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学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (14) 2022-2-18 (はんぺん)
⑬からの続き (1969)5/26 前夜、23:00~今朝4:00ごろまで、LC(支部委員会)が、ぶっ続けで行われた。「Tさんを守る会」が、SA・TAさんたちの完全な私的組織となり、半ばフラク化しているという事実に対してのLC(支部委員会)多数派からの追求に対して、TAさんは、半ば公然とフラクの正当化を主張するという状態になっている。
(問題の中心は、何か!) 「Tさんを守る会」が、民学同(DSL)支部委員会のまったく関知しないところで作られ、しかも、その中に、民学同(DSL)市大支部の同盟員が入っていることが、わかっており、しかも、その会を実質的に、その同盟員が指導しているということ、すなわち、民学同(DSL)市大支部委員会とは、まったく別個に、指導機関なり、指導部隊が作られており、それは、内容的には、市大支部の方針とは、まったく異なった方針を採用していることからも分かるように、完全なフラクと化していることが、判明した。
DSL市大支部委員会は、このような分派活動に対しては、はっきりと断固たる処置をとる必要がある。 引き続き、明らかになった事実に基づけば、この「Tさんを守る会」は、すでに大学当局と、団交をしているという。このことは、支部委員会のまったく関知しないところの事実であり、組織活動の原則を逸脱していると言わざるを得ない。
すでに、団交を少なくても、1回行ったということについては、確実なところから、情報を得ており、この団交が、「大衆団体の活動であるから、同盟をはじめ、あらゆるセクトの関与すべきものではない」という名分でもって、民学同(DSL)支部委員会とは、まったく連絡を取ることなく、同盟支部に隠れたカタチで、秘密裏に行われたということは、極めて無視できないことである。
以上、ノートから
その後の簡単な経過(僕のノートから) 1969/7/8の市大のL-BK(文学部班会議 10名参加)で、Suさん(市大分派G)は、「民学同(DSL)内には、2つの分岐がある」と発言している。 5/15の3同志に対するテロから、わずか、2か月しか経っていない時点での、この発言は、何を意味するのか?
同時に「民学同(DSL)市大支部は、機能マヒしている」とも、語っていて、議論になっている。 そのあとの、7/16、松井寺会館で、民学同(DSL)市大支部総会が開かれた(41名参加)が、IG問題が、一つの焦点になった。 この席で、IG氏は、この間の「闘争放棄」については、自己批判することを表明した。
しかし、批判するLCメンバーからは、この間(5~6月)の 同盟とは、何の連絡もなしに、分派的に取り組まれた「Tさんを守る会」の活動に、その中心メンバーとして積極的に参加していることについては、許されないし、その行動を見る限り、その自己批判は、本当の自己批判とは認められない・・・・と厳しく指摘された。
総会は、騒然とした雰囲気に終始する。 7/18~19、信貴山・玉蔵院で、民学同主催の「全関西民主主義学生交歓会」が行われている。佐藤全国委員長から、全国学生戦線諸派の動向が報告されたほか、8月原水禁(東京)に向けた討議が行われ、各大学支部からの報告があった。
2日目の午前中、全国委員のOT氏(京大)から、「民学同(DSL)とは、何か?」というテーマで「講演」があった。 明らかに、同盟内の対立を意識した内容で、「政治同盟の指導性と、大衆サークル内での同盟員の義務について」、レーニンのサークル主義との闘いを引き合いにだして、「学習(サークル)活動を実践に結合していくことの重要性」「評論家集団でなく、行動組織としての同盟の重要性」について、OT氏は、発言している。
かなり(?)以前から、潜行してきた同盟内、分派グループ=サークル主義者を意識したものと考えてよいと思う。
この年の夏、7/30~8/4に、岡山県笠岡市白石島で行われた市大部落研(新時代派が多い)の夏季合宿では、「今日の部落問題(日共発行)批判」が、設定され、党と大衆団体の関係についての報告があった。
「党(この場合、共産党)の方針が、大衆団体の方針と異なった場合、党員でもあり、大衆団体の一員でもある場合は、どうすれば良いか? ① 大衆団体の方針が、党の方針と一致するように努力する。 ② それでも、党の方針を貫徹できなかった場合は・・・原則的には、大衆団体の方針に従う。もちろん、その中で、徹底した思想闘争を、行うべきである。思想闘争を公然と徹底的に行うことは、そのこと自体、闘争にとっては、マイナスにならないどころか、プラスにさへなる。 ③ 派生的な場合として、その党(あるいは、政治組織)にとって、決定的にマイナスとなる場合(極めて、まれではあるが)のみ、この限りでない。もちろん、しつような思想闘争は、この場合でも、行わねばならない。派生的な場合とは、たとえば、その大衆団体において決定された方針に従って活動していけば、その組織にとって、その解体、あるいは、崩壊を意味する場合のことである・・・・・・ そういう議論があったということ(僕のノートから)
