カテゴリ:学生運動
『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ⑥ 2021-1-5 (はんぺん) (きみ)とは、山崎博昭のこと。 1967年10月8日、第一次羽田闘争で、山崎は、3派全学連の中核派の一員として(闘った!?)そして、機動隊の実力(暴力)で亡くなった・・・・
「独りであること、未熟であること、これが私の原点である」(「二十歳の原点・・高野悦子)の書き出し)・・・には、ため息しか出ない・・・
67年10.8闘争で、羽田・弁天橋上で亡くなった山崎博昭も、60年安保闘争時、国会前突入時に機動隊との(闘い)の中で亡くなった樺美智子も、失恋と革命幻想に打ちのめされて鉄道自殺した、立命大全共闘の一員だった高野悦子も、72年山岳アジト事件などで、仲間に殺された若い連合赤軍メンバーたちも、60年代後半から頻発し、10数年の間に100名以上が殺されたり、5,000名以上が傷ついた(内ゲバ事件)のメンバーたちも・・・みんな(青2才)の若者たちだった。
彼らは、確信をもって、その行動に至ったのではない。大きな流れの中で迷いながらも、他の選択肢を見つけ出すことが出来なかったのだ。
多くの同期の仲間(中核派)や先輩たちが、70年を前にして、早々と戦線離脱していったことには、驚いた・・・が、もともと確たる理論も無く、人間関係で(運動参加)していった学生たちが、手の平を返すように、運動から距離を置くのは自然と言えば自然であったが、しかるに(自己総括)できないのも、自然であったということだ。
山崎は、64年に大手前高校に入学して、その後(反戦高協)のオルグを受け、高校2年の65年には、日韓闘争のデモに参加し、66年の大阪の(反戦高協)結成にも参加、組織員として各種闘争を経験。67年4月京大入学後、5月には(中核派)に正式加盟、砂川闘争や(三派全学連)大会にも参加。そして、10.8羽田闘争・・・と続く流れ。
組織に入る(加盟する)とは、そういうことで、社会変革するというのであれば、(闘争)課題が途切れることは無い・・・組織員は、24時間闘うことに(闘わされることに)なる。勉強する時間などは・・・無いし、上(指導部)もそれを求めない。忠実な良き(兵隊)を期待するのだから・・・
これが、組織的拘束の無い(ベ平連)や(全共闘)などの個人参加の集団との決定的な違いだろう。
僕の経験から言っても、とても勉強する時間は無かった・・・山崎は、10.8羽田に向かう時に、10数冊の本(文庫本だと思うが)を持っていったという事だが、彼は、よほど自身の勉強不足を気にする真面目な人間だったと思う。
普通、こんな闘争時に勉強しようなどと考えること自体、あり得ない・・・機動隊との衝突が既定路線の彼らには特にそうだろう・・・・
彼の場合、大学入学後に、すぐ組織の一員となったために、組織の要請に、応えねばならなかった。機関活動(各種会議、情宣活動)、街頭闘争参加は、スケジュールで迫ってくるし、逡巡している間もない。
『きみが死んだあとで』の中でも、高校同期の中核派メンバーがインタビューで・・・「いつ(運動を)やめる・・・?」「いま、それを言うなよ・・・」とのやり取りが、何度も繰り返されたと答えている。
組織と個人の関係性で悩みぬいていた当時の状況は、組織の中にいた僕には、ようくわかる。
中核派は、他のセクトを暴力的に(ゲバルト)で、徹底的に潰しにかかっていたことでは有名だ。意見の違う他セクトを殲滅するためには、平気でゲバルトを行使して恥じなかった。
山崎博昭が、もし今生きていたら、君たち(中核派)による暴力が運動にとってどんなプラスがあったのか? 聞いてみたいものだが・・・彼がもし、人生に誠実に向き合おうという生真面目な人間であれば・・・その解答には、相当悩んだことだろう・・・・
多くの大手前高校同期生が、京大、立命、同志社などの中核派、早稲田の革マル派などに加盟して、権力に戦いを挑むつもりが、自分たちが考えていた(運動)とは違っていて絶望(?)し、多くの仲間たちが68年、69年に、すでに(運動)を止めている・・・という現実。
・・・頭の切れる彼らには、絶望的な展望という認識の故、職業的革命家の道を早々と断念したモノだが、その後の内ゲバ(殺し合い)の嵐が吹き荒れることを考えると、賢明な判断だったともいえる・・・
しかし、(総括)抜きの(撤退)は、無いだろう・・・それは、自分にも、オルグした相手(他者)に対しても、無責任の極みだ!!!! お前ら、エリートだったんだろう・・・!!!!
