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2023.04.19
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カテゴリ:社会主義

「戦争反対一般」を語っても、なんの意味も無い・・・・リベラルたちの無力を笑う!! 今、時代は、あなたたちを、まったく必要としていない! 何という悲劇なのか!!  2023-4-19   はんぺん

戦争がなければ、私もポーランドにもっと長く残ろうとしたかもしれない。しかし、戦争が起きたことで、キーウこそが友達や自分の近しい人々がいる場所であり、今いるべき場所はここ(キーウ)なんだと考えるようになりました。」(本文)

 

「ただ、今は戦争が2年、3年続いてもウクライナの勝利で終わらなければならないと考えています。我々はここまで大きすぎる犠牲を払ったのですから。」(本文)

 

このウクライナ市民の生の言葉に、日本のリベラルたちは、どんな反応をするのだろうか・・・と、考えてみた。

(戦争反対一般)しか語れない、能天気な(平和主義者)には理解不能だろう。

 

戦争は、誰でもイヤだ・・・・当たり前の話だ。

しかし、日本が侵略される可能性が高いいま、(戦争反対)(自衛隊反対)(9条守れ)で、日本を守れるか?  

 

(護憲派)は、ボロボロの悲惨な状況なのだ。

日本の(護憲派=リベラル)の凋落は、ますます激しさを増している。

 

無責任な(平和憲法幻想)を振りまいてきた、そのツケが回ってきたということで、(反省する勇気)を欠いたままでは、再浮上は、あり得ないと考えるが・・・・

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

―――――――――――――――――――――――

「占領のない国で父と再会」願うキーウ市民 ロシア占領地から逃れて   キーウ=喜田尚2023124日  朝日新聞

 ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、1年近い月日が経とうとしている。戦火の下で、ウクライナの市井の人々はどんな思いを抱きながら生きてきたのか。親ロシア派が2014年以降、占拠している東部の主要都市ドネツク出身で、222月の全面侵攻後、逃れてきた市民に話を聞いた。

 

キーウ 学生 オレクサンドラ・ボフジアジさん(16) 

 侵攻後の20228月、東部ドネツクから母といっしょにキーウに来ました。学校の11学年(日本の高校2年に相当)に通っています。今の私の心配は、ドネツクに残った父のことに尽きます。父は病気で動けない2人の祖母を世話するため、ドネツクを離れることができません。

 

 ドネツクは14年からロシアに占領されていますが、222月からの侵攻で、状況はさらにひどくなりました。男性は通りを歩くだけで連行され、戦場に送られます。父は1カ月以上アパートから出られませんでした。アパートで水が出るのは週に23回だけ。街にロシア兵があふれ、武器を持ったまま酔っ払っている人もいます。

 

 テレビはプロパガンダばかりで、ドネツクの住民の8割はもう「ロシア人」になったと思います。2人の祖母もテレビのニュースを信じているので私は話ができなくなりましたが、両親が取りなしてくれていました。

キーウに来て本当にうれしいのは、思っていることを話せることです。

 

 もともと、姉夫婦が長くキーウに住んでいたのですが、(侵攻後のロシアによる攻撃で)停電が多く、2人とも仕事ができなくなったためアパートを引っ越しました。私と母はそのあとに住んでいます。

 

 キーウの学校には、ロシアに占領されたさまざまな地域からの生徒たちが通っていて、仲良しグループをつくっています。先生たちはやさしく、私たちに占領地のことを聞いたりしません。

 

 ロシアの占領地にも、ロシアに近い場所にも、もう行きたくありません。戦争がいつ終わるのかはわかりません。でも、今年がダメだとしてもいつかは、ロシアに占領されていないウクライナで、父といっしょに暮らせると思っています。(キーウ=喜田尚)

 

―――――――――――――――――――――

私の「いるべき場所」は友のいる街 侵攻後キーウへ、大きすぎる犠牲  キーウ=喜田尚2023127日   朝日新聞

 ロシアによる侵攻が続き、ウクライナの多くの人々が故国を離れた。ただ、「故郷のため何かをしたい」と国外からウクライナに戻ることを選択した人もいる。4年間住んだポーランドから、侵攻後の2022年夏、首都キーウに戻った市民に話を聞いた。

 

キーウ、会社員フリエブ・ボイエンコさん(25

 ポーランド南西部ウロツワフの大学で学んだ後、ワルシャワの会社で働いていたとき侵攻が始まりました。ウクライナ軍を助けるため、ヘルメットや防弾チョッキなどの物資を集めて送るボランティア活動に従事しました。

 

 でも、戦争が長引くにつれ、必要とされるものがドローン(無人航空機)や車両などへと変わっていき、だんだんボランティアの手には負えなくなりました。ちょうどそのころ、会社の雇用契約が切れてキーウに戻ることにしました。

 

 戻ってまず気づいたのは、人が少なくなったことです。地下鉄はがらがらで、以前の人波はありませんでした。それから空襲警報。今は慣れましたが。

 

 ただ、一番大きく変わったのは人です。人が人に優しくなりました。みないつも助け合おうとしている。死んだり、傷ついたりした親戚や友人がいる人も多いからでしょう。誰もが戦争に人生を変えられたんです。

 

 ポーランドの人々もそうでした。戦争が始まったとき友人たちは、私が母と妹を呼び寄せるなら世話をする、と申し出てくれました。大家は無料で部屋を貸すと言ってくれました。

 

 街中にはウクライナ国旗が掲げられました。それまでポーランドの人々にとって、ウクライナ人はお金を稼ぎに来る移民でしたが、このとき共同体の一部として受け入れられたのです。

 

 戦争がなければ、私もポーランドにもっと長く残ろうとしたかもしれない。しかし、戦争が起きたことで、キーウこそが友達や自分の近しい人々がいる場所であり、今いるべき場所はここ(キーウ)なんだと考えるようになりました。

 

 最初、戦争はどんな形であれ、最初の夏までには終わると思っていました。必ずしもウクライナにいい形で終わると思ったわけではありません。

 

 ただ、今は戦争が2年、3年続いてもウクライナの勝利で終わらなければならないと考えています。我々はここまで大きすぎる犠牲を払ったのですから。(キーウ=喜田尚)






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最終更新日  2023.04.20 02:26:18
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