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2022.01.23
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カテゴリ:学生運動

学生運動時代の思い出を、つらつらと⑩・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない?遅すぎる?

   2022-1-23   (はんぺん)

相当昔に読んだ「二十歳の原点」を 今回読み返してみた・・・

青年期には、大きな価値観の転換が起こると思う。

学校教育、家庭教育、友達関係などで、人間がつくられていくが、それは人間形成の第一歩だ。基礎教育内容や親・友達の影響が、大きいのは、間違いない。

 

それが、青年期には、強制された受験体制や親の価値観にも挑戦する反抗期に入り、新しい恐ろしいほどの急激な価値観の転換が起こる。

「二十歳の原点」は、青年期の動揺が、詳細に書かれている。

 

肉体的には、性ホルモンの分泌が活発になり、性(男女関係)を意識せざるを得ない年代でもあり、それも価値観の転換の一部だろう。

 

山崎博昭も、高野悦子も含めて、多くの青年がたどった自然な発達段階の道であり、極めて不安な時期でもあると思う。

 

高野悦子の「二十歳の原点」は、そんな青年期の不安定な動揺の時期の思いを、正直に飾らず記されているところに(価値)があるのではないか。

 

価値観の転換の前には、多くの青年たちは読書をしている。僕の場合は、中学23年の時期から乱読した。全共闘の活動に入る前の高野は、それなりに読書していることが日記からわかる。

 

多くの本から、多くの価値観を知ることが出来るが、知識として知ることが出来ても、実際の人生経験、社会人としての社会生活がない・・・せいぜいのアルバイトでは、まだまだ(青2才)なのだろう。

 

高野だけではなく運動に入ってからは、多くの青年は本を読むことすらできない環境に置かれる。必死になって読書に取り組もうと意識しながら、実際には、満足に読書できずに、(言葉の遊び)に堕していった。高野も同じ。

 

高野については、

「二十歳の原点ノート」(中学~高校)、

「二十歳の原点序章」(高校から立命大時代)、

「二十歳の原点」(立命大時代)、

3冊が刊行されているが、死に至る「二十歳の原点」には、(特に革命的空文句)が、多く出でてくるが・・・僕の高校3年生を思い出す・・・・

 

「人民よ、立ち上がれ!」

「占拠せよ!」(1969.5.1

「進撃せよ!」

「解放区をつくれ!」(1969.5.1

「闘争勝利!」(1969.4.28

「御堂筋占拠をかちとれ!」(1969.6.15

「階級闘争あるのみ!」

 

言葉が飛んでしまって、足が地についていない。

中核派などから盛んにオルグされたようだが、オルグされたときの言葉や、アジビラで覚えたカタコト用語で、自分を奮い立たせようと もがいている感じ・・・で、これは、自分をごまかしているという事だ。

 

読んでいると、腹が立ってくるほどに、言葉に酔いしれている。

自分にムチを当てているつもりなのだろう・・・・

僕の昔の高校3年時代を思い出す。あの時とそっくり!!!

 

あまりにも、アジビラやオルグされた言葉を、自分で消化できずに、そのまま綴られている日記・・・僕には状況はわかるが、予断と偏見で洗脳された(青2才)の悲劇としか思えず、悲しい。

 

そう(青2才)が(青2才)をオルグしたのだから・・・(観念の中での妄想)で、何を得られたのだろうか? 散りばめられた空疎な空文句の羅列には、洗脳された若者の地獄が見えるように思えるのだ。

 

「日本史闘争委員会と行動を共にしよう。闘いはここにある!」(1969.4.28

 

「サンドイッチ規制のデモのみじめさ」(1969.4.29

 

「思い起こせ あの428の御堂筋デモ!

権力にはさまれて身動きのとれぬデモ、あの屈辱感をわすれたのか。

東京においては975名の逮捕者。自由とは闘いとるものなのだ。(1969.4.30

「いかなる状況が出現しようとも、私には後退が許されていない。私にとって清心館バリは、私の思想性をかけた闘いである」(1969.5.19

 

「私のこの感性をさらに論理化し、さらなる感性を創造せよ! 肉体的な衝撃は、わたしそのものにぶつかり、入り込み、私自身のものとなる。しかし私はまだそれを、己自身のモノとしていない。民青の⦅カエレ⦆のシュプレヒコールの中の緊張から、51のメーデー会場で民主化棒(注:民青の)でなぐられた衝撃、521の弾劾集会のときに足でけられた衝撃、さらに523機動隊の棍棒で顔を殴られ、髪を引っぱられたときに私の肉体が受けた衝撃、署に連行される時のパトカーのうるさいサイレンの響き」(1969.5.27

 

(官憲の導入を受けての抗議デモの最中に、立命大当局を擁護する民青行動隊の「民主化棒」で、殴られ怪我したことを受けて)

「日共は、権力と同盟関係を結ぶほど卑劣なのである。日共は日和見なのでなく、「反革命」なのである」(1969.5.28

 

愛知訪米阻止!

70年安保粉砕!

学園闘争勝利、大学解体、全学バリ貫徹、清(心館)バリ貫徹!

日共民青粉砕!

沖縄闘争勝利!

