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2023.06.03
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カテゴリ:北朝鮮

中国とロシアが、北朝鮮を擁護(国連)・・・全体主義の跋扈を容認する国連に未来を託せるのか? 「新冷戦」を制するのは、民主派か、全体主義派か?  2023-6-3   はんぺん

「国連安全保障理事会は2日、北朝鮮の「軍事衛星」打ち上げを協議する緊急公開会合を開いた。中国とロシアが弾道ミサイル発射の際と同様に、北朝鮮を擁護する姿勢を崩さず、安保理は具体的な対応を取れなかった。」(共同通信)

 

「話し合いで・・・」「国連で・・・」と言い逃れてきた日本リベラルの皆さんは、この現実をどう評価するのだろうか? あなたたちの無責任、現実性の無さが、どれだけ多くの国民を、間違った方向に誘導してきたのか? を、噛み締めてほしい。

 

あなたたちは、いつまで、「即時停戦を・・・」「話し合いを・・・」と言い続け、侵略者ロシアの領土占拠を認め、全体主義の跋扈を容認するのだろうか???

 

世界は、自由・民主主義・人権・法の支配・・・などの民主派と、人権抑圧・秘密警察(密告)・軍事強国(覇権主義)・・・などの全体主義派との(新冷戦時代)の真っただ中にある・・・・

 

本来のリベラル基準からみて、あってはならない日本リベラルたちの異常さ、狂気が、日本の運動を長い間、歪めたものにしてきた・・・・・何という事だろう・・・・

 

北朝鮮の暴虐に、一切非難を差し控えてきた(新社会党)の無残!を思う。

僕的には、とうてい、信じられない蛮行!だと思うが、彼らは、居直りを続けるしか道は無いようだ!

 

多くの若者たちが、リベラルを見限りつつあるのは、不思議でも何でもない事だ。

ただ、残念なのは、僕の友人も含めた前途あった若者たちの人生が、無残に壊されてしまった・・・ということだ。

 

かくいう僕自身が、この(洗脳)の中で、長年生きてきて、その脱却に多くの時間を費やしてしまって・・・・遅い自己批判だったことだ。多くの間違った主張を周辺に振りまいてきた社会的責任は、決して小さくは無いだろう・・・・

 

しかし、未だに、昔の(仲間)たちが、この(洗脳)の中で、(幻想)を振りまき続けている・・・・

人間とは、かくも未熟なものだったのだ・・・・

 

僕の若い時代、これからは戦争は、未然に防ぐことができる新時代の幕開けのように思えたものだった・・・

これは、新しい時代は、新しい思想(社会主義)をもとに、全てを塗り替えることができる時代だ・・・という大いなる錯覚が、あった。

 

謙虚さを失い、大衆を指導するなどという、大それた世界観(価値観)で、人類は今なお過ちを繰り返し続けている・・・・

 

(追記) 

1人だけ、上手な日本語を話した・・・・その男が、日本が拉致事件の実行犯として国際手配している辛光洙(シンガンス)容疑者で、北朝鮮では「英雄」と称賛されてきた人物だと知ったのは、随分後になってからのことだ。」(本文)

 

拉致事件などを少しでも勉強しているなら、日本潜伏の北朝鮮の工作員の辛光洙(シンガンス)容疑者について、よくご存じのハズだろう。

北朝鮮工作員辛光洙らが、北朝鮮からの指示を受け、昭和55(1980)6月、大阪府在住の原 敕晁(はら ただあき)さん(当時43歳)を宮崎県の青島海岸に連れ出して工作船で北朝鮮に拉致し、さらに、その後、辛光洙は拉致された原さんに成り替わって同人名義の日本旅券を不正に取得の上、数回にわたって海外に渡航し、海外拠点の設置、対韓国工作等の活動を行っていた・・・・

 

19852月 成田から韓国に入国。逮捕。

198511月 ソウル地裁で死刑判決

199912月 恩赦で釈放

20009月 北朝鮮に送還

――――――――――――――――――――――――――

(ウイキペディア)から・・・

19852月にソウル特別市内で韓国当局に逮捕され、その取り調べによって辛は転向表明して日本人を拉致したこと、その拉致した日本人に「背乗り」(はいのり)、つまり成りすまして工作活動を行ってきたことを自供した[2]。韓国の裁判所はこれを事実として有罪判決を下した[11]

 

逮捕に至った手がかりは、辛光洙が日本で利用していた土台人のネットワークを構成する者が、辛光洙のことを日韓の公安当局に通報したことによる[注釈 2]12月に死刑判決を受け、転向表明を撤回する[2]19881220日に無期懲役に減刑。全州刑務所に収監。

 

200092日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された。北朝鮮では、英雄として辛の記念切手が販売されている。

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在日韓国人政治犯釈放の要望書について(ウイキペディア)