(山崎博昭時代の前後の簡単な出来事) 1960年6月15日 60年安保闘争時、国会前デモで、樺美智子、死亡。 1963年4月 革共同(革命的共産主義者同盟)、中核派と革マル派に分裂 1964年4月 山崎博昭、大手前高校に入学 1965年2月 アメリカが北爆。ベトナム戦争が激化。 1965年4月24日 ベ平連が、初めてのデモ 1965年5月 社研部長:岩崎の呼びかけで「マルクス主義研究会」結成。山崎博昭も参加。 8月~10月 日韓基本条約批准阻止闘争に大手前高校から、山崎も参加。 1965年11月 文化大革命始まる 1966年1月 早大全学ストライキ 1966年4月 反戦高協大阪府委員会結成。 1966年5月 中国で紅衛兵運動始まり、大混乱に・・・ 1966年12月17日 三派全学連結成(中核派、ブント、社青同解放派) 1967年5月 山崎博昭、中核派に正式加盟。砂川闘争に参加。 1967年7月 山崎、全学連大会に参加。 1967年10月6日 山崎、羽田闘争に向けて、深夜バスで京都を出発。 1967年10月7日 山崎たちは、法政大学で宿泊。 1967年10月8日 山崎、第1次羽田闘争(佐藤栄作首相南ベトナム訪問阻止闘争)に参加。弁天橋で死亡(享年18歳) 1967年10月17日 「虐殺抗議山崎博昭君追悼中央葬」 1967年11月11日 由比忠之進が、佐藤訪米に抗議して焼身自殺。 1967年11月12日 第2次羽田闘争(佐藤首相訪米阻止闘争) 1967年11月13日 ベ平連、米軍脱走兵援助活動を公表 1968年1月17~21 佐世保エンタープライズ入港阻止闘争 1968年1月29日 東大医学部スト・・・東大闘争始まる・・・ 1968年2月~4月 王子米軍野戦病院反対闘争 1968年5月 フランスで、パリ5月革命 1968年5月27日 日大全共闘結成(議長:秋田明大)・・・日大闘争始まる・・・ 1968年6月15日 東大安田講堂バリケード封鎖。二日後、機動隊導入。 7月2日、安田講堂再封鎖。 1968年7月5日 東大全共闘結成。 1968年8月20日 ワルシャワ条約軍(ソ連軍)、チェコのプラハに侵攻 1968年10月21日 国際反戦デー・新宿騒乱事件 1968年11月22日 東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会 1969年1月18日 東大安田講堂攻防戦 1969年2月 京大闘争始まる 1969年9月5日 全国全共闘結成大会 1969年 赤軍派結成集会 1969年11月5日 赤軍派、大菩薩峠事件 1970年3月21日 赤軍派による(日航機よど号ハイジャック事件) 1970年6月15日 日米安保条約自動延長 1970年8月4日 内ゲバによる初の殺人事件(海老原事件) 1971年12月4日 関大で、中核派が革マル派2名を殺害。 1971年7月 赤軍派と革命左派が、連合赤軍を結成 1972年2月19日~28 連合赤軍、あさま山荘銃撃戦。その後リンチ殺人が発覚(14名) 1972年5月30日 日本赤軍がテルアビブ空港乱射事件を起こす。 1973年1月27日 ベトナム和平協定(パリ協定)調印 1973年~ 中核派、革マル派、社青同解放派による内ゲバ(殺し合い)が、激化。80年までに、100名以上が死亡。 1975年4月30日 サイゴン陥落。ベトナム戦争終結。 ――――――――――――――――― 2014年7月 山崎博昭の兄・山崎建夫の「10.8山崎博昭プロジェクト」が発足。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.01.09 20:23:47
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