8月後半からは、双方の多数派工作が、激しくなった模様で、8/28の市大支部のLCでは、激しい言葉のやりとりがあり、LCメンバーのIさん、Tさんは、翌日に予定されていた支部総会を「同盟の趣意規約から逸脱しているので、認められない」と、ボイコットを示唆するに至る。
8/29の支部総会では、彼らのボイコットが、現実のものとなった。 8/30、全国代表委員会で、市大分派グループのIさんから、全国委員会に対して、上申書が提出された。
全国委員会では、この上申書について、引き続き討議が続行されたが、8/31、9/1と予定されていた全国代表委員会は、とうとう開かれなかった。 9/1の全国委員会では、予定されていた第12回全国大会の延期を決めている。
阪大・明大の全国委員は、「全国代表委員会では、市大問題をまず解決してからでないと、方針討議はできない」と主張。 意見は、まったく、かみ合わなかったという。
9/2、全国委員会で、採決の結果、午後からの全国代表委員会の開催を決定したが、阪大・明大・学大などは、ボイコットをした。
ここで、一点、付け加えておくと、彼らが活動の拠り所とした「Tさんを守る会」については、「暴力反対」だけで運動が作れるはずもなく、自然消滅したのか?、学友大衆には、何の報告もなかったようであって、きちんと総括されたのか?どうかさへ、僕たちには、わからない・・・
ノンセクトと野合したり、はたまた、民青と結託するなどの動揺した「方針」で、闘えるはずがなかった・・・・。 --------------------------------------------------------------
9/24、民学同:市大支部総会が、市立労働会館(森ノ宮)で、分派グループによるボイコットの中で開かれた。 登録46名、出席23名、委任状3名で、賛成22名、反対0名、保留1名、で、議案は25/46で、かろうじて可決されて、闘争方針が、決まった。
それは、封鎖貫徹=大学解体路線の全共闘が、また、一方では、封鎖実力解除=授業再開路線の民青=全学連支持会議が存在する中で、全国学園闘争と連帯した、(クラス活動を基礎としたストライキ体制の構築から)、徹底した民主的改革路線を追求した我々の闘争の継続を決めたものであったが、大学を取り巻く混乱した当時の状況の中で、その現実性(我々の力量)、ということからすれば、 果たして、どの程度の展望があったのか・・・・?
僕には、確信が持てたわけではなかった・・・・・というか、全共闘、民青も含めて、どの党派も、確信の無いまま、ずるずると時間だけが過ぎていったのかもしれない。
この時の市大の分派グループは、大いなる動揺の中にあった。彼らは、自然発生性への拝跪=大衆追随主義の中で、2月には、民青=反革命規定とトロ諸派の問題提起の「評価」を主張し、ノンセクトとの「共闘?」を示唆したかと思えば、 5~6月以後は、民青と一体となって、「とりあえず授業再開」を主張した。
9月に入ってからの同盟支部は、分派闘争にかかりきりで、闘争方針は、あっても、まともな運動は、作り得ていなかったと思う。
10/4、マル機が、導入された。夜、府立青少年会館で「全関西政治集会」が開かれ、200名が結集した。10/21に向けての取り組みが、意思統一される・・・・10.21を、「全関西学生共闘」で取り組むこと、市大では、10.21闘争実行委員会を結成して、それに、平和委員会、改革闘争委員会、各クラス実行委員会などを、結集させていくこと・・・など。
阪大・学大などでは、10.21闘争を平和委員会の名前で、組織しているとの情報が伝わってくる。
この当時、学園闘争の構築=勝利に向けての取り組みというのは、だいたい、クラスでの団交決議を上げて、それを全学規模に広げて、全学団交を実現して、なにがしかの獲得目標を勝ち取る・・・・程度のことしか、考えられなかったが・・・ 誰が見ても、状況は、厳しかったというのが、現実だった。
同盟は、学生側の意思表明の場であり、決定権を保証した機関として、全学協議会を提起していたが、スローガンとしてのみ存在したというのが実態で、大学内の力関係からしても、実現の可能性は、きわめて少なかったと僕には思えた。
10/1、上六の教育会館で、10.21に向けての(期限付きの)全関西学生共闘結成大会。参加団体は、ほとんど、民学同関係ばかりで、68年の自治会共闘のような、横の広がりが実現しなかったのは、我々を取り巻く時代の急速な変化であり、自治会の機能停止、ノンセクトの跋扈する、全国的なアナーキズムの状況の中で、課題別共闘、期限限定の共同闘争方式の必要性は、薄れていったと、 今になって、思えるのであった。
10.21闘争では、全関西で、1,000名、市大で、120名(実数)が、参加した。それが、当時のDSLの力量だった。 動員力(数)では、ノンセクトや全共闘、あるいは、民青全学連などと比べて、はるかに見劣りしたものだった。 ------------------------------------------------------------ このころ、同盟内で、「学生共闘」の位置づけについて、阪大グループから、京大の学生共闘は、「第2自治会であって、自治会(本体)と対立するものであって、認められない」という意見が出ている。
