カテゴリ:学生運動
学生運動時代の思い出を、つらつらと⑨・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない?遅すぎる? 2022-1-21 (はんぺん) ⑧からの続き。(1968年、今から53年前の青2才=(はんぺん)の稚拙な日記から) 7/18 長い間、日記をサボっていた。 7月1日に学長談話が出た。6月28日のあの事件以来、DSL(共労党系)の諸君は、官憲の学内侵入を予想して、学内に泊まり込んでいるという話だった。これは、本当だ。
7月10日から、夏休みに入った。そして夏休み1日目の7月10日早朝、ついに来るべきものが来た。官憲の学内導入が行われたのだった。市大創立以来初めてという、この不祥事について、我々大学人は、深刻な反省を要求されている。
7月9日から10日にかけて、「DSL(声系)市大支部学習会」が行われた。それで、9日から我々は⦅藤沢会館⦆に宿泊していた。10日早朝5時前に電話がかかり、全員まだ半信半疑だったが、飛び起きてすぐ市大に駆けつけた。
市大に着いたのは、6時ごろ。警察や私服が、専門の構内や、専門(部)と教養(部)の構内を⦅現場検証⦆していた。
我々は、民青やDSL(共労党系)やトロ(トロツキスト)を中心とした抗議デモに加わったが、その時、社学同の西浦君が逮捕された。(注:西浦は、社学同市大支部のキャップで、この6.15闘争の市大での中心的役割を担った張本人)
現場検証が終わって官憲が帰ると、すぐさま抗議集会が行われた。そこで学校側の説明があった。
我々は、いったん(藤沢会館)に帰って、「大学の自治」についての討論をやる。 学校側は、あわただしい動き。大学協議会やその他 教授会などがさかんに開かれたらしい。2時ごろから410号(教室)で、(抗議集会)が開かれた。4時まで。
DSL(共労党系)や民青が、激しく大学側に抗議する。我々DSL(声系)は、学校側の措置については「7月1日の学長談話の基本的な方向に、学校側の最大限の努力を十分認めるし、又その意味で、やむを得なかった」との見解。
とにかく既成事実を作られたことは、非常に痛いけれども、それは、社学同はもちろん、我々大学人も大いに反省する点があるだろう。
7月10日、夕方から部落研の「全青カンパ」、京橋にて。 7月11日、2時から抗議集会。前日に引き続き、学校側と学生側との討論。410号室にて。4時まで。その後、部落研の子供会(活動)に行く。 7月12日、夕方から京橋駅にて、「全青カンパ」。 7月13日、DSL主催の「民主主義学生交歓会」がある。場所は高野山。 全国から、DSL同盟員やシンパが集まってくる。8時にナンバに集合した市大・京大・阪大etcの同志は、南海電車、ケーブル、バスで高野山の無量光院という宿泊所に行く。。志賀義雄氏は、身体が悪く講演は無かった。各支部の報告、阪大、市大、近大、京大、東京理科大、明治大etcの報告。我が市大からは、20名近く参加した。 14日、小野義彦市大教授の講演がある。3時解散。
7月26日 7月18日から7月22日まで、部落研の合宿があった。場所は、愛知県北設楽郡津具村学生村。22日に帰る予定だったが、僕は23日まで残って、社研と一緒に帰った。 学習会の内容は、「経済学教科書第1分冊の第3章」とプレハーノフの「歴史のおける個人の役割」それに「同対審答申」について。 23日は、「MLの基礎第3分冊」を社研でやった。 普段、家でやらなければ・・・と思いながらも やれないでいるので こういう所にくると非常にはかどるので良かったと思っている。
7/26 きょう、京橋にて「原水禁カンパ」。S(文学部)、IMG(法学部)、IGU(文学部)、TE(文学部)それに僕(法学部)の5人。O(家政学部)もちょっと顔を見せた。 昨日、25日、部落研の子供会に行った。T,H、Y,W,Sさん、それに僕が参加。 8月2日 7/28~30の間に、DSL(声系)の原水禁カンパで、京橋に2回行った。31日は、原水禁カンパに、アベノ前にての学生同盟の活動に参加。この日、IMさんに(DSL)の「加盟申込書」を(正式に出した)。 (1968年、今から53年前の青2才の稚拙な日記から、一部省略)
