カテゴリ:学生運動
学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (12) 2022-2-11 (はんぺん) これは、今から7年前、2015年3月に僕がリタイアした時に、これから人生総括を・・・・という立場で、いくつかの覚え書きを書いてきた時のモノ。PCの片隅に保存していたモノで、記録用として、今回アップした。
したがって、これまでの(つらつらと・・・)と重複する部分が大半だが、7年前の文章だが、今でも僕にとっては有効だ。(というか、ほとんど変更することは無かった) この文書は、リタイア時に、何人かの(元同志)たちにも配ったことがある。
ベトナム、安保、大学改革・・・など、あの時代の高揚した雰囲気を、今の学生たちは、感じることはできないでいる・・・それだけ時代は変わったということだろう。
それにしても、あの時代についての記録が少なすぎると思うのは、僕だけだろうか? 団塊の世代と言われた多くの学生が、闘争の後、知らん顔して一般社会に潜り込んでいったが、(総括)無しのいい加減な人生には、あきれ果ててしまう。
(反省する勇気)の欠けた面々の人生には、僕は「異議あり」と叫びたい。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――― 覚え書き・・・老前整理 2015-2-11 (はんぺん) 40年前の大量の資料をチェックしている。いつまでも持っているわけにもいかないので、処分する方向だ。「老前整理」である。 とくに学生運動にのめりこんでいた当時の資料(主には各派のビラなど)が、大量に残っている。長い間、「封印」してきたものだ。 こんなに長く、いつまでも持っていた人間は、恐らくいないと思うし、よっぽどの物好きかと思われそうである。
昨年には、「部落解放」誌、「「解放教育」誌など数百冊を、可燃ごみに出した。社会主義協会発行の「社会主義」「まなぶ」なども数百冊、段ボール箱で10~15箱分処分した。「労働運動関係」の書物も、数百冊ほど、処分。 共産党の「前衛」などは、希少価値のありそうな戦後まもなくのものや70年安保当時のものも多くあったが、これらは、地元の共産党市議を通じて、共産党市委員会に寄贈した。ぼくは、良くも悪くも、コレクターだったわけだ。 もちろん しっかり勉強も させてもらった。
いよいよ今回、一番最後まで、持っていた、学生運動時代の資料に手を付け始めた。資料をめくったり、当時のノートを見ていくと、68年から70年の6月23日までの市大の学園闘争が、思い出されてきて・・・感慨にふけることになった。 ぼくのささやかな青春のかなりの部分を占めた学生運動。その後の自分の人生を方向づけたものでもあった。 最初に、僕にきっかけを作ってくれたのは、民青の友達。S高校2年生の時、同級生の中に、民青S高校班に所属しているN君から、モーレツな(ベトナム)反戦オルグを受けた。 このオルグが、ぼくの人生を決めたといっても良い。今になって思うに、彼には、もっと感謝してよかったのかも・・・・・・ 大きな価値観の転換を迫られ、ぼくは、最終的にそれを受け入れる。民青の集会にも行った。 当時、ベトナム反戦運動が、世界的規模に広がりつつあって、小田実たちの「べ平連」がノンポリを加えて、大きくなっていた。 何度も「ベ平連」のデモと集会に参加するようになる。 進学校でもあったS高校は、府下でも有数のリベラルな校風があって、自治会は、民青が握っていたが、それに中核系の「反戦高協」が、対立する。 サークルでは、反戦高協が、社研(社会科学研究会)、民青が、平和研(平和問題研究会)という具合で、部室は、隣り合っていたのが・・・おかしかった。 ぼくは、行き掛り上、どちらのサークルにも席を置いていたが、次第に、反代々木の心情トロ(トロキズム)に傾いていった。 社研では、キェルケゴールの実存主義をテキストにした学習会が印象に残っている・・・・が、はっきり言って難しくて、よくわからなかった。 共産党のやり方には、違和感を覚えていて、高3になってからは、「反戦高協」のデモに良く参加するようになった。 「ベトナム民族解放戦線と連帯するぞー」「佐藤内閣を打倒するぞー」と、よくやったものだ。
これで、受験生活には、多少の刺激にはなったが、成績は落ちた。
進学校のS高では、できる生徒は、京大へ(当時、毎年40人ぐらい)、その次のランクが、阪大へ(毎年120~150人か)。 ぼくは、その次のランクの市大へ(毎年40人ぐらいだったか)、その次が、府大・・・という具合。国公立をミスしたものは、関大(150人以上)関同立・・・・という具合。当時、近畿大などは、最後の最後で・・・・お金があって、成績の良くない生徒たちの溜まり場だった。(今は、時代が変わって・・・・近大に入るのも、なかなか難しくなっていると聞いている。)
