カテゴリ:学生運動
左翼テロで亡くなった多くの市民は、生き返ってはこない・・・洗脳と宣伝で多くの学友大衆は、全共闘や赤軍連中の敗北主義に付き合わされたのだ 2024-4-1 はんぺん あの時代を、よく思い返す。人間は、よく過去を美化する傾向があるというが、どうしても、そんな気になれない自分がいる。
世の中を改革(革命)して幸せな社会をめざそうという、僕たちには、若い心意気があったから・・・それが裏切られた、その反動は、あまりにも大きい。
(裏切られた)というよりも(騙された)という方が、正確だ。洗脳されたということだ。
「非常に簡単に言ってしまえば、世の中から完全に浮いている、ということです。貧富の差や階級対立だけでなく、自覚的な市民や学生が世を変えていく原動力になるとかつては漠然と信じていた。でもそれは思い上がりでした。」(本文:安彦良和)
「このまま日常が続いていった果てに『革命』が訪れるなんてあり得ないことに、かなり早い段階、遅くとも安田講堂の攻防戦のころには気づいていました。にもかかわらず、ほとんど惰性的に運動を続けているのは相当に醜悪なんじゃないか、そういう自己嫌悪です」(本文:安彦良和)
当時の(活動家?)の大半(僕も含めて)は、(70年安保、学園闘争などに勝利することなど、あり得るのだろうか? いや、あり得ないだろう・・・)と感じていたハズだ。
しかし、欺瞞的にも(闘争)は、続けられた。大海に突進するレミングのようにだ。特に、全共闘や極左冒険主義者たちは、そもそも(玉砕)することで、自己の正当化を画策したように、僕には思えた。
あの東大闘争での「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」の落書きは、敗北主義のフレーズだと、よく言われるが、僕は、無責任極まりない、唾棄すべき、子供の言葉遊戯だと思っている。いつも反吐が出そうな気分になるのだ。
自分たちだけが、唯一正しく、誰が何と言おうとも(=どんなに社会に害毒を流そうとも)、やり抜くのだ・・・という事だろう。思い上がり、のぼせあがり・・・ヒロイズム・・・シニカルで、ペシミズム・・・こんなリーダーたちに、多くの学友大衆は、洗脳され、扇動されていたのだ・・・・ そこで、思い返してほしい。あのテルアビブ乱射事件を起こした日本赤軍・・・その重信房子が、その後、 「ニュースに取り上げてもらうような事件を起こすことで、自分たちの訴えをアピールしようとした」だと、彼女は(ほざいた)のだ。 また、重信が一連の事件を振り返り、「ほかのやり方があったら良かったし、手段を考える機会をもった方が良かった」と反省の言葉を口にしたこともあったという。(娘の重信メイ談)・・・ 「もっと他のやり方があった」と(反省?)している???? そんなことを、事件後に言われても、亡くなった多くの市民は、生き返ってはこない・・・後悔先に立たずで、(彼らの運動の軽さ)については、ホトホトあきれ返ってしまう・・・ (参考) 日本赤軍=多くの殺人を犯した(無差別テロ犯)の一刻も早い検挙を!!! (逃げ得)は、許されないぞ・・・・ 2022-6-2 (はんぺん) https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202206020000/
連合赤軍事件から、何を学ぶか? リベラルたちは、学んだか?? https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202105270000/
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――――――― 連合赤軍が残した深い傷 政治の時代の終わりとサブカルへの違和感。ガンダムと戦争と歴史と 安彦良和が語る 聞き手・石川智也 2022年6月20日 朝日新聞 のちに「機動戦士ガンダム」の作画監督として名を成すことになる安彦(やすひこ)良和さん(74)。アニメ業界に生活の糧を得て働き詰めになっていたころ、古傷をうずかせるような事件が起きた。
連合赤軍メンバーによるあさま山荘事件は人々をテレビに釘付けにしたが、その後発覚した同志12人リンチ殺人事件は、世を震撼(しんかん)させることになる。 逮捕されたメンバーには、安彦さんの弘前大全共闘の仲間で、大学本部封鎖でともに処分された5人のうちの2人、植垣康博さんと青砥幹夫さんの名もあった。
