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2022.01.06
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カテゴリ:学生運動

『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ⑥  2021-1-5   (はんぺん)

(きみ)とは、山崎博昭のこと。 1967108日、第一次羽田闘争で、山崎は、3派全学連の中核派の一員として(闘った!?)そして、機動隊の実力(暴力)で亡くなった・・・・

 

「独りであること、未熟であること、これが私の原点である」(「二十歳の原点・・高野悦子)の書き出し)・・・には、ため息しか出ない・・・

 

6710.8闘争で、羽田・弁天橋上で亡くなった山崎博昭も、60年安保闘争時、国会前突入時に機動隊との(闘い)の中で亡くなった樺美智子も、失恋と革命幻想に打ちのめされて鉄道自殺した、立命大全共闘の一員だった高野悦子も、72年山岳アジト事件などで、仲間に殺された若い連合赤軍メンバーたちも、60年代後半から頻発し、10数年の間に100名以上が殺されたり、5,000名以上が傷ついた(内ゲバ事件)のメンバーたちも・・・みんな(青2才)の若者たちだった。

 

彼らは、確信をもって、その行動に至ったのではない。大きな流れの中で迷いながらも、他の選択肢を見つけ出すことが出来なかったのだ。

 

多くの同期の仲間(中核派)や先輩たちが、70年を前にして、早々と戦線離脱していったことには、驚いた・・・が、もともと確たる理論も無く、人間関係で(運動参加)していった学生たちが、手の平を返すように、運動から距離を置くのは自然と言えば自然であったが、しかるに(自己総括)できないのも、自然であったということだ。

 

山崎は、64年に大手前高校に入学して、その後(反戦高協)のオルグを受け、高校2年の65年には、日韓闘争のデモに参加し、66年の大阪の(反戦高協)結成にも参加、組織員として各種闘争を経験。674月京大入学後、5月には(中核派)に正式加盟、砂川闘争や(三派全学連)大会にも参加。そして、10.8羽田闘争・・・と続く流れ。

 

組織に入る(加盟する)とは、そういうことで、社会変革するというのであれば、(闘争)課題が途切れることは無い・・・組織員は、24時間闘うことに(闘わされることに)なる。勉強する時間などは・・・無いし、上(指導部)もそれを求めない。忠実な良き(兵隊)を期待するのだから・・・

 

これが、組織的拘束の無い(ベ平連)や(全共闘)などの個人参加の集団との決定的な違いだろう。

 

僕の経験から言っても、とても勉強する時間は無かった・・・山崎は、10.8羽田に向かう時に、10数冊の本(文庫本だと思うが)を持っていったという事だが、彼は、よほど自身の勉強不足を気にする真面目な人間だったと思う。

 

普通、こんな闘争時に勉強しようなどと考えること自体、あり得ない・・・機動隊との衝突が既定路線の彼らには特にそうだろう・・・・

 

彼の場合、大学入学後に、すぐ組織の一員となったために、組織の要請に、応えねばならなかった。機関活動(各種会議、情宣活動)、街頭闘争参加は、スケジュールで迫ってくるし、逡巡している間もない。

 

『きみが死んだあとで』の中でも、高校同期の中核派メンバーがインタビューで・・・「いつ(運動を)やめる・・・?」「いま、それを言うなよ・・・」とのやり取りが、何度も繰り返されたと答えている。

 

組織と個人の関係性で悩みぬいていた当時の状況は、組織の中にいた僕には、ようくわかる。

 

中核派は、他のセクトを暴力的に(ゲバルト)で、徹底的に潰しにかかっていたことでは有名だ。意見の違う他セクトを殲滅するためには、平気でゲバルトを行使して恥じなかった。

 

山崎博昭が、もし今生きていたら、君たち(中核派)による暴力が運動にとってどんなプラスがあったのか? 聞いてみたいものだが・・・彼がもし、人生に誠実に向き合おうという生真面目な人間であれば・・・その解答には、相当悩んだことだろう・・・・

 

多くの大手前高校同期生が、京大、立命、同志社などの中核派、早稲田の革マル派などに加盟して、権力に戦いを挑むつもりが、自分たちが考えていた(運動)とは違っていて絶望(?)し、多くの仲間たちが68年、69年に、すでに(運動)を止めている・・・という現実。

 

・・・頭の切れる彼らには、絶望的な展望という認識の故、職業的革命家の道を早々と断念したモノだが、その後の内ゲバ(殺し合い)の嵐が吹き荒れることを考えると、賢明な判断だったともいえる・・・

 

しかし、(総括)抜きの(撤退)は、無いだろう・・・それは、自分にも、オルグした相手(他者)に対しても、無責任の極みだ!!!!

