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2023.02.27
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カテゴリ:日本共産党

日本共産党によるスターリン主義的抑圧体制が繰り返されてはいないか? 先日、改革を求めた日本共産党の党員が、「除名」された・・・出口の見えない党の将来に若者は期待せず、党員の高齢化ばかりが目につくが・・・・・  2023-2-27  はんぺん

 これは、ネットサーフィンで見つけたが、HP自体が、よくわからない・・・・・この共産党党内で起きた(事件!)は、赤旗(共産党機関紙)でも、一部の商業紙でも報道されたので、よく覚えているが、党外の我々にとっては、イマイチ実相が、よく分からなかった。

 

相当後になって、1997年、当事者・川上徹氏が上梓した『査問』で、詳細を知ることになった。

 共産党内における運動方針上の異論の発生自体は、そう驚くことではなかったし、運動方針上の意見の違いはどんな組織でも、発生しうる事である。

 

問題は、日本共産党という党組織の、党内異論に対する対応の醜悪さにあった。前時代的(スターリン主義的)組織体質が、戦後日本社会から見て、異様な、唯我独尊的、閉鎖的なモノであったことが、さらけ出され、国民が一定の距離を置き始めた契機となったのではないだろうか?  

 

日本共産党は、戦前から、天皇制軍国主義体制下、弾圧を受け続ける中、(反共産主義キャンペーン)に苦しんだものだが、多くの国民の中に深く浸透した(反共主義)の偏見?の克服に、相当の労力が必要であったと思う。

 

今回の事件は、改めて、発達した民主主義国家内における(党の在り方)について、大きな問題を投げかけたものだった。

 

共産党的言えば、原則的には、党内意見の相違を、党内民主主義をベースに「民主集中制」(綱領)で、(徹底した議論を尽くす材料を全党員に提供して、各自の意見を出しあう・・・)というのが、理想ではある・・・・と誰しもが思う。

 

しかし、(徹底した議論を尽くす材料を全党員に提供して、各自の意見を出しあう・・・)作業は、なされず、異論に対しては、強圧的、暴力的に、(拘束して査問)という弾圧を行ったのだ・・・・ 少数意見は、「民主集中制」の名のもとに、「抹殺」された!!!

 

しかし、そもそも「民主集中制」という制度自体は、党指導部が異論を排斥して、中央集権的に、党全体を支配する道具と化しているのが、現実であり、世界の歴史が、そのことを見事に繰り返し繰り返し、証明してきた。

 

70年安保闘争前後、僕の知る民青同盟は、彼らは彼らなりに、(反安保闘争)を闘っていた。我々とは、運動方針上での違いも大きかったが、それなりの組織率を誇り、無視できるような弱小党派では無かったし、それなりの勢いもあったものだ。

 

 「この事件の後民青同盟は衰退の坂をころげ落ちていった。20万の隊列は今では10分の1に縮小している。共産党内部の20代党員の割合も、70年代初頭の50%から、現在の2~3%に激減した。」(本文)

 

僕たちは、(日共=民青)とひとくくりに呼んだこともあったが、日本共産党が、民青=民主青年同盟という青年組織を、この事件をきっかけに、さらに徹底的に完全支配することになっていったようで、青年の自主的な発想、生き生きとした実践が摘み取られて、組織上の活性化が失われていった・・・・ようである。

 

全共闘などの暴力集団が、大衆の支持を失って自滅していったのは、当たり前の出来事で、ごくごく自然の流れだった。しかし、相当の組織力を保持してきた民青同盟が、丸ごと支配を企てた親組織(日本共産党)の蛮行により、青年らしい(牙)を抜かれて、腑抜けになり果て、ここまで凋落してしまったことに、衝撃を受けてしまう。

 

最後の 「新日和見主義事件は、民青同幹部にいた最もすぐれた活動家たちを根こそぎ一掃することで公安と党中央の目的を成功させた。」(本文) については、僕は、よくわからない・・・・公安が、最大のターゲットを、アホなトロツキストではなく、日本共産党と 日本共産党の下部組織と化した民主青年同盟で、あったことには同意するが、公安警察のスパイ、あるいは内通者が、どういう役回りを演じたのか? については僕は分からないし、おそらく謎は解明されることは無いだろう。

 

しかし権力の思惑通りに事が運び、彼らにとって(めでたく)、民青組織が「今日、地区組織も廃止され、20万→2万前後の同盟員に落ち込んでいる」(本文)のだから、公安警察権力にとっては、万々歳・・・・・ということだろう。

 

この1970年代初頭に起きた(新日和見主義事件)から、我々は、何を教訓として学ぶべきなのか??

 

皆さんは、どう思われるか?    はんぺん

 

―――――――――――――――――――――――

 【考察6、新日和見主義事件考】

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/book/book_shihiyorimizikenco.htm

 

 (序論)

 ここで、 新日和見主義事件を考察する。この事件は、筆者の現役学生時代の筆者が所属していた党派である民青同内の陰湿な粛清事件であり、民青同の凋落の転回点となった重要事件という意味で検証に値する。

 

日共党中央宮顕派の悪事が見事に露見している民青同内の大粛清事件であり、宮顕派の本質を確認する意味で見逃すことができないと考える。

 

事件後25年経過した1997年12月、首謀者とされていた川上徹・氏(民青同系全学連初代委員長、民青同中央執行委員)が著書「査問」(筑摩書房)で明らかにすることとなった。

 

 この背景に「古在由重訃報黙殺事件」がある。古在氏は古参の党員哲学者にして長らく民青同系全学連の友誼的な知識人の第一人者であった。その古在氏が1990年3月6日死去したが(享年88歳)、新聞各紙が訃報を大きく報道し追悼記事を載せたのに対し、赤旗は完全黙殺した

