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2024.05.05
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カテゴリ:学生運動

許されない「MDS」「アサート」の裏切り!! あなたたちは、何を学んできたのか?  2024-5-5   はんぺん

 全体主義国家では、独裁者にとって、都合の悪い情報は、すべて隠蔽されている。真実が、国民の目に触れることは無い・・・

 

この(当たり前)の事が、重要なのだが、(歌を忘れたカナリヤ)のように、日本リベラルたちは、この独裁国家における情報統制、密告制度に、厳しい非難をしてこなかった・・・これは、日本リベラルたちの(黒歴史)である。

 

香港では、民主的勢力は、中国共産党の暴虐により、完全に抹殺されてしまった。全体主義が、地球全体を制覇すれば、どんなことになるのだろうか?

いつも、そんなことを考えている。

 

昔、学生運動時に、僕が、加盟していた民学同(民主主義学生同盟)という学生組織があった。民学同=DSL(Ⅾemocratic Student Ⅼeagueでは、(全ての民主的学友は、民学同に結集しよう!)というスローガンが、学友向けの機関紙「民主主義の旗」の枠外に書かれていたのを覚えている。

 

あの「民主主義」って、いったい同盟支部内の同志ちは、どのように考えていたのか? どうのように理解いていたのだろうか?

 

民学同は、19639月、関西の地で、日本共産党から、除名されたり、離党した、当時の共産党学生細胞が、立ち上げた組織だったそうだ。僕の大学入学(1968年)の5年前の出来事だった。

 

同盟結成以後、共産党=民青のセクト主義(党派主義)に対する大衆的批判もあったりして、関西では、大阪大、大阪市大などを中心に、急拡大して、多くの学生自治会を傘下に納めていった。

 

文字通り、全関西の学生運動をけん引する勢いがあったという。その民学同が、1968年、1970年、197X年と、3回にわたり分裂を繰り返した。僕は、19706月に同盟を離れたので、その後の事は、詳しくは知らないが、その間の党派闘争等を経て、1980年代後半?には、3組織とも、学生戦線から、姿を消した模様・・・

 

このあたりの(総括)は、どうなっているのか? 僕は、知りたい。

 

同時に、この民学同(DSL)の先輩・後輩たちが、その流れを汲んだ形で、MDS(民主主義的社会主義運動)という社会主義政党やアサートという評論家的社会主義願望組織を作ったようだ。

 

彼らの内容が、実に、お粗末だった・・・というか、社会主義に対する真摯な総括を欠いた、(新しい社会主義)を目指す組織だたっという事実!

(塀の中の懲りない面々)というわけだ。

 

民主主義の徹底の先には、真の社会主義社会(楽園)が、開かれている・・・という、僕の学生時代の当時の同盟の認識そのまま・・・という事で、(社会主義幻想)の呪縛から、彼らは、未だに逃れる事が、出来ないでいるのだ・・・

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

―――――――――――――――――――――――

連合赤軍、遺族への手紙。「総括」生々しく、謝罪の言葉も  2024412日    朝日新聞

 半世紀前、「総括」と称する集団リンチで戦後史に残る凄惨(せいさん)な殺人事件を起こした極左組織「連合赤軍」(連赤)。その指導者、森恒夫永田洋子らが、逮捕直後に遺族たちへ送っていた手紙の数々が見つかった。

朝日新聞が遺族から入手した手紙には、自ら突き進めた「革命」への考えやリンチの様子が生々しくつづられ、謝罪の言葉も書かれていた。

 

 1972年3月、連赤が「粛清」した12人の遺体が次々と群馬県の雪山から見つかった。遺族たちは事件直後、当時の状況を問いただす手紙を逮捕された連赤メンバーに出しており、その返信の手紙がそれぞれの遺族の元に届いた。山岳アジトで殺害された遠山美枝子(当時25)の母、幸子(ゆきこ)(100)が、手紙約40通分をとりまとめて書き写し、冊子にして残していた。

 

 冊子は、72年に現場(現・群馬県高崎市倉渕町)近くに被害者の供養塔が建立されたのを機に遺族には配られたが、これまで存在が公になったことはなかった。遠山の遺族は「手紙は読むのもつらい内容で、これまで心の奥底にずっとしまっていた」と話す。

 

 72年2月に逮捕された森は、同年11月7日付で遠山の母に手紙を送った。

 

 〈お手紙を拝見してから毎日おわびのことばかり考えておりましたが、お返事を差し上げる勇気がでませんでした〉と謝罪。そして、遠山の最期の様子を手紙で知らせていた。

 

 〈自分で自分の顔を殴らせたり、(略)寒中の柱に立ったままロープで縛って何日もそのままにしたりし、美枝子さんを死に至らしめたのです〉

 

 遠山が苦しい中、何度も「お母さん」と呼んでいたことを明かし、〈私はそれら全てを「総括ができていない」証拠にしていった。これが一片の弁解の余地すらない事実です〉と、「総括」と称したリンチの理由についても言及している。

 

 手紙の最後には〈私は生ある限りそのお憤りを受け続けるつもりでおります(略)終生自己批判の道を歩むつもり〉とつづられていたが、その2カ月後、森は拘置所で自殺した。

 

 永田も、遺族に宛てた手紙の中で自身の感情を言葉にしている。

 

 同じく山岳アジトで殺害された行方正時(当時22)の遺族に73年7月28日付で宛てた手紙で、〈何を書いてよいかわからなかったことともう一つは遺族の方の怒りにふれるのが恐ろしかったことから出せなかったと思います〉と謝罪が遅れた理由を釈明。〈今となっては何故(なぜ)、行方さんを殺してしまったのかと思う時もあります〉と書かれていた。

 

 そして最期の様子について〈息がたえだえでも(略)縄をほどくことはできませんでした。私は何故か気になり行方さんの脈をはかったことがあります。ぞーとするほど冷たい手でした。そしてかすかに脈がありました〉。

 

 坂口弘(死刑囚で収監中)、無期懲役の吉野雅邦(服役中)や、刑期を終えてすでに出所した元メンバーも遺族へ謝罪の手紙を出していた。

 

 赤軍派元メンバーで「全体像を残す会」を主宰する金廣志は、手紙の内容について「動機を含め、こんな具体的なやり取りがあったことをもっと早く知りたかった」と語る。

 

 「私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年」(インパクト出版会)の著書がある江刺昭子は「事件直後だけに率直な気持ちが書かれている」とし、往復書簡はその時代と事件の真相を知る「貴重な記録」と語った。=敬称略

 

 (森下香枝)






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最終更新日  2024.06.01 22:26:26
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