カテゴリ:学生運動
学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・ (反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (4) 2021-10-11 (はんぺん)
民青の集会にも誘われて、しぶりながらも参加していく。文化サークルの平和研(平和問題研究会)にも参加した。
その後、社研(社会科学研究会)にも誘われて参加。全大阪高校反戦集会や講演会、ベ平連の集会やデモにも参加。どんどん活動の場を広げていった。
進歩的風潮の高かった僕の高校では、民青(日共系)と反戦高協(反日共系、中核派系)が、(平和研)対(社研)という形で対立していた。
1967年の10.7羽田闘争では、三派系全学連(中核・社学同・社青同解放派)による、ヘルメット、角材戦術がクローズアップされて、マスコミなども(好意的)な報道を繰り返した結果、一時的に学園の雰囲気は、実力闘争やむなし・・・という雰囲気で盛り上がっていた。
そういう中で、高校生レベルでも、大阪規模の隊列が増え始める。 ヘルメットや角材、投石という戦術には賛成しないが、個人としての(べトナム反戦)の意思表明はするべきだ・・・という多くの市民・学生が、ベ平連の旗のもとに集まり始める・・・
70年安保闘争は、全共闘とベ平連を特徴とした(闘い)であり、それゆえ(敗北)は、必然であった・・・と、僕は総括している。
もちろん、べ平連を全面否定しているのではない・・・・ 誰でも参加できる・・・スローガンも(ベトナム戦争反対)以外は、好きなスローガンを勝手に掲げても良い。 時間のある人は時間を、知恵のある人は知恵を、お金のある人は(お金)を出し合って、一緒に行動しよう・・・
これで、インテリや学生たちだけでなはなく、宗教者や労働者、主婦や市民の多くが、参加した。運動の幅が広がることは、とても良いことで、多くの動員を実現したし、それをもって政府(権力)に要求を突きつける・・・
(ひとりべ平連)も含めて 多くの大小さまざまなグループや団体が、自分たちの(べ平連旗)を作って参加した。(政治の季節)の中で参加した者は、さらに刺激を受けて、自己を高める意欲を喚起することも・・・
婦人の権利平等や労働基本権確立などの労働問題、公害問題、憲法自衛隊など、福祉問題・・・ビラなどで、いろんな情報を発表することで、情報共有や更なる高みを目指す事も可能となる。
小田実や鶴見俊輔などが中心になって始めたベ平連・・・ ベトナム戦争の激化に伴い、1965年ごろから、意見広告やシンポジウムなどのユニークな活動もあって、少しづつ知られていった(ベ平連)は、やがて恐ろしい勢いで、全国化していく・・・1970年の反安保闘争がピークだったのではないか?? (サイゴン解放は、1975年)
1970年前後から、ベ平連を隠れ蓑にした新左翼・過激派の影響力が強まり、多くの参加者が退場していく・・・ 誰でも参加できるので、暴力集団(トロッキスト)の参加も(ベトナム戦争反対)であれば、参加を拒めない・・・これが、ベ平連の泣き所でもあったのだ。
「さらなる左傾化・暴力化・・・1971年以降は、三菱グループや東芝などの南ベトナムへの進出企業や、日立などの防衛産業、あるいは成田空港建設に対する殺傷テロ行動といった、ベトナム戦争の反対運動からは直接関係の無い左翼運動、暴力活動メインに対してシフトしていき、開高健をはじめとして組織の当初の目的から乖離した左傾化や集団化、暴徒化を嫌い運動から離脱していくものが増加した。なおこの頃は、新左翼集団「共労党」からのメンバーが多く、ベ平連と共労党を兼ねたメンバーにはいいだももや吉川勇一、栗原幸夫、武藤一羊、花崎皋平らがいる。」(ウイキペディアから) (注:この新左翼集団「共労党」というのは、1968年に我がDSLから分裂した学生グループの親組織(党)でもある・・・)
ベ平連は、思想的には、アナーキズムだ・・・と言ってきた。全共闘も、同じ。 組織論的には、極めて緩い(縛り)しか持たず、誰でも好きな時に参加でき、好きな時にやめることができる・・・というモノで、両者ともに共通している。
これが・・・全てだ・・・と、僕は言っている。
戦前・戦中の自由の無い暗い時代を経験してきた日本人は、何よりも自由に憧れたのだろう・・・絶対天皇制の抑圧の中で、投獄されたりした暗い時代を経験した世代を中心に、自由と民主主義、平和を希求する戦後民主主義が花開く。
我々戦後の団塊世代は、自由を謳歌するあまり、自由をはき違えて今日に至っている・・・抑圧と自由・・・絶対的な抑圧はありうるだろうが、絶対的な自由などは、よく考えてみればあり得ない・・・
自由が実現するためには、権利と義務を正しく理解したうえで語られるべきだろう・・・なんでも(自由)だとしての各人バラバラな自由社会など、想像するだけで野暮というモノだ。
社会には、国民合意の上でのルール(法律)が不可欠だ。これらのルールを全否定して「絶対的自由」をアナーキズムは主張する。ベ平連と全共闘は、思想的には、アナーキズムのレベルから一歩も進むことができなかったがゆえに、自滅の道を歩んだという事だ。
アナーキズムの思想に洗脳されると、全ての組織(必ずルールを持つ)を否定することになり、権力批判だけでなく、既成左翼批判、そして新左翼諸党派まで、批判の対象になる。 当初、中核や革マルなどの新左翼は、このベ平連や全共闘に潜り込んで、組織拡大の草狩場にするべく企んだようだが、どの党派(組織)も成功しなかったのは、そういうことだ。
アナーキズムの反対の極にあるのは、もちろんスターリズムだろう。 アナーキズムと対立してきた、革マル派など新左翼諸派(トロッキスト)たちが、スターリン主義的な中央集権指導体制を敷いているのは、うなづける。
ベ平連には、方針を的確に出せる指導部が無かった。小田実や鶴見俊輔、高畠通敏などの集団指導体制で、「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、緩い規律が売り物だったがゆえに、思想の異なる多くの市民の参加を勝ち得たが、その緩い規律ゆえの、弱みが露呈したら、解散に突っ走ることになった。(1974年1月に解散)
全共闘の自滅は、どうでも良いことだが、彼らの数々の暴挙のために、リベラルたちは、ひるまざるを得なくなり、元気をなくしていく。社会主義の結末が、あの山岳アジト事件、よど号乗っ取り事件とあっては、自民党政権批判の矛先も自然と鈍ることになっていった・・・・これが、彼らの犯罪性だ。
ベ平連は、もともと既成左翼にはできなかった(広範な市民層)に働きかけて行動提起し、運動のきっかけを作ったと言いう意味では評価されるだろう。既成左翼のように指導部隊が存在しなかったがゆえに、解体の方向に向かわざるを得なくなった。ベ平連の限界とは、そういう事だ。
左翼の指導部隊が不評で、官僚主義に堕していて、組織の形骸化が進む今、リベラル全体が、低落、衰退に向かっているのが現状だろう。 今後、国民の心をつかむ運動を、作り上げ、復権を成しうるのか?
あれほど盛り上がった?全国学園闘争は、70年安保をピークに急速に衰退した。 80年代後半には、学生運動組織自体が、次ぎ次ぎと姿を消していったという。 (青二才)の運動だったから、仕方ない・・・とも思う。
しかし、時代の危機に警鐘を鳴らした意義は、たとえ戦術は間違っていても、一定の評価はされるべきだろうと思う。
皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)
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最終更新日
2022.02.24 22:54:29
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