カテゴリ:学生運動
「仲間殺し」で、妄想の学生運動は、終わった。真摯な(総括)は、行われなかった・・・ 2024-3-15 はんぺん 連合赤軍の妄想集団)兵士による、(革命ごっこ)で、多くの人々が、傷つき、貴重な(命)が、奪われた。この(革命ごっこ)が、当時の社会、なかでも、学生運動の世界では、そんなに違和感なしに、革命方法などについて、語られていた・・・・そんな中に、僕たちは、生きていたのだ。
ちょうど、大学入学時に、すぐに、全学自治会から出されてきた(4.28教養部ストライキ)方針・・・・前年の10.8羽田闘争、1月佐世保闘争の(盛り上がり)に、のぼせあがった民学同(共労党派)からの 大学の状況を無視した(先進的?)方針だったが、大学だけではなく、世間全体が、浮かれ切っていたように、僕には思えた。
全学大会では(教養スト方針)は、成立しなかったが、(代行主義)による学友の(無責任な支持・容認)は、その後に行われた、全学自治会選挙での、社学同(トロツキスト)の躍進という、僕にとっては(信じられない)結果に繋がっていく。
時代の流れとは、恐ろしいものだと、今では、そう思う。僕たち(理性派)の立場は、吹っ飛ばされたワケだ。 正しい主張が、必ず主流となるとは限らない・・・いかに、努力しても・・・だ。
全国学園闘争が、ドロ沼化し、混乱する中で、その混迷を自己目的化して、(「敗北」を目的とした、極左派も暗躍した。「勝利」の展望を欠く集団が、勝利に向けて、運動?していた。
民学同(共労党派)は、その後、プロ学同(プロレタリア学生同盟)と名称を変え、トロツキストへの限りない転落を開始していくが、その後、数年で、分裂? 解体?したのか、学生戦線の表舞台から、姿を消した。(三里塚闘争での砦に、プロ学同の旗が、わずかにあったようだ)
連合赤軍は、青2才の(バカ者)たちによる(革命ごっこ)だったが、最期には、(仲間殺し)で、12名の同士たちを惨殺した。 こんな現実を 僕たちは、マスコミの報道で知ったわけだが、多くの活動家たちは「これで、終わった・・・」と感じた事だろう。
しかし、自分たちの未熟さを痛感して、きちんと(総括)しようとした者が、圧倒的に少なかったことが、60年安保闘争との決定的な違いだったと、某紙に書かれてあったが、そういう事だ。 あの70年安保闘争では、真剣に日本の未来を考えるというよりも (お祭り気分)で、浮かれて(参加)した学生たちが、いかに多かったか!! ということだ。
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――― あさま山荘事件。その時、何が?真相と今に伝えるもの 2023年02月27日 NHK長野WEB特集 連合赤軍による、あさま山荘事件・・・1972年(昭和47)に起きたこの事件では、連合赤軍のメンバー5人がライフル銃などで武装し、長野県軽井沢町の山荘に人質をとって立てこもった。10日間に渡る銃撃戦の末、全員逮捕されたが、警察官2人と民間人1人が死亡し、27人が負傷した。
日本中が固唾をのんで見守ったこの事件、当時現場で活動した機動隊員と救護班員の証言から見えてくる、事件の真相とは。そして、事件は今の時代に何を伝えているのか。
(取材はいずれも2022年)
死も覚悟・・・箱山好猷さん 長野県警の機動隊員としてあさま山荘に突入した箱山好猷さん。当時36歳で、犯人による発砲が続く中、突入に向けて山荘内の様子を確認する偵察などを行っていた。突入が決定し、破壊工作の班長を任された。
事件当時の箱山さん・・・ 「人質を救出するために2階に突入することが決まり、破壊工作と検挙制圧を組織することになった。分隊長の私は、『破壊工作のための隊員を選んでくれ』と言われ、信頼できる隊員を選んだ」
突入前夜、箱山さんは死ぬことも覚悟していたという。
箱山好猷さん・・・ 「みんなの心は決まっていた。前の晩、隊員と別れの杯をして、朝に出動する時には水杯をした。天気が良くて雪が黄金に輝いて見えていたが、私は車の助手席で目をつぶって、『もしもの時は親子3人いつまでも元気で仲良くいてくれ』と家族に別れを告げた」
足元に・・・・
立てこもりから10日目の2月28日、救出作戦が始まった。 箱山さんたちが隣の建物から鉄ハンマーなどであさま山荘の2階の壁を破壊している時、思いもよらないことが起きた。
箱山好猷さん・・・ 「私の足元に爆弾が落ちたが、私は気づかなかった。隊員が『危ない、箱山分隊長危ない』と言われて気がついた。不発弾だったのでよかったが、爆発していたら死んでいたかもしれない」
突入!