 

古在氏は、1984(昭和59)年の夏に起こった日本原水協の分裂で、共産党批判グループの吉田嘉清事務局長や草野信男理事長(東大医学部教授)らを支援したため除籍処分を受けていた。

 

赤旗の黙殺に対して党内外からの批判が高まり、党本部や赤旗編集局に抗議が殺到した。2月23日付け赤旗は、「古在由重氏の死亡の報道に関して―金子書記局長の報告の要点」を掲載した。そこでは、わざわざ「原水禁運動をめぐっての1984年10月の除籍にいたる日本共産党との関係」として、古在の「分派活動、規律違反行為」をわざわざ言上げし死者に鞭打っていた。

 

 同年9月14日、「査問」の著者・川上氏が、藤田省三らと共に「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画、事務局側の一人となった。呼びかけ人には家永三郎、加藤周一、川本信正、久野収、寿岳章子、除京植、田中里子、遠山茂樹、永井潔、古田光、緑川亨らが名を連ねていた。

 

川上氏は1400名の参加者の前で「つどいの経過報告」をした。これに対して、党中央は「除籍した者を偲んだ規律違反」として川上氏を査問し除籍した。

 

除籍された川上氏は封印してきた新日和見事件を反芻し、党中央の不義を問うことを決意した。これが「査問」として出版されることになる。

 

 1999年6月、油井喜夫氏が「汚名」を出版し、同じく事件を告発した。「実に共産党系の青年学生運動の根幹部分で起こった査問事件であった」(「査問」前書き)、 「共産党の閉鎖的な体質が最も顕著にあらわれたものの一つが、この『事件』 だったと考える」(「汚名」)と、事件当事者が語っている。

 

「さざ波通信」編集部は的確にも次のように評している。「日本共産党の戦後史において、現在の綱領路線を確立した以降に起きた事件の中で最も否定的な影響を及ぼし、現在にいたるもなお深刻な影を投げ続けているのが、1972年に起きた新日和見主義事件である」。

 

 *筆者は、民青同幹部でも日共党員でなかったので処罰されることもなかったが、当時の日共のヘンチクリンな論法と新日和見者側のブザマな対応が記憶に残っている。以下、筆者が解析する。詳論はサイト「新日和見事件考」に記す。

 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/minseidoco/shinhiyorimizikenco/shinhiyorimizikenco.htm

 

 【「新日和見主義事件」概観その1】

 

 新日和見主義事件とは、70年代初頭に日共-民青同盟-民青同系全学連の一部に現れていた戦闘的傾向に対し、宮顕の直接指示の下に党中央が摘発に乗り出したことから始まる。「戦闘的傾向」とは、当時の日共が1960年代後半から70年代初頭にかけて、全共闘運動のよろづ解体反乱型革命路線に対抗して打ち出していた「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」運動に呼応する一群の革命的民主主義者の急進主義的運動を云う。

 

日共は、70年代安保闘争が単なる反対のカンパ二アスケジュール闘争で無難にやり過ごし、新左翼各派の反体制闘争が内ゲバの季節を迎え内向化し始めたのを見定めるかのように、もはや用無しとばかりに日共-民青同盟-民青同系全学連の一部に現れていた戦闘的傾向の処罰に動き始めた。ここが胡散臭いところである。

 

 1971年12月、日共は第6回中委を開き、合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを踏み絵にしつつ反対派を浮き彫りにさせていった。

 

1972年5月、民青同幹部の党員会議が開かれたが、当然のように紛糾した。党中央は、会議直後、用意周到に準備させた査問者リストの手筈(てはず)に従い一斉に査問に着手した。

 

川上氏始め有数の幹部達が捕捉され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。その実態は、宮地健一氏の「新日和見主義『分派』事件」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/hiyorimi.htm)で明らかにされている。

 

 この時査問された幹部とは60年安保闘争以降に育った大衆運動畑の青年党員活動家であり、学生運動史上60年安保闘争前の革共同、ブント生成期の際にも、60年安保闘争後の春日(庄)らの構造改革派分派、志賀らの「日本の声」ソ共系分派、多岐な動きを見せた中共系分派、全共闘運動昂揚期の際にも動揺せず、むしろ愚直なまでに「宮顕率いる日本共産党の旗」を護り、党に結集していたいわば「ゴリゴリ」の共産党シンパの民青同活動家達であった。

 

この連中が一網打尽されたというのが新日和見主義事件の本質である。「汚名」 200Pは次のように述べている。この観点こそが、この事件のキーであると筆者も同意する。「党最高幹部は年齢問題の仕掛けをつくることで、新日和見主義『分派』のあぶり出しに成功した。そして、本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする人々を排除した」。

 

 新日和見主義事件は、当時の党を実質的に支配していた二重構造を改めて露呈させているということにおいて考察に値打ちが認められる。党の二重構造とは、背後に君臨するのが宮顕式の治安維持法的陰険狡猾な統制秩序であり、これに依拠しつつ表舞台で活躍するのが不破式スマイルによるソフト路線であり、この両者はあうんの呼吸で一対をなしていることを指す

 

*宮顕と不破を対立関係で見ようとする論もあるが、筆者はこの説を採らない。新日和見主義事件は、この裏の構造が出っ張った事件となった。

 

宮顕の音頭取りで直接の指揮の下、直伝の査問が行なわれたが、この経過から見えてくるものは、宮顕が戦前の「リンチ致死事件」に何らの反省をしていないばかりか、引き続きここ一番の常套手法にしている様が見えてくるということである。同時に氏が次代を担う青年組織に用意周到に常に警察的な目を光らせている様が自ずと見えてくることにもなる。

 

