カテゴリ:学生運動
民主的運動の破滅への道を掃き清めた赤軍派の「犯罪」を忘れるな! (青2才)の思い上がり、傲慢が、歴史を後戻りさせた!! 2024-8-10 はんぺん 戦後日本の民主主義運動の隆盛は、あの呪わしい戦争の反発が、大きかったと思う。(天皇制)を中心とした全体主義・・・支配する天皇、服従する国民=臣民という、基本的人権などの保障も無い、前近代的な軍国主義体制からの(解放!!)という側面が大きかった。
しかし、これは、他力本願的、すなわちアメリカを中心とした連合国軍による(解放)であり、日本人が自力で勝ち取った(解放)では、無かった。
これが、戦後の(天皇制維持)への布石ともなり、護憲運動の(間違い)の布石となっていく・・・・
そのことは、戦後すぐの、ヒロヒト(裕仁)の全国行脚(巡行)における、日本人の熱狂的な歓迎からも、明らかだった。 (天皇制)による(洗脳)は、健在だったのだ・・・・
戦犯ヒロヒトは、確信的な犯罪者であり、本来「厳罰」に処せられれなければならない人物だったが、(戦後の占領政策で利用価値あり)とのGHQ(占領軍司令部)の判断で、東京裁判にかけられることも無く、幸運にも生き延びて、ぬくぬくと、寿命を全うしたのだ。
戦争で、犠牲となった2,000万以上のアジア民衆、230万人以上の日本国民、多くの障害者たちにとっては、恨み骨髄のハズの極悪人だが、戦前からの徹底した(洗脳工作)で、正しい判断ができなくさせられてきた多くの日本人は、未だに、その(洗脳)の中で、生活を営んでいる・・・・
僕たちの時代でもあった、1960年~1970代は、リベラル派が、大きな影響力を持っていた時代だった。多くのインテリは、だいたいが(左翼)で、当たり前。体制派の(御用学者)、権力に媚びる学者は、総じて、評価が低かった。
このような風潮の中で、学生運動の掲げる(反戦平和)(ベトナム戦争協力反対)は、(護憲=平和憲法守れ)とともに、ごく普通に受け入れられる土壌があった。
そして、運動の主体は(社会主義幻想)にズブズブに(洗脳)されたマルクス・エンゲルス・レーニン信奉者たちで、彼らは、労働組合や学生運動団体などの指導部(リーダー)の立場で、活動していた。
現実の社会主義の抱える矛盾の多くが、鉄のカーテン・竹のカーテンで、隠蔽され、知らされることが無い中、(未来は社会主義の時代)だと、誤認識させられていった。(僕も、その中の一人であった事を認識できたのは、ずっと後の事だった)
(青2才)たちによる、多くの殺人も含めた惨劇は、このML主義=全体主義に端を発していることが、今や、誰の目にも明らかとなっている。
今や後期高齢者に到達しようという僕たちの(人生総括)は、決して楽しいモノでは無い・・・どころか、苦虫をかみつぶした困難さを伴うが、避けては通れない・・・
生きた証(あかし)として、正々堂々と、(人生総括)に取り組んでもらいたい・・・のだが、僕の友人知人の多くは、見て見ぬ振りか? 居直り? を決め込んでいる・・・このまま、スルーして、人生を終えようとしているのか? 僕は、目や耳を疑うばかりだ・・・
皆さんは、どう思われるか? はんぺん
―――――――――――――――――――――――― あさま山荘事件:連合赤軍がたどり着いた悲惨な結末 2022.02.19 三木 武司 ニッポンドットコム 1972年2月19日、連合赤軍の銃を持った若者5人が「あさま山荘」に人質を取って立てこもった。当時は全共闘運動が勢いを失い、一部の過激派が武装化していく時代だった。あれから半世紀、「あさま山荘事件」とは一体何だったのか──。 ////////////////////////////////////////////////////
赤軍派と革命左派の関連年表 1958/12/10 共産主義者同盟(共産同)結成 1959〜60 60年安保闘争 1969/4/12 「革命左派」結成 8/28 共産同が分派して「赤軍派」結成 1970 70年安保闘争 3/31 よど号ハイジャック事件 1971 7/15 赤軍派と革命左派が合体して「連合赤軍」結成 8/4、10 革命左派 脱走した女1人 男1人を殺害、印旛沼に埋葬 1972 1/2 連合赤軍 28人のメンバー(うち3人はこの時点で既に死亡)が 群馬県・榛名山の山岳ベースに集結 2/19 あさま山荘に連合赤軍の5人が籠城 2/22 民間人1人が銃撃され、3月1日に死亡 2/28 強行突破で5人を逮捕 警察官2人が殉職 3/7 リンチ殺人の最初の犠牲者の遺体発掘 25日までに14人の遺 体を発掘 5/30 テルアビブ空港乱射事件(後の日本赤軍グループ) 24人死亡 (犯人を含めると26人)76人重軽傷 1974 12月 「日本赤軍」結成 1975 8/4〜5 クアラルンプール事件(日本赤軍) 米大使館・スウェーデン大 使館を襲撃 1997 2/15 レバノンに潜伏中の日本赤軍メンバー5人を一斉検挙 同国へ の政治亡命が認められた岡本公三を除く4人を逮捕 2000 11/8 日本国内に潜伏中の重信房子を逮捕 2001 4/14 重信が獄中から日本赤軍解散宣言 ///////////////////////////////////////////////////
