カテゴリ:学生運動
学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (7) 2022-1-10 (はんぺん) 前回6.15御堂筋デモの記述の中で、「5知識人アピール」のことを少し書いた。 (組織問題)は保留して「課題の一致」に基づく「行動の統一」という呼びかけだったが、ベ平連などの緩やかなグループについては、効果はあったが、ことセクトが絡んでくると、一筋縄ではいかなくなる。 このアピールに欠けているもの、それは「戦術の一致」・・・は、当時から気になっていたが、現実問題として難しかったとも思う。それまで主流だった全員加盟制自治会や府県学連が正常に機能していれば、集団ごとに(戦術)は、決められることになり、是非は別として、それはそれ・・・だと思うが、68/6/15の御堂筋デモの時の市大のように、学生自治会が(小党分立で)機能を失っているにも関わらず、大学単位で行動する場合、トラブル発生は避けられなかった。 これは、全国的にも自治会崩壊が進む中で、党派運動が突出してくる流れは、止まらなかった。
大阪市大の場合、DSL(共労党系)の最大拠点校であった事、にも拘わらず文学部を中心にDSL(声系)が一定程度存在し、旧DSL市大支部内で、分派闘争が激烈だったこと、3月の分裂以後、様々な暴力事件やイヤガラセがあった・・・経過の中で、その後の市大運動に大きな影響を与え続けていった。 1回生の僕は、その混乱の中で翻弄されていったということだ。 理性的な自分と、情緒に流される自分がいたことは、前に書いた。 あの6.15御堂筋デモ、本町4丁目の機動隊の阻止線の情景を今でも思い浮かべることが出来る。
あのジュラルミンの盾の壁・・・機動隊員たちは、ビシッと線状に並び、ジュラルミンの盾をすき間なくセットして腰を低く構えて待ち構える。 あれは、僕たちにとっては、まさに(挑発)そのものだったように思えた。「いつでもやってこい、ケチらせてやる・・・」という(挑発)に・・・ 衝突は、僕の記憶では2回あったと思う。1回目の突入では、機動隊の壁に阻まれ・・・圧倒され総崩れになった。そのあといったん後退して、さらに2回目の突入をするというので、崩れてバラバラになった学友たちを再編成して隊列を組ませた。
この時の僕は、理性の僕ではなく、トロツキスト(過激派)に変身した僕だった。入学後から、迷いに迷っていた僕の一面が表に出てしまったのだ。(突入)に反対していたDSL(声系)の立場とはウラハラに、(突入派)への変身だ。 2回目の突入のための隊列の再編成を率先して呼びかけ回っていた自分がいた・・・今から思えば、何たる愚かさ・・・とは思うが、あのジュラルミンの盾の壁を見て興奮している自分がいた。
これって、あの羽田事件の三派全学連や 10.21新宿騒乱事件の学生たちと、いったいどこが違うのか・・・??今から思い出しても恥ずかしい限りなのだが、あの時の僕は、(敵は佐藤栄作ではなく、機動隊だったのだ)。 2回目の突入も、機動隊の壁は破れず、隊列は総崩れになった。それは、当たり前のことで、日ごろから実戦訓練ばかりしている頑健な機動隊に、ひ弱な学生集団がぶつかっていって勝てるわけはない・・・と冷静になれば、誰にでもわかる。
学生運動時代の苦い苦い思い出だ。 僕が、DSL(共労党系)に加盟していても、まったくおかしくなかった・・・と時々思う。それは、山崎博昭の大手前高校の同期生たちが、理論からではなく人間関係から中核派に加盟したのと同じで・・・僕たちは(青二才)だったのだ。
6.15闘争が終わって帰宅してから、あの日記を書いたときには、冷静な自分を取り戻していたが・・・人間というのは、極限状況に追い込まれたら、常軌を逸する行動に出ることもあるのがわかる。
1年ほど後の事だが、キャンパスを歩いていて、ぞっとする景色を見ることがあった。社学同の活動家Iさん(僕と同じ高校出身)が、真っ赤な目をしてこちらに歩いてきた。その目が、真っ赤に腫れあがっていた。充血と言ったモノでは無い。出血で目全体が真っ赤に腫れあがっていたのを初めて見て、恐ろしかった。機動隊との(闘争?)で、被ったものに間違いない。