 個々の特徴としては、

1.この査問の理由づけが何であれ、党指導下の青年運動組織に対する党の露骨な介入以外の何ものでもなかったということ、

2.その介入ぶ りが「非同志的査問=前近代的警察的訊問」手法を通して行なわれたということ、

3.被査問者達がその後マークされ続け、陰湿ないじめられぶりを明らかにしていること、

4.この時の査問関係者に警察のスパイが複数いたという事実、

5.この事件で主要な役割を果たし真相を熟知している査問官茨木、諏訪が共に「過労死」しており、査問者側の真相告白の機会が失われてしまったことが惜しい

といったことに認められる。

 

 【「新日和見主義事件」概観その2】

 

 それでは、川上氏らがどのような分派活動をしていたのか見ておく。 事件の概要とコメントが1998年1月20日付け赤旗の菅原正伯記者「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか川上徹著『査問』について」で為されているので、これを参照しつつ筆者のコメントで応戦して見たい。 菅原記者は、新日和見主義分派の理論について概要次のように解説している。

 

 「川上氏らは、当時、党中央委員だった広谷俊二(元青年学生部長)らを中心に、党の『人民的議会主義』の立場に反対して『私的研究会』を党にかくれて継続的にもち、広谷らがふりまく党中央や党幹部へのひぼう・中傷などを 『雲の上の情報』などといって、民青同盟内の党員や全学連その他にひろげ、 党への不信をあおっていた」、

 

「川上氏らは、その活動のさい、ある党員評論家(川端治氏のことと思われる-筆者の注)らを理論的支柱としていた」、「この評論家らは、ニクソン米大統領の訪中計画の発表(71年7月)や、ドルの国際的な値打ちを引き下げたドル防衛策(同年8月、“ドル・ショック”といわれた)、72年の沖縄返還協定の締結など、内外の情勢の変動をとらえて、特異な情勢論を展開し、党の路線、方針に反する主張をひろめていました

 アメリカが中国との接近・対話を始めたのは、アメリカの弱体化のあらわれだとして、ベトナム侵略をつよめるアメリカの策動を軽視する『アメリカガタガタ論』、沖縄返還協定で日本軍国主義は全面復活し、これとの闘争こそが中心になったとして、日米安保体制とのたたかいを弱める『日本軍国主義主敵論』、さらには革新・平和・民主の運動が議会闘争をふくむ多様な闘争形態をもって発展することを否定し、街頭デモなどの闘争形態だけに熱中する一面的な『沖縄決戦論』 など、どの主張も、運動に混乱をもちこむ有害なものでした」

 

 「川上氏らは、こうした主張の影響をうけて日本共産党は沖縄闘争をたたかわない 人民的議会主義はブルジョア議会主義だなどと党にたいするひぼうと不信を民青同盟内にひろげた」、

 「しかも自分たちの議論を党や民青同盟の機関の会議などできちんと主張するようなことは避け、党や民青同盟の機関にかくれて『こころ派』などと自称する自分たちの会合を、自宅や喫茶店、温泉などで継続的にも って、党の路線に反対する勢力の結集をはかりました」。

 

 筆者は、こういう歪曲と捏造とすり替えを見るたびに、戦前の「リンチ致死事件」での宮顕の詭弁を思い出す。というよりそっくりの論法に気づかされる。赤旗記者とは、宮顕論法を如何に上手に身につけたかを紙面で競う提灯記事もの書き屋でしかないようである。そうすることでしか身分保障されないと云うことであろう。

 

新日和見主義者達は、菅原記者が書いているような意味で「アメリカガタガタ論」、「日本軍国主義主敵論」、「沖縄決戦論」を本当に鼓吹していたのか。新日和見主義者らに紙上反論権が認められ、その見解が一度でも良いから赤旗に記事掲載されたことがあるのか

 

新日和見主義者らの主張の真意が明らかにされぬまま一方的な党中央見解によって闇に葬むってしまうやり方はオカシクはないのか。こういう手法は、日共ならではに通用する封建的な「お白州政治」そのものではないのだろうか。

 

日共は民主主義を護れ的見地から政府自民党批判を得手とするが、党内に政府自民党的民主主義以下の強権政治を敷いているのでは話にならないではないか。

 

 ちなみに、新日和見主義者達が唱えていた理論は、日共流に云えば

1・日本共産党はブルジョア議会主義路線に堕落した。

2・大衆闘争に取り組まない。

3・組織改善活動は党の革命性を捨てたものである的見地から党中央を批判しつつ、4・表向き党の綱領や規約を守るように振る舞い、

5・背後に大国主義的干渉者がいるともトロツキストと野合しているというものであった

筆者は当時の渦中にいた一人として思うのに、上記の1・2・3につき不正確な記述に変容されているが、この指摘自体はあながちデッチ挙げではないと思っている。

 

 当時の民青同の戦う部分の見識を示す1971年12月1日付け「祖国と学問のために」の香月徹・氏の次の一文がある。「院内でのどんな爆弾質問も、その破裂を引火して燃え上がるべき院外闘争の加熱化と相関することなしには佐藤内閣打倒のキメ手にはならない。国会というものは、それ自体として新しい政治、新しい歴史を生み出すことのない、いわば産婆役に他ならぬ。人民の闘争こそが、レーニンの言う人民大衆の自主的政治活動こそが歴史の母であり云々」。

 

香月氏は、党中央の当時の純化しつつある議会主義に批判的なコメントを載せていることになる。当時の我々の気分はこうした見解を醸成しつつあったことは疑いない。

 

問題は次のことにある。この時党中央は、この3点のどこが認識間違いとして新日和見主義者達を論破していったのだろうか。その後の歴史の進行は、この3点の指摘通りに進行して行ったのではないのか。今日の日共の有り姿を見れば誰も否定できもすまい。

 

