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2024.04.24
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カテゴリ:学生運動

「革命ごっこ」に興じる卑劣な暴力学生たち・・・平和も民主主義も無かった学園での活動は、困難を極めた・・・これが、70年闘争!! 2024-4-24  はんぺん

 今でも、55年ほど前の、学生運動時代を思い出すことがある。あの陰鬱な我がセクトのアジト(活動拠点)での雰囲気を・・・

 

大学が極左暴力で、バリケード封鎖された結果、学内への立ち入りが出来なくなり、どこのセクトも大学近くのアパートなどで、アジト(活動拠点)を作ったようだ。そこで各種会議、宣伝ビラつくり、学習会などを行った。

 

会議では、同盟員たちから、各学部情報などがもたらされる。誰だれが、全共闘の暴力学生に、殴られた・・・という知らせも・・・また、どのセクトが、こんなビラを撒いていた・・・とか、どのセクトは、こんなオルグをしている・・・とか。

 

多くの情報が飛び交い、錯綜する中で、分析がなされ、方針が検討されていく。個人の獲得目標が設定されることも・・・ 

 

 また、全国委員会の委員から、全体の方針、学外の闘争目標が、提起され、全大阪学生総決起行動(集会・デモ)、全関西学生総決起行動(集会・デモ)、全国規模の闘争(10.21国際反戦デーなど)の取り組みが、方針化されていく。

 

僕が、何にもまして、憂鬱になったのは、当面、自分が闘う相手が、国家権力(政府=自民党)では無くて、学内の他セクト(暴力集団)だった事だ。

 

自分は、平和と民主主義のために・・・民主的改革の実現のために、権力という巨悪と闘うために、学生戦線に参入したつもりが・・・・なんということか? 自分たちの運動を作るために、まず第1に、実力粉砕叫ぶ、同じ学内の他セクト(暴力集団)から、我々の活動(ビラ撒き・集会・デモなど)の防衛という、情けない任務が、最優先されなければならなかった・・・という現実だ。

 

こんな状況下で、反戦・反安保闘争が、勝利するのだろうか? 誰が考えても、それは、あり得ないだろう・・・と。

 

前にも書いたが、全共闘の似非活動家たちの多くは、(革命ごっこ)を楽しんでいた。 多くの情報が、それを証明している。

日本赤軍の重信房子・元最高幹部や、連合赤軍のトップだった森恒夫たちの、後の言動や遺書などに、それは、簡単に見て取れる。

 

「高校生だった当時、赤軍派の一員として暴力に加わっていたという男性に、中東で出会った。いまも罪悪感にさいなまれているという男性は当時を振り返り、「一生かけて総括していかなければいけない」と語った。」(本文)

 

あまりにも、安易な闘争参加は、(思い付き)(不勉強)の結果で、無責任の極みでもあった。そのことで、多くの市民が、傷ついた。

いつも、当時の事を思い出すたびに、僕は怒りに身体が震えあがる・・・・

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

―――――――――――――――――――――――

赤軍派高校生だった私の「罪」 獄中の重信房子元幹部から届いた感想  ラスアルハイマ〈アラブ首長国連邦北部〉=伊藤喜之   202261日  朝日新聞

 半世紀前、日本に「赤軍派」を名乗った若者たちがいた。「革命」を掲げて暴力も辞さず、時には仲間たちにも矛先を向けた。

 

高校生だった当時、赤軍派の一員として暴力に加わっていたという男性に、中東で出会った。いまも罪悪感にさいなまれているという男性は当時を振り返り、「一生かけて総括していかなければいけない」と語った。

 

 197172年、極左組織・連合赤軍が引き起こした「山岳ベース事件」は戦後事件史に刻まれる凄惨(せいさん)な事件となった。

群馬県の山中に設置したアジトで仲間をリンチ。極寒の屋外で放置したり、絶食させたりし、12人が死亡した。

 

 なぜ若者たちは身内への暴力性を高めたのか。

 

 「その契機になったのでは……」。事件の3年前に赤軍派の高校生として活動していた大谷行雄さん(70=アラブ首長国連邦(UAE)在住=が振り返る別の事件がある。

 

