カテゴリ:学生運動
「革命と叫びながら何ができたのです。14人を殺しただけ。もっと世の中を広くみて人の愛、情を理解する素直な人間になることです。」(仲間殺しの犠牲者=赤軍派兵士:遠山美枝子の遺族の実母の手紙から) 2024-3-31 はんぺん ・・・・こんな時代が、僕の若い時代には、あったということだ・・・・ 「社会主義思想」「マルクスレーニン主義」に、多くの若者たちが、洗脳され、人生を悲惨なモノに、してしまった。
取り返しのつかない事件だった。 殺された12人の仲間(同志)たちは、2度と、戻ってくることは無い。
本人たちも、さぞ無念だっただろうし、遺された家族たちの悲嘆、慟哭は、いかばかりだったろうか?
(あの多数の犠牲者を出したテルアビブ空港乱射事件を起こした重信房子たちの、日本赤軍についてだが)以前、このブログで、こう書いた・・・・ 今ごろ「もっと他のやり方があった」(重信房子)と言われても、殺されたものは・・・永遠に浮かばれることは無い。なぜ、彼らを死刑にしないのだろうか? 今でも、この僕の考えは、変わらない・・・ 死刑が、残虐だとは思わない、それ以外の選択肢は、あり得ない・・・ それだけ。
現在でも、旧赤軍派の支援者の中には、事件による多くの被害者に寄り添うのではなく、(元赤軍派の)加害者たちに寄り添い、支援を続けているグループが、あると聞く・・・・何という事だろう・・・
僕は、あの多数の犠牲者を出したテルアビブ空港乱射事件で、何の意味も無く殺された民衆たちに、寄り添うことなく、自分たちの正当性ばかりを叫び続ける(左翼小児病)が、人間の最大の弱点ではないか? と考えている。
それは、洗脳から解放される事無く、反省できず、居直り続け、独裁国家を狂喜させ続けてる日本リベラルとオーバーラップする。
人類の未来は、暗い・・・と、ずっと言い続けてきた僕の余生は、あと10年も無いハズだ・・・
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――― 止めなかった、仲間の後悔 2024年3月27日 朝日新聞 現場へ! 連合赤軍「指輪物語」④ 世の中を変えよう、革命を起こそうと盛り上がった学生運動の挫折となったのが、1971~72年に起こった連合赤軍(連赤)事件だ。あさま山荘での銃撃、仲間を殺害したリンチ事件の凄惨(せいさん)さに、人心は離れ、学生運動は急速に衰退していった。
連赤のリーダーで、永田洋子(2011年に獄中で死去)と共に主犯とされた森恒夫は、裁判がはじまる直前の73年1月、獄中で「自分を総括する」と自殺した。28歳だった。
彼はその2カ月前に、群馬県の山岳アジトで命を落とした遠山美枝子の母、幸子(ゆきこ)(100歳)に長い手紙を出していた。
〈美枝子さんのことについて心からおわびします。私が犯した行為は本当に阿修羅の権化、地獄の餓鬼といわれるべきことで一片の人間性のない行い〉とはじまる森の手紙には、美枝子が山岳アジトへやってきた経緯が記されていた。
*
〈美枝子さんは非合法の(赤軍派)中央軍に女性としてはじめて入るんだという希望を誇りを持って昨年12月初旬から私たちと行動を共にしました〉
永田が美枝子の批判を始めたのは、山梨の山岳アジトにいた時だった。指輪に端を発し、化粧、髪形、服装にまで及んだ。
森は、永田ら革命左派が以前から取り組んできた女性問題の見地からの批判だと理解した。男性中心の組織だった赤軍派は〈女性問題はわからないので美枝子さんを援助しなかった〉と幸子への手紙で弁明している。
この時、山岳アジトにいて現場を目撃した岩田平治(72)は、当時20歳。永田が率いた革命左派に属していた。
「最初は和気あいあいとした雰囲気でした。だから永田が遠山さんの指輪うんぬんと一方的に言い出した当初は冷めた目で見ていた」と振り返る。
指輪を外さない美枝子に対し、永田は「女性兵士は男性兵士以上に努力しなければならない」とやり玉にあげた。
群馬・榛名山のアジトに移動してから雰囲気は一転した。 今度は森も同調した。美枝子は指輪を外したが、全体討論で総括のターゲットにされた。
「指輪に象徴される『女らしさ』を自分たちの中からたたき出さないとダメ。女である前に革命戦士だ、というのが永田らの主張でした」と岩田は言う。 「共同幻想」を突き詰め、恋人、家族など個人的な弱さは切り捨てろ、と「総括」と称した集団リンチが止まらなくなった。
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美枝子が死亡した72年1月7日の翌朝、岩田は、永田らの命令で名古屋へ向かった。「もうついていけない」とそのまま脱走。出頭して逮捕された。
翌年の7月9日、獄中から幸子へ長い謝罪の手紙を書いた。 〈本当にあの時、どうして「もうこんなことはやめよう」と言わなかったのだろうと後悔しています。何とおわびしてよいやらわかりません〉
今回の取材で50年ぶりに幸子への手紙を読んだ岩田は、「今思うととんでもないことだが、当時は革命を起こすと信じていた。私が脱走した後も、妊婦だった仲間まで殺したと知り、本当に落胆した」と語る。
一方、幸子は手紙にこうつづっていた。〈革命と叫びながら何ができたのです。14人を殺しただけ(略)。もっと世の中を広くみて人の愛、情を理解する素直な人間になることです〉=敬称略(森下香枝) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.07 02:36:10
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