つまり、この時の党中央は、事実の指摘の前に理論闘争的に対応し得ず、弁論を捻じ曲げた上で批判して得意がり、規約を盾にして問答無用で強権的に査問していっただけのことではないのか。それは、反動権力者が常用する手法そのものではなかろうか。よりによって、そういう手法を党中央が常用するとは一体どういう仕掛けか。

 

 補足すれば、今日判明しているところでは、この時党中央が「背後の大国主義的干渉者」として想定していたのは北朝鮮労働党のことであったようである。「北朝鮮の支援を受け、朝鮮人参を売って分派資金をつくり、一大反党集団を結成しようとしている」と猜疑していたようである

 

ところが、査問した誰からもそのような陳述は得られなかった。黙秘したのではなくそういう事実がなかったと解するのを相当とする。「トロツキストと野合」も同様で、単に党中央の妄想あるいは捏造でしかなかった。そうではなかったと云うのなら今からでも遅くはない、党中央はその証拠を提示せよ。さもなくば、云いたい放題の悪質なフレームアップであろう。

 

 宮顕-不破式変態党中央は、日本共産党の名を語りながら、こういう情緒的扇動(フレームアップ)を得意としている。筆者は、それの及ぼす左派運動全体に対する信用毀損は測りがたいと考える。どおりで青年が左派運動自体に幻滅させられ、左派離れが進む訳だ。

ひょっとして、宮顕-不破系党中央は裏で、そういう目論見を持って意識的故意に野蛮政治を敷いているのかも知れない。そういう意味でも、宮顕-不破式変態党中央を引き摺り下ろし、連中の理論と実践の総体の総括に一刻も早く乗りださないといけないと考えている。

 

 【川端治、広谷俊二考】

 

 ところで、広谷俊二の無念の死が川上氏の「査問」文中にて明らかにされているが、川端治(山川暁夫)氏のその後の動静については記述がない。何らかの配慮があるものと思われるが知りたい。

ネットサイト「さざなみ通信」投稿文中に、「いかにもオールドボリシェビキ風の雰囲気を持った軍事評論家であったが、どなたか氏の査問のされ方、その後の様子について教えて頂けたら有り難い。健在なら良いのだけれども」と書きつけていたが、筆者がこう問いかけた時には川端氏は健在であったが、 2000年2月、心不全のため急逝した(享年72歳)。

この日、ある集会に講師として呼ばれており、その前夜も遅くまでその講演会のレジュメを作っていたとのことである。

 

 山川暁夫氏の履歴は次の通り。1945年の敗戦直後に旧制浪速高校で学園民主化運動などに参加する中から当時の「日本青年共産同盟」(現在の民青同盟の前身)に加入し、意識的な共産主義者としての闘いを始めていった。1948年、東京大学経済学部に入学すると同時に、日本共産党員として全学連結成に向けてのオルグに従事し、同年10月、党本部の青年・学生担当部員になる。以後、1972年、新日和見主義事件の際に「指導者」として査問を受け、これを契機に離党する。この間、「川端治」のペンネームで安保・沖縄問題に関する共産党のイデオローグとなる。

 

 離党後、高野孟・氏らとともに「MAPインサイダー」というミニコミを始め、これを足場にロッキード疑獄問題、日韓問題などについて論陣を張った。1980年代に入ってからも戦後国家体制の質的転換をめぐる数多くの著作を発表し、労働運動、民衆運動の再生発展のための努力を続けてきた。

 

1990年代の社会主義革命運動の大きな後退の時代の中でも建党協(共産主義者の建党協議会)―建党同盟―労働者社会主義同盟の一員として、最後まで共産主義者としての初志を貫いた。

 

 もう一人のイデオローグであった広谷俊二氏についても確認しておく。広谷俊二氏は、 「現代日本の学生運動」(青木新書、1966年3月初版)の著者としても知られ、中央青年学生部長を務めた元中央委員であった。

 

その広谷氏は、新日和見主義のイデオローグの一人で、新日和見主義事件で査問されたと見られるが、その後「悔い改めず」、むしろ決然と宮顕路線、宮顕体制を公然と批判し始めた。これに対し、党中央は、1977(昭和55)年6月23日、除名した。

 

これは、雑誌「中央公論」の昭和52年4月号誌上での田原総一朗氏の「党内から出た宮本日本共産党委員長への異議申し立て-元中央委員から党機関部員まで、現役党員の直言!」に、広谷氏の取材協力が判明し責任を取らされたものであった。

 

 【菅原正伯記者の党中央御用性について】

 

 党中央のメガホンとして「新日和見主義者」を懇々と説教した菅原記者がその後他にもどのような記事を書いているのかを見ておく。1999年4月4日付け赤旗に「 “ウソつき”よばわりでなくまじめな政策論戦を/地域振興券問題での公明新聞の記事について」、同4月7日付け赤旗に「地域振興券問題で破たんした公明新聞の日本共産党攻撃/いいわけでなく責任のある態度で」、同4月10日付け赤旗に「ウソが破たんしてもくり返すとは…/公明新聞が地域振興券問題で説明できなかったこと」等々立て続けに公明党批判の論陣を張っている。

 

 これによれば、菅原記者は、「党中央防衛隊的切込み記者」として新日和見事件で活躍した後の履歴は不祥ながら凡そ30年後、同じスタンスから公明党に対する難癖説教記事で登用され「ペンの正義」を揮っていることが分かる。この御仁の癖として、己を鏡に映して、その像をこれから批判せんとする相手に被せて批判するという手法がある。

 