また、別の日、プロ学同のXさん(理学部)が、こちらに歩いてきたが、顔の形が全く変わるほどの凸凹に変形していて、びっくりしたものだ。こんな状態で、(入院もせずに)普通に歩いていたので・・・不思議な気がした。 多くの学生たちが、圧倒的な機動隊との(闘争!?)で、傷つき、肉体や精神が壊されていった。 その社学同のIさんは、その後、結成した赤軍に参加して、学内を軍隊行進していたのを見かけたが・・・その後の事は、知らない。
大阪市大は、究極の過激派=日本赤軍、連合赤軍に大いに関わりがある。 田宮高麿は、市大在学時は、社学同で活動、後に赤軍派軍事委員会議長。よど号ハイジャック事件を起こして北朝鮮に行って・・・そこで死んだ。 赤木史郎も、市大出身で、田宮たちと「よど号ハイジャック事件」に参加。今も北朝鮮で住んでいる(=出られない) 森恒夫は、市大出身で、連合赤軍中央委員会委員長。「山岳アジト事件」で知られている。刑務所内で、自殺・・・・・
東大安田講堂内の壁に書かれたという敗北のメッセージ「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばず倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」の自己満足、自己逃避は、僕は許せない・・・と今でも思う。 こういう連中が、観念の中で(大学解体)(自己否定)をもてあそび、(革命)を妄想したのだ・・・その罪は、海よりも深いと断言できる。
青春時代は、希望に満ちた未来を胸に描き、発展途上の未熟な時期だ。 人間は、その生を終えるまで、発展途上であるハズ、あるベキなのではないか・・・と考えている。
古希を過ぎた今でも、常に(未熟さ)は感じ続けているし、より高みに向けての(勉強)を積み重ねたいと念じている自分がいる。(人生一生勉強)だ。 あの学生運動の仲間たち(自分も含めて)は、相当(傲慢)だったように、今では思う。自分たちには、先進性があり、自分たち(革命家?)が先陣を切って!? 社会を変える、世界を変えると自惚れてしまったのだ。 本当のところは、みんな迷いに迷っていたし、なかなか納得した答えを見つけ出せなかったのに・・・何を血迷ったのか・・・・・混乱の中で・・・選択を誤った大勢の学生たちがいた・・・ ――――――――――――――――――――――――― 高野悦子「二十歳の原点」案内 https://www.takanoetsuko.com/ 「私は詩が好きだ」「私は詩人になりたいと思うときがある」(1969年2月5日 高野悦子の日記から)
以下は、1969年5月、20歳で、自殺した元立命大全共闘の高野悦子の死を覚悟した(?)詩である。(僕も含めて)未熟なモノたちへの悲しさと切なさで、こみ上げてくるものがある。迷い続けた彼女は、別の選択肢を見つけることが出来なかった。
旅に出よう テントとシュラフの入ったザックをしょい ポケットには一箱の煙草と笛をもち 旅に出よう
出発の日は雨がよい 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい 萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら
そして富士の山にあるという 原始林の中にゆこう ゆっくりとあせることなく
大きな杉の古木にきたら 一層暗いその根本に腰をおろして休もう そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう
近代社会の臭いのする その煙を 古木よ おまえは何と感じるか
原始林の中にあるという湖をさがそう そしてその岸辺にたたずんで 一本の煙草を喫おう 煙をすべて吐き出して ザックのかたわらで静かに休もう
原始林を暗やみが包みこむ頃になったら 湖に小舟をうかべよう
衣服を脱ぎすて すべらかな肌をやみにつつみ 左手に笛をもって 湖の水面を暗闇の中に漂いながら 笛をふこう
小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中 中天より涼風を肌に流させながら 静かに眠ろう
そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.01.13 02:14:32
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