19897月、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯29名の釈放を嘆願するという趣旨の要望書が、当時の日本社会党・公明党・社会民主連合・無所属の議員有志133の署名とともに韓国政府へ提出された。このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に、本事件の実行犯である辛光洙や金吉旭など北朝鮮スパイの名が複数含まれていたことが判明し、金正日が北朝鮮による日本人拉致実行を認めた20029月以降、同年1019日に当時官房副長官であった安倍晋三が土井たか子・菅直人を名指しで「極めてマヌケな議員」と評するなど、署名した国会議員は保守政治家や日本共産党などから厳しく批判された。

 

このような批判に対して、菅直人は「釈放を要望した人物の中に辛光洙がいるとは知りませんでした。 そんな嘆願書に署名したのは私の不注意ですので、今は率直にお詫びしたい」 と謝罪した。

 

―――――――――――――――――――――――――――

「釈放を要望した人物の中に辛光洙がいるとは知りませんでした。 そんな嘆願書に署名したのは私の不注意ですので、今は率直にお詫びしたい」(菅直人)

本当に、リベラルたちは(間抜け)だったと今では、言える。

 

あろうことか! ・・・・・拉致事件の主犯格のスパイたちの(釈放嘆願書)に署名するなどは、日本人を守る立場の、日本の国会議員が絶対にやってはならないからだ・・・・  なんというアホな議員を、僕たちは、リベラル派として、選挙活動してきたのだろう・・・と今になって、猛省するのだ!!!

それもこれも、背景には、侮りがたい(社会主義幻想)が、あったことは間違いない!!!

 

皆さんは、どう思われるか?

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詰められた袋から見えた黒い海「俺は殺される」 地村保志さん、富貴恵さんが拉致された夜 【20179月掲載】「拉致40年目の真実」  2022/04/28   福井新聞

星空がきれいな197877日夜、福井県小浜市のレストランで食事を終えた同市の地村保志さん=当時(23)=と浜本富貴恵さん=同(23)=は、地村さんの軽トラックで標高67.2メートルの小浜公園展望台(同市青井)に向かった。七夕のデート。2人は1週間前に結納を交わし、秋に結婚することが決まっていた。

 

 頂上近くの道を、4が歩いて登っていくのが、窓越しに見えた。保志さんは関係者に「半袖のワイシャツみたいな服で、夏場の観光客のようだった」と話している。当時、展望台近くにはユースホステルがあったため、不自然な光景ではなかった。

 

 展望台付近に車を止めて、階段を上り、展望台の2階に行った。柵にもたれ下をのぞくと、外のベンチに座っているアベックが、さっきの4人に取り囲まれていた。追い払われるように、アベックは車に乗って去って行った。

 

 「様子がおかしい」と思った保志さんは、下の様子を確認するため、たばこを取りに車に戻った。展望台1階のベンチに座り、たばこを吸っている4人が見えた。

 

 保志さんはたばこを持って2階に戻ったが、嫌な予感がした。立ち上がって帰ろうとすると、4人が後ろに立っていた。階段を上る音など、近づく気配はまったく感じなかったという。

 

 その瞬間、後ろに倒されうつぶせにされた。猿ぐつわのようなものを口にはめられ、保志さんは手錠、富貴恵さんは後ろ手に縛られた。足も縛られた。保志さんは頭を振って抵抗したため、地面に顔を擦った。そして、2人はそれぞれ麻のような袋をかぶせられた。うつぶせの状態で、男の肩に担がれて、斜面を下ろされた。

 

 保志さんは関係者に「動くたびに男の肩がみぞおちに入り苦しかった。自分が動こうとすると、手錠が締まっていく感覚があった」と打ち明けている。音と男たちの動きから推測すると、車道に出て、1台の車が通り過ぎるのを待って、浜まで下ろされた。

 

 息苦しそうにしている保志さんを見かねたらしく、口元付近の袋の布がナイフで切られた。そのすき間からわずかに見えた風景を保志さんは覚えているという。両端には岩、正面には真っ黒な海と、奥にはいさり火が光っていた。

 

 襲われてからここまでの間、2人は男たちの声を一言も聞いていない。まさに無言の犯行だった。

 

 公園でアベックが追い払われていることから、日本側の第三者が関与するなどした“狙い撃ち”だったようにもみえる。ただ、デート先に公園を選ぶことを予想できる人物がいるはずもなく、2人は自分たちに起こった悲劇を「偶然だろう」とみているという。

 

 小浜公園展望台から、袋詰めにされ近くの海岸まで運ばれた保志さん、富貴恵さんは、浜でゴムボートに空気を入れるような「シュッシュ」という音を聞いている。

 

 そして横たわるような態勢でゴムボートに乗せられた。ただ2人は「一緒に乗せられた感覚はなかった」とも話しており、別々のボートだった可能性もある。

 