 6976日に明治大の和泉校舎で起きた襲撃事件だ。

 

 大谷さんは当時、東京教育大付属駒場高校(現・筑波大付属駒場)の3年生。「労働者階級による世界革命」を訴える共産主義者同盟(ブント)の学生組織・社会主義学生同盟(社学同)の高校生委員として約100人の高校生部隊を率い、東京・湯島の東京医科歯科大の研究棟に寝泊まりしていた。

 

 「高校生部隊を招集してくれ」。襲撃事件前日の5日、赤軍派の田宮高麿・元幹部(後によど号ハイジャック事件を首謀。95年死去)らに声をかけられた。

 

 

 田宮元幹部は当時、ブント内部の急進左派グループで、686月ごろに塩見孝也・元赤軍派議長(2017年死去)が結成した「赤軍派フラクション(赤軍フラク)」幹部だった。

 

 大谷さんが「インテリゲンチアの学生が大半で、もともとは牧歌的雰囲気だった」と振り返るブントだが、当時は内部で路線対立が顕在化していた。

 

武装闘争を唱え始めた赤軍フラクを警戒するブントの仏(さらぎ)徳二議長らが、組織の「物理的解体」を宣言し、塩見氏らを除名しようという動きもあった。

 

明大和泉校舎で襲撃決行

 赤軍フラクはその動きに反発。高校生部隊を引き連れ、仏議長が潜伏していた明治大和泉校舎の襲撃を決行した。目的は仏氏に除名方針や解体宣言を撤回させ、「自己批判」させることだった。

 

 大谷さんがかつての仲間に事実確認しながら当時の体験をつづり、昨年12月、雑誌「情況」1月号に寄稿した記事「赤軍派高校生の証言」や本人への取材によると、事件は次のようにして起きた。

 

 6日午前5時すぎ、東京医科歯科大に泊まり込んでいた約100人が国鉄の始発電車で御茶ノ水駅から新宿を経て、京王線の明大前駅へと向かった。

 

 早朝の和泉校舎の敷地内で決起集会を始めると、前夜から張り込んでいた偵察メンバーの「レポ隊」から仏氏を発見したとの報告が届いた。大谷さんらは校舎に駆け込んだ。

 

 当初は塩見氏や田宮氏ら赤軍フラクの指導部だけが仏氏のいる教室に入った。しばらくして大谷さんら高校生の一部が教室に入ると、すでに椅子に座らされた仏氏の顔は暴行を受けて膨れあがっていた。

 

 「どうしても要求がのめんらしい。お前らもやれ」

 

 指導部から高校生たちに指示が飛んだ。「殴れ」と命令され、十数人が一人ずつ代わる代わる、仏氏の顔面を殴った。女子生徒も多かったが、泣きそうになりながら仏氏の顔をはたいていた。仏氏は観念したように一切抵抗しなかった。

 

 「足ぐらい折ってやれ」

 

 大谷さんはそう指示された。もう一つの椅子の上に仏氏の右足が置かれ、伸びきったひざの上に大谷さんは自らの尻を落とすようにして座り、全体重をかけて折った。鈍い音がした。

 

 仏氏は命に別条はなかったものの、重傷を負い、現場に駆けつけた警察に逮捕された。別事件での破壊活動防止法違反容疑で指名手配されていたためだ。

 

 その後、塩見氏ら赤軍フラクはブント内部の敵対グループからこの襲撃に対する報復を受け、数週間にわたって監禁された。脱出を図る際にメンバーの一人が事故に遭い、約2カ月後に死亡した。

 

 698月、赤軍フラクはブントから除名され、「赤軍派」として単独で活動することになった。

 

 「仏さんの足を折った罪悪感はいまも消えず、そのときの光景は今でも夢にみる」。大谷さんはそう振り返りながら、さらに納得できないことがあったと打ち明ける。

 

