カテゴリ:学生運動
『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ⑤ 2021-12-30 (はんぺん) 10:8羽田闘争の(山崎博昭の死)に 僕が背中を押された・・というのは、当時、確かにある。
たまたま日本本共産党の(赤旗祭り)とバッティングしたことで、(闘わない日共=民青)という決定的な(評価)が定着したことは、共産党にとっては不幸だったが、あの時に、共産党式の平和なデモ(=『お焼香デモ』と批判された)で、あれだけの(ショック)を日本全国に与えることは、できなかったことは確かだ。
おまけに共産党は、反暴力キャンペーンで、(三派全学連=トロツキスト=暴力集団)に非難を浴びせ続けたのだから、ますます(闘わない日共=民青)が定着していく。
高校三年時、反戦高協(社研)対民青(平和研)の対立の中で、僕の舞い上がった英雄主義は、社研志向に傾いていく。
僕たちの高校も、一応 進学校で、ほとんど100パーセントが大学進学だったと思うが、毎回のテスト後に職員室の前に点数と順位が張り出される・・・そんな受験体制に反発を覚えた自分・・・
・・・ちょうど親や、社会に対する(反抗期)にもあたり、これで僕の「学生運動幻想」にさらに弾みがついた。あの10・8羽田以後、翌年4月の大学入学まで、僕は、舞い上がり続けていたのだから。
10.8以後の僕は、強いられた(!)受験勉強に手を抜くことはなかったが、他方で1月の佐世保闘争などに注視し続けていたし、入学後の(学生運動という未来)にワクワクしていたのだ・・・
しかし、今(人生総括)にあたっては、確信をもって言えることだが「山崎は、間違っていたし、背中を押された僕自身も、(誤ち一歩手前)だった」ということだ。
死んだ山崎には、もはや「総括」はできないが、生き続けてきた僕には「総括」できるし、しなければならないと思っている。
あの上野千鶴子(東大名誉教授)・・・ 山崎と同じ京大文学部に67年4月、山崎博昭と同期で入学した彼女は、同期生の死を受けて山崎の追悼デモに初参加し、京大全共闘の活動家になったというが、いま、リベラルの旗手として活躍している彼女も、闘争のバリケードの中でも女性差別を経験したという。(ウイキペディア)
その時を振り返った今の心境を聞いてみたいのだが、あの時代、限られた情報しか無い中で、多くのリベラルたちが、選択を迫られたのは、残念な事実だ。 ソ連や中国は、厳重な報道管制を敷き、(不都合な真実)を隠し続けてきたのだ。
社会主義体制内の反民主性、人権不在、密告制度、特権階級の存在などを確実に知ることが出来たのは、ソ連崩壊の後だった。(それまでも、チラチラ漏れ伝えられたことはあったが、無視されるか、理由をつけてすぐに否定され・・・の繰り返しだった。
ただ・・・この「きみが死んだあとで」の中で登場するインタビューで、興味深い事・・・それは、多くのメンバーが、70年6月のピーク(安保自動延長)を待たずに、早々と組織を離れていることだ。 いろんな事情があったのだろうが、きちんと総括できていないことに、僕は極めて不愉快に感じている。
『きみが・・・』は、彼らが組織を離脱した理由や闘争をやめた理由をもっと詳細に聞き出すべきだったのではないか・・・。それをあいまいにして、当時の学生運動を美化する傾向には強く反発する僕がいる・・・そのような(総括)こそが、「きみ=山崎が死んだあとで」なされるべきであったハズである。
彼らは、僕に言わせれば(逃げるように)運動から距離を置いている。僕自身、組織を離れたのは、運動そのものに強烈な違和感を感じたからだ。目指す目的と違う運動の流れに、拒否感を感じた。
70年6月15日の街頭闘争後、すぐに組織を離れた。しかし(社会主義幻想)から脱却したのでもない自分は、地元の某政党支部(高校3年時代から繋がりを持っていた)の地道な地域活動に参加して、社会変革の道を探ることになる。
71年4月、正式に入党加盟書を提出し、地域活動が、始まった・・・が、(社会主義幻想)の呪縛のため、その後、25年近く、各種選挙などに明け暮れる生活を送ることになった(どうして、いつまでも幻想にしがみついてしまったのか!)後悔先に立たずで、貴重な時間を費やしたことが悔やまれる・・・・
山崎の同期や先輩たちの多くが、10:8羽田の後、早々に学生戦線から退場したことは、僕の経験から見て、ある程度は理解できる。彼らは、(生き延びた)のだ。しかし、きちんとした(総括)は、されていない・・・
東大全共闘の当時、安田講堂内の壁に書かれたという「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する。」は、 僕に言わせれば(お前ら、勝手にせいよ! )ということだ。 (何の意味も無い、独りよがりの敗北主義! )
(リベラルの運動全体)に水を差すような、勝利の可能性がゼロの機動隊との攻防戦(!?)・・・こんな英雄主義、ニヒリズムで、リベラル全体が大打撃を受けたという事だ。これは、(闘争)ではなくて(犯罪)だ。
学生運動の時期、夜間に各種の会議をこなし、翌日の情宣ビラづくり・・・ヤスリと鉄筆で(ガリ切り)をし終えて、謄写版のローラーを操作しながら、明け方まで休めない日が続いたことを、昨日のように思い出す。あれも青春・・・と言ってしまえば、それまでだが・・・
「今やらねば、いつやるか!」という強迫 山崎(10.8)も、樺(60年安保)も、高野(二十歳の原点)も、赤軍や他の多くの内ゲバ犠牲者たちも、みんな未熟だったのだが、若いがゆえに背伸びして・・・背伸びしすぎて、傷つき、殺されたモノも多かった。
彼らが、迷いながら(確信を持てずに)というか、(確信したと錯覚して)身を投げ出したことに、哀れを感じることはあるが、殺人などの犯罪そのものにかかわったことに対しての厳しい糾弾は、欠かせない・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.02.08 04:03:14
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