 2002年8月13日付け赤旗に「NHKスペシャル 幻の大戦果 NHKテレビ 後9・0/虚報生む大本営の構造に迫る」を発表しており次のように書いている。「大虚報を生んだ大本営の情報軽視の体質と組織の構造的欠陥。同時に大本営を率いた天皇の役割や『人の姿をした神』の名で無謀な作戦を強要した不合理に触れないで日本軍の行動を本当に理解できるかどうか。そんな思いも残りました」

 

*この御仁に相応しいように、筆者が言い換えてしんぜよう。 「大虚報を生んだ党中央の情報軽視の体質と組織の構造的欠陥。同時に党中央を率いた宮顕の役割や『唯一完黙非転向指導者』の名で無茶な指導を強要した不合理に触れないで日共運動を本当に理解できるかどうか。そんな思いも残りました」。

 

 【「新日和見主義者」達とは何者であったのか?】

 

 「新日和見主義者」達とは何者であったのか? あるいはまた「新日和見主義者」達が摘発される寸前の状況はどんなものであったのだろうか?、解析 してみたい。

 

筆者は、「汚名」262 Pの「新日和見主義研究は、全共闘など新左翼諸派の影響下にあった青年を含む時代と青年情況の検証抜きには語れない」という観点に全く同意する。

「新左翼諸派の影響下にある群衆に、単にトロツキズムないし反共主義のレッテル貼りだけではしのげないし、青年大衆の未定形の不満に対して、切り捨てるのではなく正面から対応すべきとする、と柔軟な感性の必要性を述べていた」と論じた方の感性を至当としたい。

 

 事実は、筆者規定によれば次のように表現できる。「新日和見主義者達とは未形成なままに存在していた民青同の闘う分子であり、この時点まで党の呼びかける民主連合政府樹立をマジに信じて、その実現のために労苦を厭おうとしない一群の熱血型同盟員達であった」

 

でないと、新日和見主義者達は自己撞着に陥る恐れがあった。新左翼運動が衰退しつつあったこの時こそ民青同の出番となっていた訳であり、この出番で民主連合政府樹立運動に向かわないとすれば、一体全体ゲバ民化してまで全共闘運動と競り合った従来の行為の正当性がなしえず、大きな不義以外の何ものでもないことが自明であったから。

 

そういうこともあって、あの頃民青同の闘う分子は本気で民主連合政府樹立を目指そうとし、そのために闘うことを欲していた。闘争課題は何でも良かったような気もする。

川上氏は、「査問」206Pで次のように述べている。概要「冷えかかった背後の空気を感じながら、私たちは沖縄闘争を闘っていた。まるでそれは、60年代から引き継いだこの灯を消して仕舞ったら、永遠の静けさの世界がやって来るのではなかろうかという、恐れに近いものでもあったろう。新日和見主義『一派』に括られた者たちの一部、主に学生運動の分野には、明らかにそうした傾向があった。

運動の重さを辛うじて跳ね返し、なんとか闘争のヤマをつくりかけたさなかであった72年5月、新日和見事件が起こった」。

この語りは、さすがに往時の指導者としての状況認識を的確リアルに示しており、至当と思われる。

 

 新日和見主義者に新左翼的感性、発想の浸透を窺う論もある。宮顕の粛清は、民青に現れた新左翼的傾向を「双葉のうちに摘み取った」とする論である。こういう見方も見当外れではない。但し少々評論的過ぎるのではなかろうか。

 

「新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかった」という見方は、闘おうとする意欲の源泉をこの絡みで見ようとする点では同意しうるが、「新左翼と正面から闘う民青」方向に指導する宮顕-不破党中央に付きまとう胡散臭さに対する内在的な批判の介在を踏まえない限り、喧嘩両成敗に帰着させられてしまう

 

新日和見主義事件の本質は、70 年代初頭の民青同系全学連内に立ち現れた戦闘的傾向であり、この傾向には筆者を含めた新左翼と正面から闘う民青論理の不毛性を突破させ、確実な闘争課題に勝利していくことで実質的に社会変革を担おうとする、新左翼理論とはまた違う戦闘的民主主義論が胚胎しており、この動きに対して元々反動的な宮顕一派が「それも困る」として正体を露わに乾坤一擲の粛清に着手した事件であった。こうみなさない限りヴィヴィドな視点が確立されまい。

 

 事実、70年代を迎えて新左翼運動の瓦解現象が発生したが、党は、これと軌を一にしつつ既にかっての熱意で民主連合政府樹立を説かなくなっていた。この落差に気づいた筆者の場合、民主連合政府樹立スローガンが全共闘運動を鎮めるために党が用意した狡知であったということを認めるまでに相応の時間を要した。政治意識が遅れていたということであろうが、認めたくない気持ちが相応の時間を必要とすることになった。

 

 党がこの頃から替わりに努力し始めたことは、「社会的階級的道義」の名で道徳教育の徳目のようなことの強調であり、まるで幼児を諭すようにして党員達に対する注意が徹底されていった。

 

川上氏は、「査問」207Pで次のように評している。概要「70年代にはいると共に、党内での教育制度がきめ細かく制度化されるようになった。初級、中級、上級といったランク化された試験制度が定められ、それぞれの講師資格を取得することが奨励され始めた。党員全体に独習指定文献が掲げられ、専従活動家はそれを読了することが義務化された。党組織全体が巨大な学校のようになった。民青組織においてもその小型版が模倣されるようになっていった。私には到底堪えられる制度ではなかった」。*筆者も同様吐き気を覚えた。

 

 【宮顕の治安警察的な目考】

 

 ところで、宮顕はこの辺りの変節に対して自覚的であり、意識的に事を進めているように思われる。この冷静さが尋常ではないと思っている。氏の眼は、民青同の中に闘おうと胎動しつつあった雰囲気を見逃さなかった。この御仁の嗅覚は警察的であり、この当時の公安側の憂慮と一体のものとなっている。

 