【連載】ガンダムと戦争と歴史と 安彦良和が語る 「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人、安彦良和さんに新作公開を機にその世界観を存分に語ってもらいます。
連合赤軍事件によって学生運動はとどめをさされ、新たに若者の心を捉えたのは、アニメや漫画といった「サブカル」だった。 新人類世代が牽引(けんいん)するそのブームの下で寵児(ちょうじ)となった安彦さん。しかし心中では、違和感が澱(おり)のように積もっていた。
――運動仲間だった植垣さん、青砥さんが事件に加担していたことを知った時は、何を思いましたか。
「すーっと心が暗くなるような絶望感というか……。わずか2年ほど前に自分と同じ立場にいた者が軍事訓練のために山に入り、そこで同志殺しにまで手を染めていた。なぜそこまで、と」
〈連合赤軍は赤軍派が革命左派と統合し1971年7月に結成される。
幹部が指名手配されるなどして次第に追い詰められたメンバー5人は72年2月、長野県軽井沢町のあさま山荘に人質をとって10日間立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げた。
人質は救出されたが、警察官2人を含む3人が死亡。 事件後の容疑者の供述から山岳ベース事件(仲間12人をリンチ殺人)や印旛沼事件(革命左派が離脱者2人を殺害)が発覚した。
逮捕者は17人。リンチ殺人は最高幹部だった森恒夫元被告(73年に拘置所で自殺)と永田洋子元死刑囚(2011年に獄中で病死)が主導したとされる〉
「集団の病理」では説明つかない 「誤解を恐れず言えば、新左翼運動、特に全共闘には、ある種の軽さというか遊びがありました。よど号をハイジャックした赤軍派の宣言『我々は“明日のジョー”である』もそうですが、ヤクザ映画やロックや漫画に意識的にすり寄り、悪ぶって不真面目さを気取っていた面があった。
でもそういう軽薄さ、しゃれが許されて自由があるところが、仲間を査問にかけて排除するような四角四面で非人間的な旧左翼とは違う点だと、僕は肯定的に捉えていたんです」
「左だろうが右だろうが、スターリニズムこそ乗り越えなければならない、というのが僕らの世代の共通認識だったはずです。にもかかわらず、こんな人間性のかけらもない事件が起きてしまった。自分たちの信じていた大義は何だったのか。そんな絶望感です」
〈リンチ事件は、「水筒を持参しなかった」「化粧をしていた」「キスをしていた」といったささいなことを理由に、革命闘士としての自覚が足りないとして「自己批判」「総括」を求め、その「援助」のためと称して殴ったり木に縛り付けたりするものだった〉
――植垣さんは自著「兵士たちの連合赤軍」やメディアのインタビューなどで「組織の論理が事態をエスカレートさせた」「あの2人(永田、森両元幹部)でなくても同じことは起こり得た」と振り返っています。その後のメンバーの回顧や識者の評論などでは、「スポーツ界のしごきやイジメなど、現在の日本社会にも残る集団の病理が事件の要因」といった分析もありました。
「それはちょっと違うと僕は思います。閉鎖世界の極限状態で起きた集団心理という側面はもちろんあったでしょうが、根っこにはやはり、マルクス・レーニン主義特有の思想性があったと思います。
それは言葉の呪縛、観念の呪縛で、宗教にも通じるようなドグマに彼らはとらわれていた。物理的に縛られる前に、『革命』『武装闘争』『戦士』という言葉に、観念的に縛られてしまっていた。『反革命』と認定されることを恐れ自ら『総括』し、仲間の暴力死すら『敗北死』なのだと自らを納得させてしまう。二重に縛られていたんです。だから抵抗できなかった」
沈黙は傷の深さゆえ 「連合赤軍事件は、革命の名の下に多くの人々が粛清された歴史上の事件との共通性の方が多い。植垣は『自分たちが革命を成功させていればポル・ポトになっていた』とも述懐しています。
次元や規模は大きく異なるものの、血の一滴も通わない毛沢東主義によって最大200万人もが虐殺されたカンボジアの悲劇の、まさに先取りだったと思います。日本的な現象だとか、イジメと共通するなどと相対化し一般化してしまうと、この問題を見つめ検証したことにはなりません」
「それから、連合赤軍事件をきっかけに学生運動や新左翼運動が退潮したという見方は、違うと思います。僕らはもっと前から挫折していた」
――安彦さんや植垣さんが関わった弘前大のバリケード封鎖が失敗した後に「敗北感」を感じた、と話されましたね。あれはどういう意味だったのですか?
