カテゴリ:学生運動
民学同(DSL)の思い出・・・つらつらと。 2024-7-7 はんぺん 昔、関西を中心にした「民学同」(民主主義学生同盟)という学生組織があった。中ソ論争のさなかに、日本共産党を除名された学生党員や、そのシンパ(共鳴者)学生を中心に、1963年に大阪の地で結成されたという。
民学同は、その後、大阪を中心に、セクト主義(自組織ファースト)の日共系の民青や民主主義的ルールを平気で逸脱して、蛮行(暴力)を積み重ねて恥じない(3派全学連=社学同・中核・社青同)の偏向を乗り越えて、力をつけていく。
1968年4月に、入学した僕は、すぐに、この組織に加盟して、1970年6月23日まで、2年2か月ほど、活動した。不断に動揺を繰り返しながらの(青2才)の僕たちだった。もっと謙虚に、石橋をたたいて熟考して、行動するべきだった・・・今から思えば・・・だが。
足が地に付かず、目の前に提示されるスケジュール闘争に翻弄されまくり、足が地に着かないまま、1970年の脱盟まで、無責任な言動が続く・・・
そもそも1968年5月の僕の加盟が、不自然だった。入学後、4.28沖縄闘争での民学同左派(共労党派)による教養部ストの提起や御堂筋デモでの実力闘争で、批判的な意見を持っていた僕。
それを民学同右派(日本の声派)が、喉から手が出るほど欲しがっていた新入生の活動家の有力候補として、僕に目を付けた。5月に執行された中央執行委員選挙で、僕をオルグして、候補者として担ぎ出した。
前年の羽田闘争、1月の佐世保闘争で、舞い上がっていた僕は、大した準備も無く、(「学生運動をするために、大学に行きます」と高校卒業時に宣言した)、それなりの(愚かな期待)を持って、法学部に進学した僕・・・・は、ひとたまりも無かった・・・と言いたいところだが、現実は、そうでは無かった!!
僕に目を付けていた(民学同左派)や(革新グループ)の活動家から、引き止め(引きおろし)の逆オルグに、連日、教養部芝生の上や学内で、さらされるように・・・。そもそも入学したばかりの僕が、あの手この手で、説得されて、動揺しない方がおかしいというものだ。
論戦に慣れた活動家たちによる激しい逆オルグで、真面目に(‼)消耗させられて、僕は、選挙開始まもなく、自身の立候補自体に疑問を感じ始め、不登校になっていった。選挙妨害だ・・・と、民学同右派は、怒るが、打つ手は無かった。(選挙期間の3/2ほどは、登校しなかったと思う)
(結果良ければ、all right オーライ)ということで、その後の(民学同左派)などのトロツキスト転落をみれば、組織選択そのものは、間違ってなかったのだが、それは結果論だ。
前にも書いたが、軽薄な新入生(僕)が、強引な勧誘オルグで、トロツキストや日本赤軍に行かなかった・・・とは、決して言い切れない・・・それは、タイミングの問題だ・・・運命とは、そういうものだろう。
現に、連合赤軍の森恒夫や日本赤軍の赤城志郎は、市大ブント(社学同)出身だったし、日本赤軍の赤城志郎は、日航機ハイジャックして、今、北朝鮮という(監獄)で暮らしている。森は、僕の5年先輩、赤城は、2年先輩だった。
「赤木志郎は、大学(社学同)時代の森恒夫について、ナイーブでシャイな一面があったと述べている」(ウイキペディア) その後、共産同(赤軍派)が結成され、森や赤城たちは、赤軍派に合流した。その後、重信房子・塩見孝也たちと 森たちとは、意見が合わなかったようで、重信・塩見・赤城たちは、日本赤軍を 森たちは、永田洋子たちの(革命左派グループ)と合体して、連合赤軍を結成したようだ。
あの時代、多くの学生活動家たちの(運動の入口)は、理論闘争の結果ではなく、人間関係など、ほんの、ささいなキッカケ、実にいい加減な・・・が、ほとんどだった。
//////////////////////////////////// (参考) https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202201060000/ 「多くの同期の仲間(中核派)や先輩たちが、70年を前にして、早々と戦線離脱していったことには、驚いた・・・が、もともと確たる理論も無く、人間関係で(運動参加)していった学生たちが、手の平を返すように、運動から距離を置くのは自然と言えば自然であったが、しかるに(自己総括)できないのも、自然であったということだ。」