 70年安保闘争後のこの当時に青年運動レベルにおいて勢力を維持しつつ無傷で残ったのは民青同革マル派であった。革マル派については「別章2、党派間ゲバルト考」で考察したので割愛するが、70年以降「左」に対する学内憲兵隊として反動的役割をより露骨化させていったのが特徴である。となると、残るのは民青同の処置である。元々民青同は青年運動の穏和化に一定の役目を負わされていたように思われる。

 

 ところが、この頃民青同は、「新左翼系学生との闘争を通じ、“ゲバ民”のなかには、自分たちの青年学生運動のやり方に自信をもち、また他方で新左翼的思想傾向の一定の影響も出てきました。 そして、共産党中央の上意下達式対民青方針への意見、不満も出るようになりました」、「宮本氏にとって、70年安保闘争、大学紛争、ゲバ民後の川上氏らの民青中央委員会や民青中央グループの態度は、分派ではないものの、反中央傾向に発展する危険性をもつと映りました」(宮地健一HP)とある通り、新左翼運動を目の当たりにした相互作用からか、幾分か戦闘的な意欲を強めつつあった。

 

 沖縄返還運動に対してその兆しが見えつつあった。党の議会闘争も成果を挙げつつあり、各地の選挙で躍進しつつあった。全国的地方レベルでの革新自治体の誕生と広がり、地方議員の誕生等々が並行して進行していた。

 民青同がこの流れを後押ししており、民主連合政府の樹立に向けて巨歩を踏み出そうとしていた。その民青同が次第に党の統制を離れて別個の指導部を形成し始め、それが危険であるように宮顕の眼に映った。

 

 恐らく、70年代の青年学生運動の流れを俯瞰したとき、組織的に無傷で温存された民青同は20万人の組織に成長し一人勝ちの流れに乗ろうとしていた。この動きは、対全共闘的運動の圧殺に成功した公安警察側の最後の心配の種であった。

 

筆者が既に戦前の「宮顕リンチ致死事件」で解析したように、宮顕の奇態な党指導者性からすれば当局のこうした意向が奥の院地下ルートから伝えられ、これを汲み取ることはわけはない。  

 

 こうして宮顕の出番となる。宮顕の嗅覚は「分派のふたばの芽」を嗅ぎ取ることとなり、「党内清掃事業」に乗り出すことになった。この清掃事業に対して、新日和見主義者達は、「何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」(「査問」226P)と述べている。

 

長い自問自答の熟考の末、事件の主役として査問された川上氏は、好意的に次のように理解しようとしている(「査問」152P)。「共産党はこの『事件』をきっかけにし(ある意味では利用し)、自覚的にか無自覚的にか、自身が一種の『生まれ変わり』を果たそうとしたのではないかと考える。 一つの時代の区切りをつけたかったのではないかと。それを『右旋回』と呼ぶか『官僚化』と呼ぶか『柔軟化』と呼ぶかはその人の立場によって異なるであろう」。

 

 つまり、被査問者達は、宮顕-不破ラインの党をなお信用しようとしており、自分たちが党の新路線問題で粛清されたと理解したがっているようである。しかしこうでも考えないと未だに「当事者達が何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」ということであろう。こういう結論に至る背景には、筆者には根深い宮顕神話の健在と宮顕式論理の汚染が影響しているように思われる。

 

 宮顕神話については次のように告白されている。概要「あの『事件』がおきる一年くらい前まで、私自身は『熱狂的』ともいえる宮本顕治崇拝者であった。頼りになるのは宮本顕治だけだと考えた。宮本の話したり書いたりした一言一句といえどもおろそかにしてはならぬと信じたし、これに異議をとなえるものは『思想的に問題がある』と信じた」。

 

この連中に他ならぬ宮顕その人の指示で襲ったのが新日和見事件であった。この衝撃の落差を埋め合わせるのに各自相応の歳月を要したようである。筆者は既に公言しているように、宮顕の戦前-戦後-現在の過程の一切を疑惑しているので、この事件の解明はそう難しくはない。

 

宮顕系党中央と公安当局との内通性の然らしめるところ、党内戦闘的分子(又はその可能性のある者)を分派活動の理由で処分したものと理解することができる。

 

 川上氏は現在この立場での認識を獲得しているように思える。今日においては、「あれほどコケにされた体験」と公言している。漸く「アノ世界からあれほどコケにされた体験」を客観化し得、この瞬間から「コケにした者達」への疑惑を確信したものと推測される。

 

 こうした認識上の延長からこそ以下に記す事態の凄みが伝わってくる。「査問」に先だっての用意周到な首実検の場面が明かされている。事件発生前の72年初頭の旗開きの席のことである。宮顕は、彼らの“傾向” を直接観察するための場として、代々木の共産党中央本部で党本部幹部多数と民青同中央常任委員の合同レセプションを開いた。

 

 その場の宮顕について次のように書かれている。概要「私の眼は、会場のいちばん角の薄暗くなっている一角にじっと座っている、大きな人影を見つけだした。私はそれまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。

 

冷たいものが走る、という言い方がある。そのときに自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか。 誰もいない小さなその部屋で、私は、あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」(川上著「査問」13P)。

 

 そう、「宮顕の警察的な目」を感知することが肝要なのであり、そのことに気づいた川上氏の感性や良しとしたい。願うらくは、「宮顕の警察的な目」に対する更なる洞察こそが望まれているのではなかろうか。川上氏の「査問」は、これを記したことにより価値を持つ。この価値の共認に至らない新日和見主義事件考は画龍点晴を欠く。欠いたままの評論が多過ぎる。

 

 【「日共のウソ総括」考】

 