独習せよ! そして論理を!   (1969.5.29

 

「訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい。私自身の受けるもの、あせり、いらだち、虚無感(デモの最中の)、ますます広がる混沌さ。論理化を!論理化を! 」 (1969.5.30

 

(中略)

 

「今日、東京に行ってくる。姉と話し合い、家族との訣別をつけるために。」(1969.5.30

「機動隊に現わされている国家権力は、私の明確な敵である。私はその物理的な力に対し 物理的な肉体をもって闘ってゆく。留置場にぶちこまれ自由を剥奪されようとも、とことんまで対決を行うつもりである。」(1969.6.14

 

1時から6.15闘争報告会がある。私は行かない。なぜ? すべてに失望しているから。アッハハハハハ。きのう機動隊に殴られて赤くはれている。人々は、またどうしたのと聞くだろう。うるさい人たち。それにしても、右のほおのアザと赤い鼻と。・・・」(1969.6.16

 

「人は、何故生きていくのかって考えてみました。弱くて醜い人間が、どうして生きているのかって思いました。私は、この頃しみじみと人間は永遠に独りであり、弱いーーそう、未熟という言葉がありますーーその未熟なのに、いやらしいエゴを背負って生きていくのかって思いました。私もどうして生きてるのかと思いました。つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようとして生きているのだと、今思いました。・・・」(1969.6.18

「自己創造を完成させるまで、私は死にません」 「自殺は、卑怯な者のすることだ」(1969.5.13

「怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけである」(高野悦子)

と言いながら

「アナーキズムに人間本来のあるべき姿があると思うのだが、しかし一切の人間を信じない独りの人間が、一体 闘争などやれるのだろうか?やれる筈がない。」(1969.6.21

・・・・これは、自殺の2日前の日記だ。

 

生きてる 生きてる 生きている

バリケードという腹の中で 友と語るという清涼飲料水を飲み

デモとアジ アジビラ 路上に散乱するアジビラの中で

独り 冷たいアスファルトにすわり

煙草のくゆない煙を眺め

生きている  イキテイル  (1969.6.22

 

機動隊になぐられ 黒い血が衣服を染めよごしても

それは非現実なのか!

おまえは それを非現実というのか!

しかし何といわれようと 私は人を信じていないのだ!

 

警察官総数八万四千人

十万の人をもってすれば警察官は打ち破れる

自衛隊員の総数二十五万人

三十万人の人をもってすれば自衛隊は打ち破れる

しかし その十万人の人 30万人の人とは一体何なのだ  (1969.6.22

1969.4.30の日記から・・・

「機動隊員を殺すにはどうしたらよいか。そのためには民青を殺す必要があるのかを考えてみよう。「ろくよう」(注:喫茶店)にいるとき、隣の学生が言っていた。バリケード、留置場にいるときが一番生きがいを感じると。法政大に機動隊が入り、日増しに弾圧が強まっている」(1969.4.30

 

 

1969.6.22  自殺前夜の日記から・・・日付が変わっての深夜、決行

「このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。

ところが、では生きていくことにして 何を期待しているかといえば、何もないらしいということだけいえる。私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼き捨て、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。」(1969.6.22

 

(中略)

「睡眠薬にうちかって眠らずにいることができるかどうか、いっちょ試してみっか」

(中略)

「二十分たったというのにまだ眠くならないのだ。125分であります。

(中略)

「二十錠のんでも幻覚症状も何もおこらぬ。しいて言えば、口と胃が重たくなった程度。こんな睡眠薬ってあるだろうか。といって恐れる気持ちなどサラサラない。本当に何もないのだ。

(中略)

「何もないのだ、何も起こらないのだ。独りである心強さも寂しさも感じないのだ・・・」

「雨が強く降り出した。どうして、この睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールの方がよっぽどましだ。早く眠りたい。230分、深夜。」(1969.6.22

 

「高野悦子⦅「二十歳の原点⦆案内」から

https://www.takanoetsuko.com/sub19690624.html

 

このあと、夜中の午前2時ごろ、高野は、「ちょっと外出します」と声をかけて、下宿(川越宅)を出たとされる。この声を耳にしたのは、下宿の隣の部屋の人である。

当時、京都はすでに月没していたため、月の光はなかった。ただ雲がなかったため、星空だったと考えられる。午前220分ころ、下宿の近くの国鉄・山陰本線(現、JR西日本)を貨物列車が通過した。この後、高野は山陰本線の軌道上、または軌道付近を西に向かって進み、無人の天神踏切から軌道内に入りさらに西に進んだ。

 

京都梅小路上り864貨物列車(蒸気機関車)が接近した。天神踏切の西約20ⅿ付近を歩いていた高野悦子は、急に線路を枕にするように伏せた。貨物列車は急ブレーキをかけたが間に合わなかった。

 

午前236分、高野悦子は死亡した。京都府西陣警察署の調べによると、頸部損傷等による即死だった。高野悦子が最後に耳にしたのは、蒸気機関車のけたたましい警笛と猛烈なブレーキ音だったとみられる。

―――――――――――――――――――――――――――――

 

高野悦子は、絶望的な学生運動(革命?)に悲観して展望を見失ったことと同時に、失恋の痛手も相当なものであったことが、日記には出てくるが、そのことは、今ここでは書かない。

 

ただ、異性に奥手の高野悦子に、僕と共通するモノをすごく感じた。






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最終更新日  2022.01.24 02:37:10
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