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2024.04.25
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カテゴリ:学生運動

こんなにもレベルの低かった極左集団の資質!! 「何が、革命??」アホか! 多くの人命を奪って、なお(言い逃れ!!)  2024-4-25  はんぺん

 「もっと他の手段が無かったか、考えるべきだった・・・」(重信房子:元日本赤軍幹部) この良く知られている元日本赤軍トップの重信房子の(言い訳)は、誰が見ても、納得できないだろう。

 

彼女らが、起こしたテロ事件で、どれだけ多くの民衆が殺傷されたか! これは、(反省)とか(総括)の域を超えている!

 

子どもがするような(言い訳)で、今の時代に通用するとでも思ったのだろうか? (他の手段?)・・・はあ?(後悔先に立たず)とよく言うが、被害のレベルが、違いすぎるだろうが!!!

それで、世間を納得させられるとでも思う方が・・・おかしいだろう!!

 

あまりにも低すぎる極左学生たちの意識の低さに、驚くばかりだ・・・何が「革命」なのか??  そんな低いレベルの学生たち(青2才)が、世界を変えるなどとは・・・おこがましいにも程がある・・・・!!!!

 

「暴力に訴えた誤り認めるべきだった」(本文) これって読んでいて、情けなくて、はらわたが煮えくり返ってくるのだが・・・皆さんは、どうだろう??

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

―――――――――――――――――――――――――

暴力に訴えた誤り認めるべきだった あさま山荘事件、銃調達役の悔恨  聞き手・鶴信吾  2023219日  朝日新聞

 51年前の219日、長野県軽井沢町の保養施設で過激派グループ「連合赤軍」のメンバー5人が人質をとって立てこもった。10日間に及ぶ銃撃戦で、警察官ら3人が殺害された「あさま山荘事件」。雪野建作さん(75)は、使われた銃の調達役だった。「暴力に訴えたのは明らかな誤りだった」。半世紀を過ぎた今、事件を振り返る。

 

「この戦いは負けた」

 「敗北した」。あさま山荘事件が起きたことを伝えるニュースを拘置所の中で知ったとき、私はこう感じました。山荘には仲間が立てこもっている。でも、籠城(ろうじょう)は、永久にはできない。いつかは捕まる。警察官を射殺したってどうにもならん、この闘いは負けた、と。

 

 私は、銃を強奪した罪で勾留され、ニュースは新聞で読みました。まさか仲間が真冬の雪山にいるとは思いも寄らなかった。てっきり皆、都会のアジトにいるものだとばかり思っていました。それに私たちは、警察官を殺すために銃を強奪したわけではなかったんです。

 

警察官を撃ち殺すためではなかった――。雪野さんがそう語った一方で、奪われた銃によって警察官2人を含む3人が殺害されてしまいます。なぜ目的が変わったのか。銃を手にしていく過程で組織の「変化」があったといいます。

 

 私が通った都立大学附属高校は自由な校風で、学生運動が盛んでした50人のクラスで42人がデモに行くような感じです。当時はベトナム戦争がさかんに報道され、私は強い反発を感じました。戦争の遂行に何とか打撃を与える闘争をしたい。そういう情熱は抑えがたいものがあったりしました。

 

 横浜国立大工学部に入学後、後に過激派組織と呼ばれるグループの活動に加わるようになりました。このグループは当初、学生運動よりもむしろ労働運動に根付こうとしていました。日本人の多くは労働者ですし、私は学生運動だけでは日本は変えられないと思っていましたから、信頼できると思いました。

 

 後に、このグループから独立して誕生したのが「革命左派」です。私は革命左派についていきました。このグループが、後の連合赤軍の母体です。

 

「警察への報復戦」

 銃を入手しようとしたきっかけは、革命左派のリーダーが逮捕されたことでした。196912月のことです。このリーダーは、自らの身柄を奪還して中国に亡命させることを獄外のメンバーに求めます。

 

 獄外にいた組織指導部の永田洋子(元死刑囚、獄中死)たちは、このリーダーが手錠をつけて護送車で裁判所に連れて来られるタイミングで、銃を突きつけて身柄を奪還しようと考えた。米軍とか自衛隊や機動隊を殺傷することが目的ではありませんでした。