https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202112240000/ 「当時の運動全体でいうと、日共(日本共産党)と反日共の違いは明確にありました。三派と革マル、あるいは三派のどれそれっていうことなんかについては、ほとんどの人はわかんなかったと思います。」 「まず三派全学連のことについていいますとね・・・実際に東京の都学連再建の過程では、ほんとうに小競り合いばっかりしてる。正直、なんて幼稚なんだと感じました。人が発言しているときに他党派は「ナンセンス」と声を揃え、自派の発言のときは「異議なし!」と言う。討議がチャンと成り立たない会議とか集会とか、正直、辟易しました。」(赤松氏、大手前高校先輩、元京大中核派) 当時の状況が、これで見えてくる・・・このレベルの運動だったという事だ。
https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202112160000/ 彼(山崎博昭)が運動の中で、尊敬していた2年上の先輩が、先に京大に入ってすぐ、中核派で活動を始めたのが、山崎の運命を決定したようだ。この先輩は、当然、後から京大に入ってきた山崎を自派に誘うだろうし、山崎も断る理由などない。 (「きみが死んだあとで」134ページ) 「僕(岩崎)が(中核派に)入ったのは、赤松(大手前高校の2年先輩、京大の中核派)に連れられてというのが大きい。そう、人間関係です。はっきり言ってね、党派の考え方の違いがわかっている人って、あの頃、ほとんどいなかった。私もたいしてわかっていなかったし。 どの党派に入ったかっていうのは偶然みたいなもんで、大学行って内ゲバが激しくなったときには⦅なんでこんなこと、せなあかんねん⦆っていうのが本音でしたね。それが党派的な運動から離れるきっかけになったんだけど。憎いやつでもないのに、なんでこういうこと、せなあかんのかって。」(岩崎正人氏:大手前高校で同学年。立命大の元中核派) /////////////////////////////////// 今から思えば、実に呆れる話で、(青2才)たちは、そんないい加減な気持ちで、無責任に(運動)に参加し、学友大衆にビラを撒き、集会やデモ参加を呼びかけたのだ・・・
まさに(妄想で洗脳された人間)が、白紙の人間(新入生)に対して、また(妄想で洗脳する)ことに・・・・こうして(洗脳)が、拡大再生産されていった。
あの東大闘争では、封鎖の中で検挙された学生は、633人だったとか。多数の(洗脳)されたエリート??が、(お祭り)に馳せ参じたという事だが、当初の要求貫徹が歪められて、機動隊との衝突が自己目的化されていった。
オウム真理教では、幹部の多数の大卒などのエリートが、洗脳されて、サリン事件を起こした。
最近は、人間の弱さばかりを強く意識するようになっているが、これは歳のせいなのだろうか?
皆さんは、どう思われるか? はんぺん
追記・・・(ウイキペディアから) 東大紛争期間中には、構内の建物を占拠した学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、教授室などが滅茶苦茶に破壊され、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの蛮行がなされた。 理学部二号館を占拠した学生は、1968年12月24日の乱闘に際して、地質鉱物学科の鉱石標本や化石標本などを武器として投じ、紛失させた[10][注釈 5]。
/////////////////////////////////////// 冷静な判断能力を失った者は、いかなる破壊(殺人も含めて)も厭わない・・・それが(洗脳)だ。(青2才)が、碩学を吊るし上げるなどの蛮行を恥じないところは、あの文化大革命の時の紅衛兵たちの蛮行と重なる。 (はんぺん)
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最終更新日
2024.07.24 01:13:33
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