「あさま山荘事件」は、今から50年前の1972年2月19日に起きた。銃を携えた5人の若い男が長野県軽井沢の河合楽器の保養施設・あさま山荘に侵入、管理人の妻(31歳)を人質にとり10日間にわたって籠城、包囲する警察・機動隊に対して発砲を繰り返した事件である。
10日目の2月28日に警察側が強行突入に踏み切り、人質は無事救出されたものの、警視庁第2機動隊隊長と特科車両隊の中隊長が銃撃され殉職した。 さらに4日目の22日に警備の虚をつき山荘の玄関に行った民間人が刑事と見なされて銃弾を受け、入院中の病院で3月1日に死亡、犠牲者は3人に及んだ。
28日の午後6時過ぎ、警察側からの催涙ガス弾攻撃や水攻めに最後まで抵抗を続けた5人は、山荘に入り込み機をうかがっていた機動隊員によって射殺されずに逮捕された。
5人は警察が行方を追っていた「連合赤軍」のメンバーで、坂口弘(25歳)、坂東国男(25歳)、吉野雅邦(まさくに、23歳)、加藤倫教(みちのり、19歳)、加藤元久(16歳)だった。坂口がリーダー格で、2人の加藤は兄弟であった。
最も過激な極左集団
連合赤軍とはどのような組織であったのか。その成立は1971年7月15日、「共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)」と「日本共産党革命左派神奈川県委員会(革命左派=京浜安保共闘)」の軍隊が連合したものである。
連合と言っても、赤軍派はこの時期には縮小してしまっていたし、革命左派はもともと小規模の集団だったので、実状は弱小、弱体化した組織の合体であった。 両派とも学生運動の行き詰まりを感じた多くの学生が左翼運動から距離を取り始めた時期に非合法闘争を目指して結成されたため、当時の新左翼組織の中では最も過激な極左セクトとして警察からマークされていた。
赤軍派の母体は、1959〜60年の安保闘争をけん引した共産主義者同盟(共産同)である。共産同はブントとも呼ばれ、日本共産党に反旗を翻した島成郎(しげお)を中心に1958年12月10日に結成された組織である。赤軍派は1969年に結成され、議長の塩見孝也の理論に基づき世界同時革命を目指し、その前段階としての武装蜂起を企て、「国際根拠地」を建設する目的で、翌年に日本初のハイジャックである「よど号ハイジャック事件」を起こしていた。
革命左派は、マルクス・レーニン主義同盟派(ML派)の河北三男がマルクス主義戦線派(マル戦派)の川島豪(つよし)を誘って1966年4月に生まれた研究グループ「警鐘」に、日本共産党から除名、もしくは離党したメンバーが合流した組織である。
毛沢東を信奉し、「反米愛国」をスローガンに掲げ、「銃のみが政権を生み出す」といった毛沢東理論に基づき、銃砲店から猟銃、散弾実包などを強奪する事件を起こしていた。
悲惨な山岳ベースでの共同生活
公安当局の見解としては、この2つの組織が合体することは野合以外には考えられず、それだけに両派は追い詰められていたと言えよう。
しかし、赤軍派には「M作戦」と称した金融機関への連続襲撃で強奪した現金が、革命左派には銃砲店から強奪した鉄砲と銃弾があったので、相互に連合することのメリットはあった。
連続金融機関強盗事件、猟銃強奪事件により、多くのメンバーの逮捕や指名手配、「アパートローラー作戦」と称する警察の徹底的な捜索を受け、もはや都市部での潜伏は困難と判断した彼らは、山岳にベースを設営し山での集団生活を送ることとなった。
最初は、赤軍派、革命左派、それぞれ別の場所に集まった。1971年11月下旬以降、両派は群馬県の榛名山の山岳ベースに順次集結し、名実ともに連合赤軍としての共同生活を始める。
この時点での陣容は赤軍派が男8女1の計9人、革命左派が男10女9の計19人、総勢28人となるはずであった。しかし全員が榛名山ベースにそろう前に、「総括」を求められた男2女1の計3人が死んでしまったのである。「総括」は、革命戦士としての資質を問題視されたメンバーが資質向上を目指して「自己批判」を行って、戦士としての精神的な脆弱(ぜいじゃく)さを克服していく行為である。
その後ノンセクト(セクトに属していない)の男1人が加わり、最終的に29人のメンバーが山岳ベースに集まったことになる。正確な人数は、夫婦メンバーの生後間もない乳児がいたので、30人だ。
追い詰められた5人が籠城
さかのぼって1971年8月、革命左派は最初の山岳ベースおよび調査地から脱走した男1女1の計2人を殺害、遺体を千葉県・印旛沼に埋めていた。
榛名山ベース終結後に死亡した男8女4の計12人を合わせて総数14人もの命が失われるといった凄惨(せいさん)極まりない事態を招いた原因は何だったのか。
その流れを追ってみる。まずは、赤軍派の指導者である森恒夫(26歳)がヘゲモニー(主導権)を握ろうと画策、これに対して革命左派の委員長であった永田洋子(ひろこ、26歳)が赤軍派唯一の女性メンバーの態度を問題視する。