逃げ出せない同調圧力

 襲撃事件では、高校生部隊が暴走して、仏議長に対して「メチャクチャ」な暴行を加えたため、指導部は「俺らもやらないと格好がつかない」と仕方なく手を出したという説明を指導部が流布したことだ。

 

 大谷さんは「高校生が勝手にやったというのはありえない」と指摘する。

 

 「教室に入ったときには、すでに指導部だけで暴行していた。暴行するよう指導部から明確な命令があったし、逃げ出せない脅迫的な同調圧力もあった

 

 大谷さんは半世紀の月日を経て、雑誌「情況」の寄稿で事件の詳細について初めて報告し、「断固抗議したいことがある」として当時の指導部メンバーの説明に反論。

そして、「こうした指導部の体質が、後の連赤(連合赤軍)事件で『共産主義化』という名目で仲間殺しに至らせしめたのかもしれないと、今では思っています」と記した。

 

 赤軍派と革命左派が合流して71年に結成された連合赤軍では、明大事件での襲撃に直前で加わらなかった赤軍フラク出身の森恒夫氏(73年に死去)が最高幹部となり、山岳ベース事件を引き起こした。

 

 その森氏とは相いれず、71年にレバノンに渡った後、パレスチナ解放人民戦線(PFLPに加わったのが、日本赤軍の重信房子・元最高幹部だった。日本赤軍はイスラエルでの空港乱射事件(72年)など各地でテロ事件を起こした。

 

 重信元幹部は極秘帰国中だった2000年に逮捕され、殺人未遂などの罪で服役。今年5月に出所した。服役中だった今年2月には、支援者を通じて大谷さんに記事への感想を寄せた。

 

 重信元幹部は明大事件のあった69年当時、明大生で赤軍フラクに協力していた。仏氏の襲撃には加わっていないが、事件直後に指導部メンバーの指示を受けて和泉校舎に駆けつけていた。

 

重信氏の感想「凡人のリーダーシップ」

 大谷さんの記事への感想では「あらためて目を開かされて、ふりかえれば、あの和泉校舎で何がどう始まり起こったのか? 聞いても塩見さん、堂山さん、花園(紀男)さん、田宮さんは話してくれませんでした」と振り返りつつ、「大谷さんが言うのが事実だろうと改めて思う」と記し、「なぜなら私は当時、(中略)いろいろと指導部のいうことを真に受けて力を尽くしましたが、その後事件や敗北、逮捕、さらには戦線離脱など、『あれ?!』と思うことを時間の経過とともに知ることになり、『自分でがんばるしかない』とやってきたところがある」と続けた。

 

 そして、塩見氏ら当時の指導部の体質について、「まちがいや恰好(かっこう)悪いことは隠す凡人のリーダーシップだったのでしょうか」と疑問を呈して、文章を締めくくっている。

 

 重信氏の親友で明大現代思想研究会でも一緒だった遠山美枝子氏は明大事件の後、連合赤軍に参加し、山岳ベース事件で犠牲になった。

 

 大谷さんは言う。

 

 「牧歌的だったブント内部で赤軍フラクが発生し、党内の分裂がはっきりし、暴力至上主義の内ゲバが台頭してきたと理解している。そのきっかけが仏さんの足を折った私だと思いあがるつもりはないが、個人的に責任を感じている」

 

 大谷さんは705月に渡米し、黒人解放闘争のブラックパンサー党などとの連帯をめざした。しかし、月日の経過ともに限界を感じ、政治運動から身を引いた。ジャズクラブ経営やスポーツカード販売業などを手がける30年以上の米国暮らしを経て、日本に戻った時期もあったが、いまはUAE北部ラスアルハイマで経営コンサルタントをしながら暮らしている。

 

 「いまでも70年に日本を離れた負い目を感じる。もしも残っていたら連赤事件で仲間に殺されていた方だったかもしれない」としながら、こう語った。

 

 「当時の我々は正しい部分もあったと思うが、多くの間違いも犯した。一生かけて総括していかなければいけないと思う」(ラスアルハイマ〈アラブ首長国連邦北部〉=伊藤喜之)






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最終更新日  2024.04.30 21:49:12
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