九死に一生を得た箱山さんは20人の隊員とともに一斉に山荘の2階に突入した。
箱山好猷さん・・・ 「ガス銃を撃ち込んでいたので、部屋の中はガスでいっぱいだった。ガスで息が吸えない、呼吸ができなかった。だから、息が吸えるようにするため盾を窓にぶつけて割った。行ってからは不安はなかった」
数分で2階を制圧し、箱山さんはそのことを示すため外に向かって旗を振ったという。 制圧時のことを箱山さんは手記で「万感の思いをこめて窓にかざした。隊旗は寒風にはためいた」と述べている。
ところが、ほどなくして悲報が飛び込んできた。 警視庁の機動隊長と警部が撃たれたというのだ。2人は死亡する。 あさま山荘事件では警察官2人を含む3人が死亡し、27人が負傷した。
妄信が悲劇に 事件後にはさらにショッキングなことが明るみとなる。 連合赤軍が活動方針をめぐり仲間に自己反省を迫ってリンチをエスカレートさせ、12人を殺害していたのだ。
過激化した若者たちが引き起こした、あさま山荘事件。 警察を退官後、旧真田町の最後の町長も務めた箱山さんは、若者たちの妄信が悲劇につながったと語る。
箱山好猷さん・・・・ 「若いと1つのことを信じてそれにのめり込んでしまう傾向がある。若い人は純粋で、疑問を抱かずに受け止めてしまう。当時、才能があった人たちがみんなそういう方向を向いてしまって、あさま山荘事件の5人もそれで人生を棒に振ってしまったと思う。あれがなければ、しっかりと勉学を進めて社会の中で生きていただろうし、相当な力を発揮できたのではないかと考えると、もったいなかったし、残念だ」
救護班員として・・・・ 救護班員として活動した小林富貴子さんは当時、箱山さんと同じ36歳。女性でただ1人の救護班員として負傷者の手当てや健康管理にあたった。
突入作戦が実施された2月28日、小林さんは山荘に最も近い救護所への移動を命じられる。人質が救出された場合、真っ先にその健康状態を確認するという任務が与えられていたのだ。
ところが、救護所に移動すると信じたくない光景を目にすることになる。 警視庁の機動隊長が頭付近に銃弾を受けて担架で運ばれてきたのだ。
小林富貴子さん・・・・ 「眉間に銃弾が入った姿で担架に乗って、もう血まみれになっていた。警視庁の機動隊員が泣きながら担架を運んで来て、『隊長』『隊長』と言って、そばから離れようとしない。その姿を見たら私も泣いてしまって。本当に悲惨で」
人質解放も… 解放作戦は夜まで続いた 午後6時過ぎ、今度は担架に乗せられた人質の女性が、小林さんたちのもとに運ばれてきた。 小林さんは女性の体調に異常がないか、必死になって確認したという。
小林富貴子さん・・・・「脈はこうやってとるものだと習っていたが、自分自身の脈がすごくはやくなっていて、それが影響したのか脈をうまくとることができなかった。落ち着いてから脈をとったら、脈を打ってるので、『大丈夫だから早く』と言って救護車に乗せて送り出した。これが私の1番の任務だった」
命の重み この事件をきっかけに命の重みを考えるようになった小林さんは、命の大切さと教訓を伝えるために、当事者として事件のことを子どもや孫に語り続けているという。
救護班員だった小林富貴子さん・・・・「あさま山荘事件では人の命の尊さを知った。この事件を経験していなかったら、これほど人の命について真剣に考えただろうかと思うこともある。同じような重大事件が起こる可能性もあるわけだから、そうしたことが起きないようにするためにも私自身も語り継いでいかなければいけないと思っている」
【ことば解説:連合赤軍】 日米安保条約の延長をめぐって反対運動が勢いを増していた1971年(昭和46)に結成。「革命は銃口から生まれる」を合言葉に群馬県の山の中のアジトにこもり、銃を使って軍事訓練と称した活動を続けていた。幹部は、意に添わないメンバーに対して「生まれ変わるための総括が必要だ」などと自己批判を強要し、集団で暴行。1か月あまりの間にメンバー12人の命が奪われた。なお、あさま山荘に立てこもった5人のうちの1人は、その後マレーシアで起きた大使館占拠事件で超法規的措置によって釈放されて出国し、現在も国際手配されている。
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最終更新日
2024.04.06 20:04:34
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