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2021.12.17
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カテゴリ:学生運動

『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ③  2021-12-17 (はんぺん)


(きみ)とは、山崎博昭のこと。 大手前高校で反戦運動に関わり、京大に入って半年後に、1967108日、羽田闘争時、弁天橋上で、1811カ月の若さで亡くなった。

 

あの山崎博昭の死亡を受けて、ベトナム反戦運動などに関わってきた運動家やシンパ(支持者)の中には、自分も、もっともっとやらなければならない・・・と思った学生も多かっただろうし、その事件をきっかけにしてベトナム戦争に関心を持ち始めた人も、増えていったように思う。ベ平連「ベトナムに平和を!市民連合」のデモ参加者も、急速に増加していった。

 

焦りにも似た気持ちは、僕も同じで、なんとかしたいとの思いがフツフツと湧き上がってきたモノだった。

しかし、あの角材と投石という(原始的な)戦術(闘い方)には、大きな違和感があったのも事実で、多くの若者たちも同じだったと思う。

 

あの山崎博昭の死の半年後の、68年4月に僕は○○大学に入学している。(これから、いざ70年安保だ)というまさにグッドタイミングの時期だった。

 

あの当時は、多くの若者たちは、目の前の不合理なものに対する怒りがあったように思える。受験勉強というストレスは大きかったし、それを容認する日本社会に対する不満は大きかった。(1968年の受験生ブルース=高石ともや)

社会に目を向ける機会が増えていく中、ベトナム侵略戦争に加担してベトナム民衆を苦しめる日本政府への怒りが、純粋な正義感を突き動かしたのだ・・・

 

山崎博昭は、194811月生まれ、あの「二十歳の原点」の高野悦子は、19491月生まれだった。僕は、194912月生まれなので、山崎や高野とは、ちょうど歳は、1歳違いだ。

 

「二十歳の原点」は、もう何十年も前に買って読んだことがあるが、高野悦子は、(政治の腐敗や反戦平和など)にも関心を持ち、日本の現状を何とかしたいという思いは、多くの同世代の学生たちと同じだった。

 

・・・しかし(青2才)の悲しさで、常に自分と自分を取り巻く日本社会についての不安を抱え込んでいた。人生経験の未熟な若者が陥る自己喪失だったのか? 自分を見失ってしまい、迷路の中をさまよい続け、(革命)と(恋)に絶望して、最後には、鉄道自殺に至る顛末は、痛々しいと言える。

 

未熟なことは、罪ではない。それをとりまく環境が、彼、彼女を成長させうるか否かを決める。

 

今回のインタビュ14人の中の一人に、大手前高校で、山崎と同学年の三田誠広(作家)がいる。彼の作品「僕って 何」(芥川賞受賞)を以前読んだことがある。当時の学生運動の実情、雰囲気を、かなり正確に、うまく表現していて面白かった。(青2才)の学生たちが、中途半端で、かなりいい加減に運動に入っていった様子が、リアルに描かれている・・・三田は、早大文学部に入学し、あの(早稲田闘争)に参加している。

 

10811・12の羽田闘争、翌年1月の佐世保闘争は、学生運動のスタイルを大きく変えていった。その中で、学生戦線は混乱しはじめていく。

当時、関西の学生戦線、とりわけ、僕の大学では戦術論議が盛んになる。三派全学連を(暴力学生集団)と非難してきた民青グループは、さておいて、他党派間でも、角材投石戦術の評価は分かれていた。活動家同士の激しい論争も、日常のモノだった。

 

角材投石戦術には、理性的に認められないし、多くの国民の支持を得るための地道な活動、平和的なプラカードデモがベターだ・・・という自分と、日常性の中に埋没しベトナムの悲劇を他人事としか考えない国民に、耳目衝動的に(闘い)を提示し、目覚めさせるためにも一定の過激戦術は必要だ・・・という自分がいたのだ。

 