バリケード封鎖失敗後の「敗北感」について語った連載第3回はこちら 「非常に簡単に言ってしまえば、世の中から完全に浮いている、ということです。貧富の差や階級対立だけでなく、自覚的な市民や学生が世を変えていく原動力になるとかつては漠然と信じていた。でもそれは思い上がりでした。
このまま日常が続いていった果てに『革命』が訪れるなんてあり得ないことに、かなり早い段階、遅くとも安田講堂の攻防戦のころには気づいていました。にもかかわらず、ほとんど惰性的に運動を続けているのは相当に醜悪なんじゃないか、そういう自己嫌悪です」
「それでもベトナム反戦だけは自分の中では大きなよりどころだったし、少なくとも、安保体制を前提にした戦後民主主義のウソや矛盾を、社会騒乱を起こすことによって噴出させることはできるんじゃないか、とは思っていました。それで大学を占拠したり機動隊に石を投げたり物を壊したりといったことを正当化していたわけです。そういう自分たちの無責任さにも気づいていて、苦しい日々でした」
「そうした矛盾に嫌気が差した仲間の多くは、とっくに運動から離れていました。だから、連合赤軍事件は、とどめの一打だったということです」
――全共闘世代は、60年安保世代と比べて体験を語ることをせず、沈黙を保ってきたと評されてきました。
「植垣とともに同志リンチ殺人に連座した青砥は『傷の深さ』が理由だと言っています。結局は対米従属の現実を変えられなかったばかりか、社会運動に陰惨と憎悪の臭いをまとわせてしまった無力感と罪悪感。それは僕も同じで、だからこそ昔の仲間とはずっと付き合わないというスタンスでした。長い沈黙は、我々の体験の空疎さではなく、重さ、巨大さの証しだと思います」
「でも、若者だった我々も、もう老境。人生の後処理をしなければならない時です。薄っぺらいと感じていた『戦後』もすでに『歴史』と呼べるくらいの質量に達しました。来し方を振り返り、時代の中に位置づけ、きちんと検証すべきでしょう」
重信氏に語ってほしいこと 「沈黙というけれど、一部の人はむしろ冗舌で、『俺たちは闘った。近ごろの若者はもっとしっかりしろ!』などと、妄想じみた美化をして恥じない者もいる。そういう歴史性を欠いた『ガラパゴス左翼』的な人たちの拡声された語りに体験をゆがめられないためにも、当事者たちが責任をもって語るべきじゃないか」
――連合赤軍の源流のひとつである赤軍派の創設メンバーで、後にパレスチナに渡り日本赤軍を立ち上げた重信房子・元最高幹部が5月末、刑期満了で出所しました。
「日本赤軍は75年、マレーシアの米国大使館などを占拠したクアラルンプール事件を起こし、公判中だった連合赤軍の坂東国男らを超法規的措置で国外に逃亡させた。 77年には日航機をハイジャックしたダッカ日航機ハイジャック事件で同じようにかつての仲間の釈放を求めたけれど、名指しされた植垣は釈放を拒み、公判に臨んで事件に向き合い続けました。 それはひとつのスジの通し方です。でも、僕には重信らの思想や行動の一貫性というものがどこにあるのか、よく分かりません」
サブカルの中心で疎外感 「よど号事件のメンバーたちや重信が出国しなければ、あるいはよりましな指導者だったら、森恒夫が赤軍派を率いることもなく、あの事件も起きなかったかもしれない。 多数の犠牲者を出したテルアビブ空港乱射事件など数々のテロをどう正当化しているのか、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)との『共闘』はどうなったのか、なぜ帰国したのか、連合赤軍事件への自分の責任をどう感じているのか……。 つじつま合わせのような観念の言葉ではなく、本心できちんと語ってほしいと思います」
――連合赤軍事件で完全に「政治の時代」は終焉(しゅうえん)を迎えるわけですが、その後に「サブカルの時代」が訪れた、とかねて言っていますね。
「全共闘世代にすでにその萌芽(ほうが)はあったんです。サブカルチャーの先駆者と言われた寺山修司が若者の支持を得て、ジャズやロックが流行したというだけではなく、漫画ブームが起きて、少年マガジンを手にする大学生の姿は社会現象にもなりました。それは従来の価値観からすれば異様な光景だったからです。僕も『大学生にもなって漫画かよ』と思いつつ、そうした軽さを人間味として肯定的に捉えていた」
「ただその後、政治への関心が急速に薄れていき、趣味性の世界だけが残りました。『面白さ』を求めて軽快に生きる『シラケ世代』が、日の当たらない存在だった漫画やアニメの新たなブームを牽引(けんいん)し、もはやサブではなくカルチャーの主流を形成していきました」
「でも、そのサブカルのまさに中心と言ってよいところにいながら、僕は疎外感を感じ続け、結局のところ、アニメ業界からも『ガンダム』からも足を洗うことになるわけです……」(聞き手・石川智也) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.15 23:56:13
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