 この時、新日和見主義者として処分された党員の数については、全国で600名とも1000名に及ぶとも云われている。党中央は未だに全貌を明らかにしていない。処分は1972年9月末の民青同第12回全国大会で承認された。民青同本部常駐中央常任委員だけでも15名中7名が処分されていた。

 

処分は民青同だけにとどまらず、広谷俊二共産党中央委員や川端治、高野孟などの評論家にも及んでいた。全学連指導部の処分には向かわなかったようである。

 

このことに関して、「汚名」251Pは次のように記している。「党の影響下にあるとはいえ、全学連は大衆団体である。党の指導を公然と認めている民青とは根本的に違う。数十万の学生を擁する全学連が党の統制措置で混乱を来すとすれば、反党的学生運動の再来を招かないともかぎらない。かっての全学連や全自連指導部が党の処分で、逆に結束を固めたことも否めない事実だった。党中央はその経験から深謀遠慮の決定を下したものと思う」。*そうかも知れない。

 

 「日本共産党の65年.312P」は次のように記している。「72年7月の第7回中央委員会総会、同年9月の第8回中央委員会総会は、新日和見主義、分派主義の問題を解明し、これとの闘争の重要性を強調した。党は、理論上、政治上、組織上の徹底 した批判と闘争をおこない、『新日和見主義分派』を粉砕した。この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し、新しい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」。

 

 この記述には二重の詐術がある。一つは、「この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し」の詐術である。この時期、民青同は、「一時期の組織的停滞」どころか、反代々木セクトが退潮著しい中で20万同盟員を擁して存在力を強めつつあった。

 

もう一つの詐術は、「新しい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」である。既に説明不要であろうが、事実は逆で、新日和見主義者弾圧そのものを奇禍として民青同とその全学連の組織的凋落への契機となっ た。ウソもいい加減にしないと閻魔様に舌を抜かれてしまうであろう。

 

今日、地区組織も廃止され、20万→2万前後の同盟員に落ち込んでいるのではないのか。事件は「角を矯めて牛を殺す」結果になったのはないのか。筆者は、こういう詐術ががまんならない質であるが、大方の党員は「何でもかんでも党中央の云うことはその通り」で合点しているようである。

 

 これを、「結局、党が民青をいじりすぎた」と理解するのは評論的好意的に過ぎよう。筆者は、企まれ仕組まれた事件であったと凝視している。ちなみに、「さざ波通信」では次のように否定的影響について明らかにしている。

 

この事件の後民青同盟は衰退の坂をころげ落ちていった。20万の隊列は今では10分の1に縮小している。共産党内部の20代党員の割合も、70年代初頭の50%から、現在の2~3%に激減した。

 

他の国の共産党ないし後継政党と比べても、日本の党はとりわけ青年党員の比率が低いのではないだろうか。これは単に青年の保守化というだけでは説明できないだろう。新日和見主義事件が残した深刻な爪痕をそこに見出すことは十分可能である」(1999年7月6日.S・T)。*正論と言うべきだろう。

 

 【「処分とその後」について】

 

 処分された民青同中央・都道府県機関内共産党員等は、引き続き要注意人物として監視されていくことになった。この状態に置かれた党員について、宮地健一氏HPは次のように記している。

 

「『県直属点在党員』は、水平的・横断的 交流全面禁止の民主集中制の下では、単独で、かつ垂直に、党中央に『意見書』を提出する権利以外はすべて剥奪されるという党内独房状態に強制的に収監されることになる」。とあることから推測すれば、「県直属点在党員」となって支部からも外され、「格子なき党内独房」下に置かれるようである。

 

 「格子なき党内独房」について、宮地氏は自らの体験も踏まえて、 特高の「予防拘禁式組織隔離」を真似したものではないかと指摘し次のように述べている。

 

「そもそも、治安維持法なるものが、天皇制打倒、資本主義体制の暴力的転覆を目指す非合法暴力革命政党コミンテルン日本支部、日本共産党員、シンパの言動を封殺するための予防拘禁的な格子ある牢獄、独房隔離措置法律でした。

 

その天皇制の組織隔離独房に、宮本氏12年、袴田氏10年、徳田・志賀氏らは18年収監されていました。宮本氏は、自分が体験した『格子ある治安維持法独房』の言動封殺手口を、今度は合法的革命政党・前衛党最高権力者として、党中央批判者を専従解任後も転籍させない『点在党員』措置という“格子なき牢獄”手法で逆用したのです」。

 

 【「処分者への強制学習」について】

 

 処分者はその後、強制学習を強いられる日々となった。次のように明かされている。概要「被査問者は罪の軽い重いによって次のように分類された。比較的重い『核』の連中は、川上・宗邦洋・本部役員池田と松木の4名であった。彼らは外界との一切の連絡を禁止され、自宅待機が命じられた。『誰とも連絡を取ってはならず、何処へも出かけてはいけない』と言われ、いわば座敷牢に押し込められた

 

その次に重い者は、分派活動を直接担い率先助勢したグループであり、党本部の新保・党中央委員の広谷俊二ら約20名が該当した。ここまでを待機組という。待機組には、党が指定する文献(大会決定文書、宮本・不破等の論文)の自宅学習とその感想文の提出が義務化された」

 

比較的軽い者は数十名で、釈放された翌日から民青本部への出勤が認められたので出勤組という。出勤組は、仕事には付けられず会館五階にあるホールで学習すること、その結果をノートに記し、党中央委員会に提出することが求められた。その過程で自己批判を一層深めることが要求された」。

 

 ここは注意を要するところであるが、宮顕、不破等の駄文を読ませ感想文を書かせることの意味は、「宮顕-不破党中央のイエスマンになるのか」の踏み絵を権力的に強要したということであろう。ということは、現下党員幹部はこの踏み絵に対してのイエスマン橋を渡った者ばかりであるということになるであろう。