 

 銃を得る場所として最初に狙ったのが、東京・板橋の交番でした。701218日、仲間が警察官を襲います。しかし、失敗し、その場で1人が射殺されました。

 

 同志の死は組織に結束と緊張を生み出しました。事件後に自分が書いた手紙の中に、警察への「報復戦」という言葉があった。そういう心境だったのだと思います。

 

 7112月ごろ、私は革命左派が持つ「軍」のメンバーと一緒にあちこちで調査をしました。どこが狙いやすいか下見もしました。こうして、次に狙うことになったのが、栃木県の銃砲店でした。

 

このような闘争が正義かどうか、私は自分では考えなかった。当時、私は革命左派の方向性を決める「指導部」にはいませんでしたから。今思えば無責任だったと思います。

 

 襲撃の日は、71217日になりました。私はこの作戦に加わる予定じゃなかったので、ちょっと人ごとみたいなところがありました。打ち合わせも横で聞いていた程度ですが、銃砲店を襲うことの是非は話し合われていた。

 

店主と家族を縛り上げ…

 メンバーたちは「銃は一度借りて返すんだ」とか言っていましたね。「決して銃砲店の人をけがさせないように」とも。私も、民間人から銃を奪うことは革命を成し遂げる上でしょうがないことだ、と思っていました。

 

 決行数日前、急に指導部から「お前も行け」と言われました。「えらいことになった」と思いました。人数は多いほうがいい、ということが理由でした。そう言われたら仕方ない。腹をくくりました。

 

 作戦はまず、銃砲店内に押し入って電話線を切る。通報できないようにするためです。店主と家族は縛り上げよう、と。今思うと、やっぱり感覚がまひしてたんだと思います。

 

 一般の人を縛り上げるなんて、おかしいです。罪深いことをしたなと思っています。この10カ月後、連合赤軍は群馬県の山中で「山岳ベース事件」を引き起こし、仲間や兄弟を縛り上げて暴行を加え、12人も殺しています。この事件の下地は、銃砲店を襲った217日のこのときすでにできていた、と後から思います。

 

「銃を手にして初めて…」

 鉄砲店を襲う当日は計画通りに実行しました。電話線をハサミで2カ所切りました。奪ったのは、散弾銃10丁や銃弾2300発など。散弾銃の実包は重かったですね。500発が一斗缶のようなものに入っていて20キロか、もっと重いくらいだったと記憶しています。ライフルの弾も、少し持ち出しました。

 

 銃を手に入れた後、組織は変化しました。

 

 もともと、警察官らを殺すことが目的ではなかったけれど、組織の指導部は、警察や軍隊を殺傷する闘いをするべきだ、となった。指導部の永田は「銃を手にして初めてそうすべきだとわかった」とも言っていました。そして本来の目的だったリーダー奪還は、警察の捜査が激しさを増し、ついに実現できませんでした。

 

 このときに、立ち止まって、もっと話し合えばよかった、と今では思います。警察官を殺しても、世論を味方につけられません。突き詰めて考えたら、武装闘争は間違っているとなっていたのではないかと。

 

 当時、私たちのそうした批判を、指導部は押さえつけました。私は、そんな態度に絶望しながらも、「いつかわかるだろう」で、済ませてしまいました。

 

奪った銃はあさま山荘へ

 銃砲店を襲撃後、警察から逃げるため次々とアジトを移動しました。最終的に札幌のアジトまで逃げ、札幌郊外にある定山渓温泉の近くの川沿いに銃を埋めました。

 

 札幌のアジトでは春先まで潜伏生活を続けました。この間、銃のうち数丁を他の過激派組織「赤軍派」に譲り、そのかわりに、現金を受け取りました。我々の組織は、資金難だったのです。

 

 春以降は、東京・奥多摩湖の上流にのぼった山中に野営地のアジトを設け、ここに拠点を移すことにしました。銃も札幌に2グループ4人を派遣して持ち帰りました。

 