進学相談の時、高3担任教師に「学生運動するために市大に行きます」と言って、イヤな顔をされた。この担任が、共産党の党員であったことを僕たちは、知っていて、ワザとそう言ったのだが・・・先生のほうは、反代々木系(?)であった僕たちに対しては、「怖がって??」何も言わなかった。
社会党系の大阪日教組の中でも、府高教は、日共系として有名で、S高の教師の中にも党員教師は、何人もいた。 (蛇足だが、たまたま?僕の高3の担任が、後日、「出世」して、府高教の中執役員になったのを知って、ちょっと驚いたものだった)
もともと、関西の学生運動は、昔から京大と市大がダントツに有名で、(これは、60年安保や65年の日韓闘争などからみても明らかであったが)、関西全体の学生運動をけん引するのなら、京大のC(教養部)自治会と市大の全学自治会を取る(多数の中執を握る)ことが基本中の基本で、阪大・神戸大などの「お坊ちゃん大学」は、はなから、期待されていなかった。
市大の学生運動は、その活発さから、昔から有名だった・・・・・ここは、最初から、ぼくの第一志望だった。
ちょうど67年の10.8佐藤訪ベト阻止の羽田闘争と京大生・山崎君死亡のニュースは、高校3年生だった僕たちを、とても興奮させた。
その一方、同じ日に、共産党が「赤旗まつり」を開催していたこともあって、当時の学生たちに「闘う新左翼、闘わない共産党」という印象を与え、新左翼の過激な闘争が、その後の日本の学生運動の中で支持を広げることになっていく。
68年1月のエンタープライズ寄港阻止の佐世保闘争では、それに呼応して、高3の僕たちも、大阪で果敢にデモに参加した。 僕たちを夢中にさせたものは、何だったのか? 今から考えると、受験体制にずっぷりつかり続けることへの反発?もあったし、平和憲法を持っている日本が、ベトナム戦争に協力(実質参戦)していることの不合理への反発もあっただろうし、もっと言えば、あまりにも平和ボケしている日本社会総体への無意識的な怒りの衝動が あったのではないか・・・とも思う。
それと、今から思うと、おかしなことだが、(狂気)と言えるものも・・・・あったとも思う。
今回、処分を考えている資料は、68年4月の市大入学から、70年の6.23安保までの市大学園闘争で、収集したもので、かなりの量になる。 2年間ほどの短い期間ではあったが、あまりにも多くの、いろんな出来事があった・・・ありすぎた。
授業を真剣に受けた記憶は、本当に少ない。各種の授業は、ビラとアジテーションの場で、最初の10分間ほどは、机の上にビラをまいた後、演壇の前で、演説をぶつ。闘争参加の呼びかけ・・・というわけだ。
担当教官は、よく心得たもので、その間は、おとなしく、隅で演説が終わるのを静かに待っていてくれる。暗黙の了解が、あった。 各派の活動家は、そんな按配で、ほとんどのクラスに入って演説をぶった。
それが終わると、教官に演壇を譲り、教室を出て、意気揚々と「アジト」に引き揚げるか、アポを取った学友と、教養部キャンパスの芝生の上か、近くの喫茶店で「オルグ」をする。 場合によっては、相手の下宿まで、押しかけてのオルグも。僕たちは、授業がある限り、午前も午後も、クラスに入ってアジったものだ。
頻繁にデモや集会があって、それに向けての闘争体制の構築(立て看板作製、ビラ作成、終わりの見えないオルグ活動など)で、いつも、フラフラだったと思う。幸い、ぼくは、小さい体ながら、よく耐えることができた。
扇町公園からの中郵コースのデモや御堂筋デモなどでの機動隊の規制は、当時から、結構厳しく、ジグザグデモなどで、「こずかれたり」して、結構、仲間が負傷したりしていた。逮捕者が出たこともあった。
68年4月に入学後、しばらくして、まず、オルグされて、部落研というサークルに入った。同時に、あるセクト(学生同盟)に入って、活動を始めた。 高校生時代からの興奮と期待は大きかったが、実際に大学に入って、各派のオルグを受けていく中で、展望のないトロキスト各派や民青(共産党)の方針には、大きな違和感を感じていた。
トロでもない反代々木系といえば、構造改革派のいくつかのグループがあって、その中の一つに参加(加盟)した。 大きな方向としては、間違ってなかったと、今でも断言できる。
しかし、そのグループは、僕が入学する少し前に組織分裂したばかりだった・・・・が、ぼくが活動していた2年ほどの間に、またまた大きく分裂することになるとは、夢にも思わなかった!!!
