カテゴリ:学生運動
『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ② 2021-12-16 (はんぺん)
京大入学後は、すぐに中核派に加盟し、活動家として反戦運動に参加していくが、大学に入ってわずか半年、18歳と11カ月。佐藤訪ベト阻止闘争の中、羽田空港の弁天橋上で、亡くなった。
どちらかというと、派手ではなく、寡黙で、誠実な人間だったようだ。派手に演説をブツようなタイプではなかった彼が、その冷静さとは裏腹に、なぜ稚拙な(闘争)を容認して、その中に身を置いたのか? 不思議ではあるが・・・やはり、彼も(青2才)だったことがわかる。
人生経験で挫折や失敗を多く経験した大人・・・には、なりきれていなかった若造は、洗脳対象としては、格好の餌食だ。 あのオウム真理教では、相当優秀なエリート学生たちが洗脳されて、幹部に収まっていた。
(洗脳)の世界では、(常識)は、通用しない。(狂気の世界)が、正常であると錯覚させてしまう怖さがある・・・オウム真理教では、平気で(殺人)が、行われた。
学生運動でも、内ゲバで多くの殺人事件が起きたが、エリート学生といえども、洗脳されれば、平気で(殺し合い)に参加していく。 充分な理解も無く(社会主義)(共産主義)を振りかざして、(人民の平和と幸福のため・・・明るい未来のため)という大義のもと、(反革命)を(殲滅=せんめつ)するという・・・
山崎博昭は、高校時代から、反戦平和運動に参加してきた。大手前高校は、大阪府下でも、もっとも自由な雰囲気の下、自治会活動が展開されていたことで、知られていた。(僕も自校の反戦高協の活動家から、そのことは聞いていた)
彼が運動の中で、尊敬していた2年上の先輩が、先に京大に入ってすぐ、中核派で活動を始めたのが、山崎の運命を決定したようだ。この先輩は、当然、後から京大に入ってきた山崎を自派に誘うだろうし、山崎も断る理由などない。
(「きみが死んだあとで」134ページ) 「僕(岩崎)が(中核派に)入ったのは、赤松(大手前高校の2年先輩、京大の中核派)に連れられてというのが大きい。そう、人間関係です。はっきり言ってね、党派の考え方の違いがわかっている人って、あの頃、ほとんどいなかった。私もたいしてわかっていなかったし。 どの党派に入ったかっていうのは偶然みたいなもんで、大学行って内ゲバが激しくなったときには⦅なんでこんなこと、せなあかんねん⦆っていうのが本音でしたね。それが党派的な運動から離れるきっかけになったんだけど。憎いやつでもないのに、なんでこういうこと、せなあかんのかって。」(岩崎正人氏:大手前高校で同学年。立命大の元中核派)
(「きみが死んだあとで」164ページ) 「先輩に赤松さんがいたからね。赤松さんが先に京大に入って中核派に入ったから、山崎なんかも その延長線上で。 そのこと自体は、自然なことだったと思いますよ。だから、赤松氏がブント(社学同)を選んでたら 彼(山崎)もブントになっていたんじゃないだろうか」(佐々木幹郎:大手前高校同級生、同志社大、元中核派)
つまり・・・要は、それだけ、当時の活動家の理論レベルが、低かった・・・ということがわかる。彼らは、いくつかの党派の主張を聞いて、慎重に検討したうえで納得して、そのセクト(党派)に入ったのではなく、先輩後輩の人間関係などで、運動に参加していった・・・というのだ・・・・
まあ、それは、運動の中にいた僕としては、ようくわかる。その程度の人間たちが(革命)をがなりたてて角材を振るい、石を投げたのだ・・・ため息が出るではないか・・・・
何度も言ってきたように、多くのセクトの活動家は、スケジュール闘争やクラスオルグ、他派との主導権争いなどで忙しくて、実際には、言うほどには勉強してこなかった。そういう勉強しない人間が、他派との内ゲバ=「殺し合い」に参加していくことが、どんなにオドロオドロシイ事か! それは(狂気の世界)だ。
10・8(第1次、佐藤訪ベト阻止)が終われば、11・12(第2次羽田闘争、佐藤訪米阻止)、その後は・・・ 次から次へと設定された闘争スケジュールが、上から示され、末端の活動家は、その(ノルマ?)をこなすために、走り回るばかり・・・ こんな組織での活動を一生続けることへの疑問が生まれてきて当然だろう・・・多くの政治意識に目覚めた学生たちが疑問を感じて、運動から離れていったが、当時は、それを上回る若い新入生が運動に参加していき、補うことが出来た・・・という。
そもそも、(作られた大義)のために、盲目的に(兵隊)となってでも動く(活動家?)・・・それが、自分に課せられた使命だと、組織の加入したメンバーは考える・・・単純だと言えば、単純だが・・・僕自身も、その中の一員であったことは間違いない。
山崎博昭と僕と違いは何だったか? 僕の高校では、社研(反戦高協)と平和研(民青)との静かな対立があった。その中で、様々な議論を経験した。ベ平連などの盛り上がりも見られた時期で、選択肢は多かった。反戦高協しか選択肢の無かった山崎博昭とは、決定的に違っていたように思う。
人間的なつながり・・・というのも僕の場合、皆無だった。「学生運動をやるために、大学に入るんだ」というポジティブな自分だったが、どういう活動スタイルにするかは、入学してからの事と考えていた。
大学は、学生運動が関西でもっとも活発(過激?)と言われる○○大学を選択したし、高校卒業の時にクラス担任(共産党員)への挨拶では、わざわざ「学生運動で、頑張ります・・・」と嫌味を言ってのけたのは、懐かしい思い出だ。僕が、(反日共系)であることは、それなりに知られていたので・・・・
僕の場合、先輩が仮に居たとしても、それで(ホイホイ)とついていくようなこと、後から後悔するような軽はずみな行動は、サラサラ考えなかった。
何より、自分自身が大切であり、自分の将来を、他人に委ねるようなこと自体、あり得ないと思っていたのだ。
そもそも、我々、青2才が、決定的に重要な時期に、正しい判断を成しうるということ自体、相当あり得ないことではあったが、人間と言うのは、その時そのタイミングで、最良の判断をしたのだ・・・と思いたいモノだ。 後悔、先に立たず・・・??? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.03.10 13:26:20
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