 

 新日和見主義者達は治安維持法下の予防拘禁制度の真似のような「小型版収容所列島」に押し込められた処分者は、自己批判の誠実度により一年未満の党員権停止処分から除名処分の間を ランク分けされた。

 

生き残り組には「異常な」学習と労働が指示された。 「異常な」とは、「新日和見主義粉砕」のポスター書とそれの事務所周辺貼りの強要がなされたことを云う。このエゲツナイ指示を与えて得々としていた者が後にスパイであったことが判明している。ならば、そのスパイを使っていた者、そのスパイを表彰した者の責任はなぜ追及されないのだろう。誰がそのスパイを重用していたのだという当たり前の関心が遮断されている。

 

 【事件に垣間見える公安の暗躍について】

 

 いよいよ新日和見主義事件に暗躍した公安スパイの考察に入る。事件から2年後の1974年、前民青同中央常任委員であり大阪府委員長であった「北島」が公安警察のスパイとして摘発された。

 

「北島」の事件渦中の動きの詳細は伝えられていないが、事件後の被査問者に新日和見主義粉砕のステッカーを書かせ、それを民青同事務所の周辺に貼らせる指示をなす等大阪府委員会における「異常な学習と労働」の先頭で立ち働き、この功績が認められその後党本部勤務となり要職に就いていたという人物であった。

 

この経過は、党中央と「北島」の 利害が一致していたことの例証であると思われる。人の世の常として、こうした人物が「党本部勤務となり要職に登用」されることがままあるにしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶりと比較してみていかにも杜撰(ずさん)な思いが禁じえない。

 

 続いて、翌1975年、現職の民青同愛知県委員長「水谷」らもスパイであることが発覚 した。ところが、現職委員長のスパイの親玉は前・民青同愛知県委員長「西村」であることが判った。ということは、民青同委員長職がスパイからスパイへと回されていることになる。

 

我々は、こういう事態をどう了解すべきだろう。この「西村」と言えば委員長在職時代に、新日和見主義者を処分した民青同第12回全国大会で、最高の栄誉「解放旗」を授与され、当然「西村」の模範的活動家ぶりが評価されたという曰くつきの人物であった。

 

この経過もまた、党中央と「西村」の利害が一致していたことの例証であると思われる。物事には過ちがつきものとしてこうした人物に「解放旗」 が授与されることが許容されたとしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶりと比較してみていかにも杜撰なというか、摘発方向が反対ではないかという思いが禁じえない。

 

 「北島」、「西村」の二人について油井氏は次のように述べている。「私は、KとNの摘発記事が『赤旗』に写真つきで載ったとき、強い衝撃をうけた。私たちを処分した主要幹部だったからである。彼らは新日和見主義糾弾で大いに活躍した。KやNは、陰に陽に教育・学習と闘争、拡大と闘争の関係など、民青中央委員会の議論を巧妙にあおってきた人物だった」(「汚名」247P)。

 

こうしたことから 「当時の民青中央委員会に、中央常任委員を含む複数の中央委員が公安警察のスパイとして潜伏し、同事件を挑発した形跡がみられる」と結論づけられることになる。事件渦中での「北島」、「西村」の働きをもっと知りたいようにも思うが、これ以上には明かされていない。

 

 1975年12月26日付け赤旗記事から窺えることは次の通りである。

概要西村は長い間、党や民青同盟の情報を収集し、党と民青同盟内で反党分派組織の拡大をはかった。さらに腐敗した異性関係、多額の公金横領など社会的、階級的道義に反する腐敗堕落行為を続けた。このような犯罪行為が、隠し切れないと見るや公安警察に連絡し権力の手を借りて逃亡した」

 

概要水谷は重要な任務を担いながら、競輪、競馬などのギャンブルに熱中するなど、党に隠れて乱脈な生活を続けてきた。この弱みにつけ込まれ警察官から競輪、競馬などに誘われ、料理屋、キャバレーなどで十数回に及ぶ酒色の接待を受け、こうして党及び民青の人事や任務分担、地方選挙などの情報を提供、その報酬として合計28万円を受け取った。又西村の指示のもとに一部民青幹部とともに反党分派の謀議に参加し、民青同盟を党と対立させようと策動した」。

 

 赤旗によれば、「北島」、「西村」が新日和見事件時に党中央の意向を挺して新日和見主義者掃討の最も熱心な旗振り役であったことなどおくびにも出さない。むしろ、「党と民青同盟内で反党分派組織の拡大をはかった」とか「反党分派の謀議に参加し、民青同盟を党と対立させようと策動した」とか、あたかも新日和見事件時の新日和見主義者側であったかのごとくに逆方向へ意図的に詐術している

この詐術はまさか偶然ではなかろう。これが、宮顕-不破ラインの典型的且つ一貫した常用ペテン論理であることを見抜くのは造作もないことであろう。 

 

 筆者は、これまで述べたことから明らかなように、単に公安の暗躍により新日和見事件が起こされたなどとは考えない。公安にしても「北島・西村」は表沙汰にされた一部でしかないのではないのかと考えている。

 

「新日和見事件は党中央と公安とが内通しつつ押し進めた党内清掃事業であったのではないのか」と考えている。「北島・西村の存在漏洩」はその証の一部であったのではないかと考えている。こうして、新日和見主義事件は、民青同幹部にいた最もすぐれた活動家たちを根こそぎ一掃することで公安と党中央の目的を成功させた。

 

もし、この見方が間違っているというのなら、「北島・西村」摘発後における党中央の俊敏な、事件そのものの見直し作業が自主的に開始されていてしかるべきであろう。他にも新日和見主義事件には追跡検証してみたいことが多々ある。






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最終更新日  2023.03.22 23:16:49
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