 このアジトでは穴を掘って便所をつくり、サバ缶やカップラーメン、山菜、ときにはカエルを食べてみたこともあります。一方で私は、私たちのゲリラ闘争に共鳴するグループと連絡を取ったり相互支援をしたりするため、山のアジトを離れ、大部分を都心で生活していました。

 

 7月。革命左派と赤軍派が合流した組織を結成。これが後の、連合赤軍となります。

 

 銃砲店襲撃から半年が過ぎた821日。新宿の「ピクニック」という喫茶店で仲間と落ち合った途端、刑事が2人、ドカドカと店内に入ってきて「雪野だな」。逮捕されました。

 

 逮捕後もしばらくは気が張っていました。拘置所で寝ていても、看守が歩く「コツコツ」という音でパッと目が覚める。数日はそういう状態でした。

 

 11月。連合赤軍は、山中のアジトに拠点を移していきます。ここにも銃は持っていったようです。リュックに弾と銃を詰めて行ったのでしょう。この銃は、連合赤軍のメンバーが最終的に行き着くあさま山荘まで運ばれました。

 

闘争の破局と脱退

 そして12月末から翌721月にかけ、山岳ベース事件が発生し、同年2月にあさま山荘事件が起きます。あさま山荘では銃撃戦が繰り広げられ、連合赤軍のメンバーが警察官2人と民間人1人を撃ち、死亡させました。「えらく銃の腕が良いらしい」。私は、刑務官が立ち話をしているのを拘置所で聞いたのを覚えています。

 

 あさま山荘事件が終結すると、山岳ベース事件も発覚しました。拘置所のラジオから流れるニュースは耳を覆いたくなるものでした。苦楽をともにした同志たちの遺体が、次々に発見されたことが報じられたからです。仲間が仲間を手にかけていたんです。私たちの闘争は、こうして破局を迎えました。

 

 実は以前から獄中のリーダーと私はいろいろ考え方の違いが表れていて、私は組織を正道に戻すため、このリーダーと大々的に論争を始めていました。お互い、獄中にはいましたが、手紙や電報のやりとりはできたんです。しかし、受け入れられることはありませんでした。

 

 72年の秋、私は革命左派を脱退しました。

 

今語る義務

 懲役10年の判決を受けた私が仮釈放されたのは1980年でした。出所後は環境問題に関連する新聞記事などを集めた雑誌を発行する会社をつくり、現在はウェブサイト構築システムの開発、販売などを手がける会社を経営しています。

 

 連合赤軍の一連の事件を経て、過ちを認めない組織は暴走するのだと気づきました。連合赤軍の誤りは、理想を実現するため暴力に訴えたことです。そして1人犠牲者が出ると後に引けなくなった。でも誤りは誤りなんだと認めるべきだった。私自身の反省でもあります。

 

 逮捕されずに仲間とともに山中のアジトに入っていたら私は最初に殺されていた、と皆から言われます。「捕まって良かった」とは言いませんが、どういう天の配剤か、運命のいたずらか、こうして生き残っている、生かされている。私たちがあのとき、何を見て、考えて、何をやったか。今こうして語る義務がある。そう思うのです。(聞き手・鶴信吾)

 

コメントプラス

江川紹子(ジャーナリスト・神奈川大学特任教授) 2023220日 投稿

【視点】 過激派グループのカルト性が分かりやすく語られている。とりわけ、純粋でまじめな若者が引き寄せられ、自分自身で物事の善悪を考えなくなる心の支配のプロセス、目的のためには手段を選ばない独善性、組織やリーダーは絶対正しいという無謬性などに、政治的カルトの特徴が見て取れる。「カルト」は宗教ばかりではないのだ。

 

 「カルト」は自らの過ちを認めない。「過ちを認めない組織は暴走する」という雪野さんの述懐は、体験に裏打ちされているだけに重い。

 今の時代、陰謀論やニセ科学、二元論などに動かされ、無謬性に陥るといった、カルト性の高い集団が跋扈し、人々の分断を煽っている。

 そういう時だけに、このような証言は意味がある。私たちは、客観的に受け止めやすい過去の出来事から、人を取り込み心を支配する「カルト」の怖さを学んでおきたい。






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最終更新日  2024.04.30 22:21:58
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