 保志さんは関係者に「女性を狙った事件だと思った。俺はもう殺されるんじゃないかと思った」、富貴恵さんは「外国に売り飛ばされると思った」と語っている。北朝鮮による拉致と想像できるはずもなかった。

 

  ×  ×  ×

 

 ボートから船へ、船から船へ。計2回乗り換えた。2人が船の中で顔を合わすことはなかった。ふわっと持ち上げられて別の船に移されるとき、保志さんは「海に放り投げられたと思った」、富貴恵さんは「殺されると思ったから抵抗しなかった」と、関係者に当時の恐怖を語っている。

 

 最後の船に乗り移ったとき、初めて袋から出された。服装や背格好から、公園で襲ってきた男は4人ともいた。そこで初めて男たちの声を聞いた。1人だけ、上手な日本語を話した。

 

 その男が、日本が拉致事件の実行犯として国際手配している辛光洙容疑者で、北朝鮮では「英雄」と称賛されてきた人物だと知ったのは、随分後になってからのことだ。

 

  ×  ×  ×

 

 最後の船で2人は別々の部屋に入れられた。腰をかがめないと入れないほど天井が低く、一畳ほどの狭い部屋だった。「ここで休みなさい」と日本語で言われた。

 

 保志さんは、襲われたときに擦りむいた顔と、手錠で赤くなった手首に薬を塗られた。関係者には「扱いが粗末じゃないし、2回も乗り継ぐということは、単なる事件じゃないと思った」と話している。男同士が交わす言葉などから、外国に向かっているのではないかと感じ始めていた。

 

 翌朝、船のデッキで白米やキムチ、卵焼きなどの食事を時間をずらして出されたが、2人ともほとんど口をつけることはなかった。

 

 夕方、ある港で降ろされた。後に知ったことだが、そこは北朝鮮北東部の清津だった。2人は2台の車に乗って、別々の宿泊施設に連れて行かれた。屋根の造りなど建物の風情から、異国であることは明らかだった。そこで健康診断を受けた。翌日の夕方、2人は夜行列車に乗って、平壌駅に向かったが、その間も2人が会うことはなかった。「公園で一緒にいた人は、日本に置いてきた」と言われた。

 

  ×  ×  ×

 地村さん夫妻が拉致されてから39年がすぎた。当時の拉致の状況、北朝鮮での生活、いまだ帰国を果たせない被害者家族の苦悩などを描く=20179月に掲載した連載を再アップしました。

 

――――――――――――――――――――――

47歳でゼロからの始まりだった」拉致被害者地村保志さん、北朝鮮から帰国後の20年  2022/10/16   福井新聞

 福井県小浜市の拉致被害者地村保志さん(67)は、帰国してから20年を迎えた1015日、同市役所で記者会見した。帰国後、子どもを北朝鮮に残したまま永住を決断した苦悩を語った一方、日本での生活に不安がある中で同級生をはじめ市民、県民の支えが大きかったと振り返り「小浜に生まれて良かった」と感謝を述べた。

 

 地村さんは19787月、妻富貴恵さん(67)とともに拉致され、24年後の20021015日に帰国した。

 

 当初は「一時帰国」の予定で、北朝鮮に3人の子どもを残しており、保志さんは「子どもたちを呼び戻せるか悩んだ」と永住帰国の決断を振り返った。しかし「県民、市民、同級生の皆さんが横にいてくれて、子どもたちを待ち続けることができた」と話した。

 

 045月に日本に来た子どもたちは、行政や市民ボランティアの支援もあり、半年ほどで日本語を習得。3人全員が進学、就職し、現在は自立している。保志さんは「(子どもの就職のために)地元企業が手を差し伸べてくれた。心から感謝している」と述べた。

 

 自身の社会復帰については「(帰国当時)47歳でゼロからの始まりだったので大変不安だった」。研修を受け、保志さんは小浜市役所職員、富貴恵さんは県庁の嘱託職員として勤めた。

 

 一方で、他の被害者の帰国が果たせていない現状には「被害者本人が高齢化し、今救出しないと生存した状態での奪還は難しくなる」と強い危機感を示し「(自分の)帰国20年を、節目ととらえることはできない」と述べた。政府に対しては「国際社会に訴えるだけではなく、北朝鮮と水面下、実務者で協議を進めてほしい」と求めた。

 

 現在、保志さんは地元の小中学校を中心に講演をしたり、署名活動に参加したりしている。15日には、小浜市内で開幕した「OBAMA食のまつり」の会場で、同級生とともに署名を募った。残された被害者の救出に向けては「啓発や署名活動をして、少しでも被害者救出に役立てるよう頑張りたい。拉致を知らない若い世代にも体験を語っていきたい」と述べた。

 

 会見には救う会福井の森本信二会長(67)も出席し「決して諦めないという気持ちで地道に活動を続けたい」と話した。






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最終更新日  2023.06.03 13:57:39
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