カテゴリ:学生運動
「公安部の負け」(警視庁)??? 僕は、そうは思わない! 無残な人生は、自己責任の結果だ!! 2024-4-23 はんぺん 一度しか無い貴重な人生を、歪んだ人生に変えてしまった本人の自業自得だろう・・・・としか思えない・・・・ 多くの他人の人生を無残にも、引き裂いた犯罪だ。逃亡生活を強いられた人生には、まったく同情の余地は無い・・・と思う。
こういう時に、いつも、僕が考えるのは、殺された無関係の人たちの人生の事だ・・・本来、この被害者に寄り添うべきリベラルの一部が、何と言う事か?加害者支援に立ちまわっていることを知り、呆れてモノが言えなくなってしまう!
前に、こう書いた・・・あの日本赤軍の重信房子が、一片の反省の言葉を述べて、刑期を終えて自由になったことに、大きな不条理しか感じない・・・と。
多くの殺人事件を繰り返した彼らが、のうのうと生き続ける事の不合理さ! セクト間の(内ゲバ)で、殺された100人ほどの活動家や5,000人ほどの重軽傷者たち・・・下手人の多くは、結局、捕まらず、不問にされてしまった!!
彼ら加害者、被害者たちには、同情の余地は無い。が、殺人事件、傷害事件は、きちんと責任を取らせねばならない!!!!!!
そんないい加減な気持ちで(革命運動)をやっていたのか!!と、僕は、その無責任さに、怒りしか湧いてこない!! まだ、指名手配されている加害者(似非革命家)がいれば、きちんと責任を取らせたいものだ!!!
見つけたら、絶対に通報してほしい・・・ そして自分たちが、仕出かした(犯罪)のケジメを付けてほしい・・・
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――― 桐島容疑者の逃走半世紀、なぜ見つからなかったか 「公安部の負け」 2024年2月27日 朝日新聞 入院先の病院で今年1月、1970年代に起きた連続企業爆破事件で指名手配中の桐島聡容疑者(70)を名乗り、その後死亡した男について、警視庁公安部は桐島容疑者本人と特定した。逃走生活は半世紀に及んだ。
5事件で書類送検へ 名乗り死亡の男、49年逃走の桐島容疑者と特定
桐島容疑者が指名手配されたのは75年5月だった。その直後、広島県の実家に本人とみられる人物から岡山県で潜伏していることをうかがわせる電話がかかってきた。これが、明らかになっていた最後の足取りだった。
49年後の「告白」により、逃走生活の実態が徐々に明らかになった。
住み込みで仕事 バーで酒を・・・ 桐島容疑者は川崎市内で日雇いの仕事などをした後、80年代ごろから神奈川県藤沢市の土木会社に住み込みで働いた。一人暮らしで「内田洋」を名乗り、身分証は持っていなかった。
「うっちゃんは仕事仲間と冗談をかわし、仲良くしていた」。土木会社の取引先の60代男性によると、桐島容疑者はやさしい口調だった。別の土木会社の男性は、「手先が器用で丁寧な仕事をする人だった」と振り返った。車や重機の運転はしなかったという。
白髪交じりの無精ひげ。近場の銭湯に通い、時折バーで酒を飲んだ。
20年近く前から来ていたというバーでは、酒を2、3杯飲み、2千円ほど払って帰った。ジーンズ姿が多く、60~70年代のロックが好き。生バンドの演奏があるとリズムにのって奏者を盛り上げ、DJイベントがあれば腕をあげて踊った。年下の女性から好意を寄せられ、「幸せにできない」と断ったという話をしていたこともあった。「うっちー」と呼ばれた。
なぜ半世紀も逃げ続けられたのか。 「もう見つからないかと」 組織から孤立無援か 過激派を追う公安関係者の1人は「過激派の間でも桐島の話は皆無で、消息を絶った後、誰も行方を知らなかった。正直、もう見つからないと思っていた」と言う。「半世紀逃げ切ったことに『あっぱれ』とすら思った」と漏らした。警視庁公安部のある幹部は「悔しいけど、公安部の負け」と苦い顔をした。
元警視庁公安部の捜査員で作家の勝丸円覚さんは「首都圏の都市で人民の海の中におり、地方の田舎よりも目立ちにくかった」と指摘する。
長期逃亡の末に逮捕された日本赤軍元最高幹部の重信房子元受刑者(78)や、中核派の大坂正明被告(74)のケースでは、警察当局は支援者らの存在から潜伏先をつかんだとされる。勝丸さんは「桐島容疑者の場合、組織から完全に孤立無援だったから、警察はきっかけをつかめなかったのだろう」と話す。
桐島容疑者は犯罪歴がなく、警察には指紋の登録がなかったのも行方を追うのが難しかった要因のひとつとされる。
勝丸さんは「桐島は国内にいると思っていた」と話す。その理由として、「日本赤軍や中核派などとは違い、東アジア反日武装戦線は単独のゲリラ兵士の集まりだった。一斉逮捕もあり、組織力がないなかで、偽造パスポートの用意など海外逃亡ができるとは到底思えなかった」と語る。
桐島容疑者が名乗り出るまで見つけられず、勝丸さんは「悔しさがこみあげた。捜査員は悔しさを胸に徹底的に捜査したと思う」と話した。一方、最期に名乗ったことについて「もし仲間がいたなら名乗り出る必要はなく、孤立していたということ。結局はさみしい人生だったと思う」と推し量る。
公安部幹部の1人は「そのまま静かに死んでしまえばよかったのを、最後に名乗ったのは自己顕示欲だ。言いたいことがあるなら逃げ隠れせずに主張すればよかった」と言う。
遺体引き取り手なく 捜査員に告げた「後悔」・・・・・
桐島容疑者は捜査員から「後悔しているか」と問われ、「はい」と答えたという。 桐島容疑者は鎌倉市内の病院で死亡した。遺体の引き取り手はおらず、逗子市内で無縁仏として荼毘(だび)に付された。
桐島容疑者は過激派「東アジア反日武装戦線」の「さそり」グループのメンバー。連続爆破事件のうち、75年4月の韓国産業経済研究所(東京・銀座)爆破事件に関与したとして、翌5月に指名手配された。桐島容疑者は同事件の関与を否定し、他の爆破事件への関与を示唆していたという。
桐島聡容疑者が関与した疑いがある7件の爆破事件と事件処理 1974年12月23日 鹿島建設 2004年に書類送検、不起訴 75年2月28日 間組本社9階、1人重傷 共犯者が国外逃亡中で時効停止、書類送検 75年2月28日 間組本社6階 時効停止、書類送検 75年2月28日 間組大宮工場 時効停止、書類送検 75年4月19日 韓国産業経済研究所 時効停止、書類送検 75年4月27日 間組江戸川作業所、1人重傷 時効停止、書類送検 75年5月4日 京成江戸川橋工事現場 04年に書類送検 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.30 05:23:44
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