キャンパス上で、延々と繰り広げらた論争は、多くの新入生を当惑させたことだった。入学間もなく、全学自治会から、4.28沖縄デーに向けて(4・26教養部ストライキ)が提起された。自治会執行部の多数派からの提案に対して、民青は、反対。新入生を巻き込んでの多数派による強引な戦術は、間違いだ・・・という他のセクトも。

 

結局、学生大会では、教養部スト方針は成立しなかったが、67年の(10.8ショック)に刺激された過激志向の芽が、成長し続けていることが一目瞭然の学生大会だった。

 

僕は、(戦術論議)の中にいて、まだ迷い続けていた。自分の内部に、うずうずする実存的な部分? 溜まり続けていた権力への欲求不満のはけ口としての実力行動=過激性への衝動に振り回されていたのが真実だった。

 

僕は(反日共系)とみられていたこともあり、多くのセクトから、オルグを受けた。というか、自分から話を聞くように心がけた・・・それは、事実だが、どのセクトも他党派をけなすばかりで、僕の判断はつきかねていたのが、現実。

(青2才)が、(青2才)をオルグする・・・というわけだが、当然、自派に都合の良いオルグばかりを聞かされてしまう。

 

人生経験の乏しい(青2才)が、短期間にセクトを決めるということは、今になって思うに随分ひどい話だったと思う。どの党派も、クラス活動で、(高民=高校時代から民主青年同盟に入って活動経験がある)に対抗するためにも、即席のクラス活動家を喉から手が出るぐらいに欲していたのだから・・・

 

或る意味、僕は、「飛んで火に入る夏の虫」だったのだ。

4.28闘争の後に、5月になって行われた自治会選挙で、あるセクトから強烈に候補者擁立の打診を受けて、迷い続けている新人(僕のこと)に候補者を押し付けてしまうことに。

 

押し付けられた僕、迷路の中でウロウロしている僕を、自分たちのセクトに取り込んでしまおうという算段は、普通はあり得ない禁じ手だったと思うが・・・そこまで考える余地は、僕にはない状況だった。

 

自治会選の結果の惨敗は、誰もが予想できたのだが、そのセクトにとっては、一人のクラス活動家を獲得することが出来たので、不満は無かったと思われる。

 

人間関係で縛られて中核派に加盟した山崎博昭とは違って、充分な選択肢がありながら、自治会選挙をダシにした狡猾な罠(?)にはまってしまった自分が、今となっては、とても情けなく思う。もっと時間をかけて、慎重に構えるべきだったと今では反省するばかりだ。

 

しかし僕の場合、この選択が、(吉)と出たから・・・人生は、不思議なものだと思う。ちょっとした(サジ加減)で、人生が大きく左右されることが、この歳になって、ようくわかる・・・!!!

 

山崎博昭は、京大入学後すぐ「革共同(革命的共産主義者同盟)中核派に加盟した。その5月に、中学時代からの親友に出した手紙が見つかっている。

(「きみが死んだあとで」134ページ)

「T君。元気ですか。手紙を出すのがおくれて申し分けない。出せるときもあったのだが、ついなまけぐせが出て、他の事に手が移ってしまい、本当に申し分けない。

・・・実は僕、ついに学生運動に飛び込みました。全く、飛び込んだというのが一番いいでしょう。これから先、どうなるか分かりませんが、一生懸命にやるつもりです。

・・・学生運動といっても、これは革命運動なのだよ。革命。現在の社会体制をブッつぶすんだよ。夢じゃありません。想像でいってるんじゃありません。僕達は、つぶさねばならないと考えているのです。

そして、僕たちの手で、僕達による本当の直接民主制を創っていくんだ。(後略)

 

―――――――「人生は革命と恋」―――――太宰治

さようなら

19675191100PM   山崎博昭

 

というモノだった。

それは
彼が選んだ人生だが、彼がもし羽田で死ななかったら、どんな人生を歩んでいたか・・・? 僕には、ある程度は、想像できる。それは、今現在の日本をみれば、わかること。大手前高校時代から、彼には選択肢が与えられてこなかったことに、彼の究極の不幸があっただろう。仮にあの時、死ななくても・・・だ。






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最終更新日  2024.04.22 18:08:01
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