り上げることはできなかった。
毛沢東に忠誠を捧げる意味から、「毛沢東語録歌」にあわせて踊る「忠の字踊り」が強制され、踊らなかったら列車に乗せてもらえないことがあった。
また豚の額の毛を刈りこんで「忠」の字を浮き上がらせる「忠の字豚」が飼育された。
紅衛兵は、毛沢東が学校の休校を命じると、自らの学校を破壊し教師たちに暴行を加えたり教科書を焼き捨てた。その後学校が再開されると、教える人や教材もない有様で、中華人民共和国の発展に大きな障害となった。
吊るし上げ・・・「批判闘争大会」と呼ばれる吊し上げは、町の広場やスタジアムで大勢の群衆を集めて行われた。批判される者に対して「反革命分子」のプラカードと三角帽をつけさせ、「ジェット式」という椅子に立たせて上半身を折り曲げる姿勢を数時間とらせた。
その間に罵詈雑言を浴びせたり、墨を頭からかけたり、頭髪を半分剃りあげるなど肉体的精神的に痛めつけた。中には長時間の暴行に及ぶこともあった。また、辱めをあたえることもあり、1967年4月、劉少奇夫人の王光美は外国訪問の際に着用した夏用の旗袍を無理やり着せられた上にピンポン玉のネックレスを首からかけさせられ、ブルジョワと非難された。
当時の中華人民共和国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、その新聞を焚き点けに使ったり、尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
旧文化の破壊・・・紅衛兵らは旧思想・旧文化の破棄をスローガンとした。そのため、中国最古の仏教寺院である洛陽郊外の白馬寺の一部が破壊されたり、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓(定陵、1956年〜1957年発掘)で批判会が開かれ保存されていた万暦帝とその皇后・皇妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたりした。
陶磁器や金魚や月餅など、古い歴史を持つ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。芸術性よりも実用性が重視され、景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊された(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用した)[71]。
古くからのしきたりも廃止されたほか、麻雀や象棋、闘蟋(とうしつ)などの賭博を伴うゲームも禁止された。一方で処女を重視し、婚前交渉で妊娠した女性が自殺に追いこまれたり、多情な女性が軽蔑・攻撃されるなど古い倫理観は残ったと、ユン・チアンは著書で指摘している。
博物館の館員や美術店の店員は、文化財を破壊活動から守るために、文化財に毛沢東の肖像画や語録を貼り付けて回ったという。そうすることで、紅衛兵も破壊活動に出られなくなったという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.09.08 00:00:13
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