7月10日の官憲による学内捜索は、市大創立以来の衝撃的出来事ではあったが、今から考えると(官憲の導入)は、避けられなかったし、そのことで、大学側は拒否できなかったし、受け入れざるを得なかった・・・と、今では思う。
我々は、(なぜ、官憲の導入を認めたのか?)と、大学側の対応を激しく非難したが、学生たちが、主張の是非はともかく、御堂筋で暴れまくって市民生活に混乱をきたしたのであるから、刑事的処罰を受けるのは当然であり、過激派学生たちだけを(特別扱い)する理由は無い。
学生たちの(甘え)を増長させることは、あり得ないし、社会的存在としての公教育のトップ機関の使命からして、犯罪捜査を容認するしか無かったのだ。
本当に抗議すべき相手は、社学同(ブント)たち(過激派)であり、彼らの実力闘争を防げなかった我々自身であったという事。
しかし、その暴力(ゲバルト)を許した我々は、その(攻撃?)のほこ先を、(物理的に強力な官憲を糾弾しながらも)、(物理的に弱体な大学側、学長や教授会)に向けるという、卑劣なパターンを地で行ってしまった・・・・・
この時点で、(学問の自由)は、すでに無かったことが、その後の市大闘争の中で明らかになっていく。
それにしても、それまで(いがみ合っていた)民青もトロも我々も含めて、全学生が抗議デモに立ち上がったことは、驚きであり(異様)でもあった。 その後の学園紛争!の中では、おそらく見られなかったことではないか? それだけ1968年時点での市大、いや全国を取り巻く(平和な)景色ではあった。
53年前にあった信太山の(藤沢会館)は、検索すると今はもう無い。壊されて 「大阪市立信太山青少年野外活動センター」と大阪市の建物に変わっている・・・
7月10日の夏休み入りを見越した官憲の学内捜索に、学生側は大した(反撃)もできず、いたずらに大学当局を責め立てるしか手段は無かった。 かなりの学生は、実家に帰っていただろうし、その後の抗議活動も、まったくさえなかったように思う。
DSL(声系)のバックボーン?の森信成、小野義彦各教授を擁する市大当局に対する我々の追及の矛先が鈍かったのは、今となっては、そう思う。その反面、日本共産党から除名された両教授を民青(共産党)が、トロツキストたちと一緒になってシャカリキに追及していた。特に、森信成先生に対する当たり(追求)は、激しかったと記憶する。
高野山の無量光院は、昔から有名な宿坊。高野山に観光で来てもホテルは無いから、すべて宿坊に泊まることになる。53年前の記憶は、残念ながら全く無い。
「全青カンパ」・・・「全青」とは、「部落解放全国青年集会」のこと。 部落問題研究会の取り組みの一環だった。市大入学後、すぐ「部落研」(DSL声系)に勧誘(オルグ)された。当時は多くのサークルが、党派系列に色分けされていて、表面上は(誰でも歓迎・・・)だったが、運営はセクト(党派)のフラクション(大衆団体内に設けられたセクトの集団)が、握っていた。
「部落研」(部落問題研究会)も「社研」(社会科学研究会)もDSL(声系)で、身内同士で同じところで(合宿)をしたのだと思う。当時は、よくわからなかったが。(部落研の合宿は、7/18~7/22。社研の合宿は、7/19~23)
合宿から帰ってから、生まれて初めてバイトに、集中的に取り組む。8月4、5、6日の広島の原水禁大会のため。
入学後の学生生活・学生運動は、ある程度の覚悟はあったというモノの、想像以上の激動に翻弄されまくっていたというのが真実だ。 先進的であろうと背伸びしながら・・・僕は(闇)の中にいた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.02.08 03:12:31
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