この切り返しを受けた森が、革命戦士となるための「共産主義化」を求めていく。森が求めた共産主義化とは、革命戦争という殲滅(せんめつ)戦を戦い抜くための資質を備えた革命戦士の養成といった考えに基づくもので、その方法として、問題視したメンバーに「総括」を要求していくものであった。
やがて「総括を促すための援助」と称して暴力が行使されることになり、総括をやりきることが出来ず「敗北死」と見なされて死んでいった者、リンチ的な暴力を加えられて死んでいった者、ついには「死刑」を宣告されて殺害された者など、12人もの同士が死んでいくに至ったのである。
こうした事態を招いた要因としては、政治面での両派の統一をなおざりにしたツケ、指導者(リーダー)の資質、力量不足、それを是正できなかった指導部(森、永田、坂口、坂東、吉野を含む7名)、盲従せざるを得なかった非指導部、極寒の山中という過酷な環境、乏しい食料状況などが考えられる。
総括が延々と繰り返される中、男2女2の計4人が機を見て次々と脱走。そのうちの女1は乳児の母親で、もう1人の女は残された乳児を連れて山を下りた。
その後、森、永田を含む男2女2の4人が、警察の目を逃れるために榛名山ベースから迦葉山(かしょうざん)ベースを経て最後に行き着いていた妙義山の山岳ベースを撤去する直前に逮捕された。
残った男7女2の計9人が妙義山ベースを脱出、山越えをして軽井沢へ入る。買い出しに行った男2女2の計4人が軽井沢駅で逮捕され、最後まで残った5人があさま山荘にたどり着き籠城したのである。赤軍派の坂東、革命左派の坂口と吉野、加藤兄弟だ。
事件後に新左翼運動が後退
5人全員が射殺されることなく逮捕されたのは、後藤田正晴・警察庁長官(当時)が、「犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く」と指示したからだ。
ベトナム戦争の真っただ中の時代。日本は米国に加担していると、反戦運動やベトナム人民支援の運動が学生を中心に高まり、また世間も彼らを支援する風潮が強かったからである。
あさま山荘事件までは、過激な連合赤軍の行動に対して共感を示す声もあった。しかし事件後に発覚した仲間14人の粛清は、その後の新左翼運動に加わる者を尻込みさせてしまうことになる。そして大衆から見限られて、すっかり衰退してしまうのである。
国外に活動の場を求めた赤軍派
赤軍派には前述したように国際根拠地作りの名目で国外へ活動の場を求めるメンバーがいた。あさま山荘事件が起きる前の1970年3月31日に、日航機よど号をハイジャックし、4月3日に北朝鮮へ行き着いた田宮高麿(たかまろ)ら9人のメンバーである。
さらに赤軍派の古参女性メンバーの重信房子は、1972年5月30日に「テルアビブ空港乱射事件」を起こした3人のうちの1人で、手榴弾で自爆死した奥平剛士(つよし)と1971年2月2日に偽装結婚。
これは公安に知られている本名ではパスポート取得が不可能だったためだ。そして2月28日、国外へ脱出し、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に加わった。
重信は後に「日本赤軍」を組織する。重信は連合赤軍の指導者・森恒夫とは相いれず、森が指導することになった赤軍派に見切りをつける格好で国外に活動の場を求めたのである。
この時期の赤軍派は、「よど号ハイジャック事件」前の1970年3月15日に逮捕された塩見孝也議長が指導していた初期の赤軍派と区別して第2次赤軍派とも呼ばれる。
1974年の12月に結成された日本赤軍は、1975年8月4日に在マレーシアの米国大使館、スウェーデン大使館を占拠。人質解放の交換条件として、あさま山荘事件などで公判中の坂東国男らを奪還する「クアラルンプール事件」を起こした。
この時の超法規的措置で坂東は釈放され、国外に脱出して今なお国際手配中である。吉野は無期懲役囚として服役中、加藤兄弟は刑務所と少年院からそれぞれ出所・退院している。
あさま山荘事件のリーダーだった坂口弘は、クアラルンプール事件の際、釈放を求める犯人との国際電話で「自分は行かない。武装闘争は間違った闘争との結論を出しています」と言って出国を拒否、後に死刑が確定し東京拘置所に収監されている。 坂東が逮捕され刑が確定しない限り、坂口の死刑は執行されない。 連合赤軍事件は今もって未解決なのである。
――――――――――――――――――――――― 三木 武司 著述家。1958年、香川県高松市生まれ。九州大学理学部生物学科卒業後、西南学院高校で時間講師、香川県立高校で教諭として勤務。2019年に定年退職後、著述業に専念。著書に『連合赤軍の時代』(彩流社、2021年)など。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.08.16 00:03:59
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