お前ら、エリートだったんだろう・・・!!!!

 

(山崎博昭時代の前後の簡単な出来事)

1960年6月15日  60年安保闘争時、国会前デモで、樺美智子、死亡。

19634月  革共同(革命的共産主義者同盟)、中核派と革マル派に分裂

19644月  山崎博昭、大手前高校に入学

19652月  アメリカが北爆。ベトナム戦争が激化。

1965年4月24日 ベ平連が、初めてのデモ

19655月  社研部長:岩崎の呼びかけで「マルクス主義研究会」結成。山崎博昭も参加。

   8月~10月 日韓基本条約批准阻止闘争に大手前高校から、山崎も参加。

196511月  文化大革命始まる

19661月  早大全学ストライキ

1966年4月  反戦高協大阪府委員会結成。

19665月  中国で紅衛兵運動始まり、大混乱に・・・

19661217日  三派全学連結成(中核派、ブント、社青同解放派)

19675月  山崎博昭、中核派に正式加盟。砂川闘争に参加。

19677月  山崎、全学連大会に参加。

1967106日  山崎、羽田闘争に向けて、深夜バスで京都を出発。

1967107日  山崎たちは、法政大学で宿泊。

1967108日  山崎、第1次羽田闘争(佐藤栄作首相南ベトナム訪問阻止闘争)に参加。弁天橋で死亡(享年18歳)

19671017日  「虐殺抗議山崎博昭君追悼中央葬」

19671111日  由比忠之進が、佐藤訪米に抗議して焼身自殺。

19671112日  第2次羽田闘争(佐藤首相訪米阻止闘争)

19671113日  ベ平連、米軍脱走兵援助活動を公表

1968年1月1721  佐世保エンタープライズ入港阻止闘争

1968129日  東大医学部スト・・・東大闘争始まる・・・

19682月~4月  王子米軍野戦病院反対闘争

19685月  フランスで、パリ5月革命

1968527日  日大全共闘結成(議長:秋田明大)・・・日大闘争始まる・・・

1968615日  東大安田講堂バリケード封鎖。二日後、機動隊導入。  72日、安田講堂再封鎖。

196875日  東大全共闘結成。

1968820日  ワルシャワ条約軍(ソ連軍)、チェコのプラハに侵攻

19681021日  国際反戦デー・新宿騒乱事件

19681122日  東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会

1969118日  東大安田講堂攻防戦

19692月  京大闘争始まる

196995日  全国全共闘結成大会

1969年  赤軍派結成集会

1969115日  赤軍派、大菩薩峠事件

1970321日  赤軍派による(日航機よど号ハイジャック事件)

1970615日  日米安保条約自動延長

197084日  内ゲバによる初の殺人事件(海老原事件)

1971124日  関大で、中核派が革マル派2名を殺害。

19717月  赤軍派と革命左派が、連合赤軍を結成

1972219日~28  連合赤軍、あさま山荘銃撃戦。その後リンチ殺人が発覚(14名)

1972530日  日本赤軍がテルアビブ空港乱射事件を起こす。

1973127日  ベトナム和平協定(パリ協定)調印

1973年~   中核派、革マル派、社青同解放派による内ゲバ(殺し合い)が、激化。80年までに、100名以上が死亡。

1975430日  サイゴン陥落。ベトナム戦争終結。

―――――――――――――――――

20147月  山崎博昭の兄・山崎建夫の「10.8山崎博昭プロジェクト」が発足。






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最終更新日  2022.01.09 20:23:47
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