他党派との対立でも、気の重い出来事が続いたが、自分たち仲間内で、対立が起こり、分裂するなんて・・・・消耗すること、この上なし!!! イヤーな問題を抱えながら、何とか、70年の6月23日のピーク闘争(学内総決起集会、全関西学生総決起集会、そして御堂筋デモ)に参加して、その日、僕は、同盟から離脱した。
デモからの帰り道に、同学年の仲間に、そのことを告げたとき、彼は、引き留めようとしたが、ぼくは、振り返らなかった。決意は、硬かった。 この判断は、間違っていなかったことが、あとでわかる。
数年後には、分裂相手側のグループ内で、再分裂があったこと、自分たちがいたグループとのゲバルト(内ゲバ)が、何回も、繰り返されたことを、ある方面から知らされ、苦々しい思いで それを聞いた。
多量のビラには、多くの思いが詰まっている。45年前のビラでも、きちんと保管すれば、結構、読めるもので、懐かしい。 当時は、ガリ切りで謄写版印刷。いつも、深夜の印刷作業で、両手は、いつもインクまみれだったのを、覚えている。これらのビラを見ながら、かっての「同志」は、今、どうしているのだろうか・・・・と考えることがある。
同盟を離脱するということは、同盟からすれば、「日和見主義者」ということになる。向うから、連絡が来ることは、一切ない。そういうものだ。 共産党員が、離党すれば、今では、そんなことは言わないが、戦前なら、「裏切り者」「反党分子」ということで、制裁の対象にもなった。
天皇制軍国主義と闘う時代には、そのような、軍律ならぬ「党律?」も必要だったのかも。 連絡が来ないことは、脱盟が、確定したということで、僕にとっては、都合がよかった。しばらく、外の違った空気を吸いたかった。
全共闘の大学封鎖=大学解体路線のため、大学の機能マヒが1年近く続く中、ぼくは、「留年」を決めて、普通の学生に戻る。 少し授業も受け、国内一人旅も。同志社大の友人と韓国や台湾をユースホステル旅行もした。 翌年には、イギリスの保養地ボーンマスでのホームステイも。そして、そこで伴侶を得た。
大学生活の後半は、違った意味で、僕の将来を決めることになったわけだ。
73年3月末、5年間の学生生活に終止符を打ち、無事、卒業。 社会人になってからも・・・・いろいろ、ありすぎるぐらい・・・・いろいろあった。
少し前から支援してきた日本社会党に、73年正式入党し、96年に3分裂するまで、25年近く、上田・谷畑選挙をはじめとして、おびただしい各種選挙に関わったこと、就職先の同和向け教育施設で、「狭山差別裁判反対! 石川青年取り返そう!」と子どもたちと一緒に闘ったことも・・・・
しかし、僕の人生の大きな方向が、この68~70年の2年間強の学生運動で決まったことは・・・・間違いない。
・・・老前整理は、続行中だ・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.05.22 01:21:52
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