同盟の単一全学連再建の基本方針では、 ① 単位自治会の再建・強化 ② 都道府県学連の再建・強化 ③ 地方学連の再建・強化 ④ 全学連の再建・・・・・ という道筋であって、共労党や、フロントなどが、68年~69年当時、一時、推進した「全国自治会共闘」路線は、第2全学連であるから認められない・・・として、我々 民学同(DSL)は、反対してきた。
自治会共闘の本来の姿は、「課題別の全国横断的な組織の一日共闘」であるべき・・・というのが、同盟の方針だった。 この方針上に、「学生共闘」が位置づけられるのか・・? が、根本の問題であったと思う。
恒常的闘争組織(全国自治会共闘など)は、学生戦線の分裂の固定化につながるから、課題別・期限付きの「学生共闘」の域を出るべきではない・・・というのは、正論であると思う。
しかし、それまでの民闘委(民主化闘争委員会、市大の場合)では、「大学改革」に限定されていて「限界」があるから、「安保」「沖縄」などの課題をも闘える「学生共闘」(自治会活動集団)が必要だ・・・という「民旗派」の主張は、間違ってはいない。
「統一会議」「全学連支持会議」「革新グループ会議」などのような、自治会活動家集団である・・・と位置づけすれば、自治会が崩壊していても、各大学内で、その位置づけで活動を行うことは、認められるべきであると思う。
阪自連という一定の自治会機能が残っていたという、当時としては、恵まれた状況下にあった阪大と、中執機能が停止して、全共闘や民青などの圧制?の下で、厳しい組織活動を強いられた京大・市大の置かれた状況を、阪大グループがどこまで、理解しようとしたのか?僕には、よくわからない。
もし、民学同の我々、民旗派が、自治会活動家集団の恒常的闘争組織としての個別学園内「学生共闘」という発想を捨てて、全国横断的な恒常的闘争組織としての「全国学生共闘」組織を提案したとすれば、それは、「第2全学連」であるという批判は、成立すると僕は、思う。
同盟の全学連再建方針とは、相容れないと思うからだ。 今回の全国委員会の提案は、10.21に向けての(期限付きの)全関西学生共闘の結成であり、幅広く学友大衆に門戸を開いたものであって、同盟の方針とは全く矛盾するものではなかったし、間違ってはいなかったと、今も思っている。
個別課題別かつ、期限付きの共闘組織が、多くの自治会活動家集団を対象に参加を呼びかけられ、たとえば、市大では、市大学生共闘という自治会活動家集団の呼びかけで、10.21闘争とか、6.23安保とか、学園改革、大学立法阻止、佐藤訪米阻止などに限定した闘争組織が作られるのが、正しい組織方針であったし、それは、現実に実行された。
ただ・・・・当時の混沌とした雰囲気・・・1968~69年の日大闘争、東大闘争を受けて、落ち着かない学園状況の中で、地道にクラス活動を、各大学の民学同(DSL)支部が、どれだけ展開できていたのか?ということになると、我々、民旗派も含めて、はなはだ疑問であったと言わざるを得ない。
全共闘の帝大解体=封鎖貫徹路線の中で、クラス活動が、どれだけ困難であったのかは、実際に体験したものでなければ、なかなかわからないと思う。 全共闘による物理的大学封鎖で、長期間、授業がストップすると、学生たちは、郷里に帰ったり、バイトに勤しんだり・・・と、バラバラになっていった。
クラス討論そのものが、一時的に成り立たなかったのである。これは、市大に限らず、全共闘による「封鎖」のあったところは、程度の差は、あっても同様の状況ではなかったか??と想像する。
全学ストライキは、最高レベルの戦術だと言われるが、それは、もろ刃の剣でもある。学生大会で、圧倒的多数の学友の支持があって(支えられて)初めて、最高度の戦術(怒りの表明)となりうるが、学友の支持の無い、ブントの物理的なバリケードストライキ=バリストのように、耳目衝動的な戦術は、周りの状況に寄って、一時的に(代行主義的)支持があり得るとしても、運動の継続性・発展性に欠け、闘争の展望が、無いがゆえに、次第に学友の支持を失っていき、大局的視点から見れば、大いなるマイナスでしかなかったと思う。
彼らのヘルメットやゲバ棒は、学友から支持の無かったバリスト、その非合法性に対する居直りであって、強がっては見せたが、その彼らの弱さの表れであったと僕は、思う。
学園闘争における、獲得目標の無い全学封鎖=大学解体路線は、権力に対する「敗北宣言」以外の何物でもなく、無責任アナーキズムの終着駅であった・・・・と断言できる。
「全共闘路線」を、阻止しえない僕たちは、結局のところ、70年の学園闘争、あるいは、70年安保闘争の敗北を目指して、突き進んでいかざるをえなかったのかもしれない。
ぼくは、70年の6.23のあと、同盟を離れたが、思うに、運動指導者たちの、誤った指導の中で、どれだけ多くの若い活動家が、その無限とも思えるエネルギーを出し切れずに、離れていったのか・・・・を考えると、恐ろしくなる。 安易に「革命」とかを口にする人間は、信用してはならない・・・・とつくづく思う。
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最終更新日
2024.07.24 01:51:17
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