カテゴリ:学生運動
「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ① 2024-8-20 はんぺん 「榛名山山中の山小屋で、『お母さん!』と叫びながら遠山美枝子の命が尽きたのは 1972年1月7日。」のフレーズで、始まる「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んでみた。
著者の江刺昭子氏は、1942年岡山県生まれ、広島県で育った女性史研究家。1960年早稲田大学に入学し、60年安保闘争には、一般学生として、集会やデモに参加したことはあるが、(活動家)ではなかった。70年安保では、べ平連のデモに参加。大学卒業後は、ノンフィクションや女性史研究書などを出版。
今回、地域女性史の共同研究と刊行の一環として、神奈川県の女性史を取り上げたとき、「時代を切り拓いた女たち かながわ」の中で、連合赤軍事件の犠牲者の一人で、神奈川県出身の(遠山美枝子)の足跡を調査し、記録したものである。 遠山美枝子は、25歳でリンチ拷問の末、殺されて親の元に戻った。
「わたしは、彼女が活動家になるまでの思想の軌跡、明治大学での活動の実態、連合赤軍兵士として山岳ベースにはいるまでの行動や、考えを跡付けたいと思います。そして、なぜ、山に入ったのか、なぜ、伝えられているような死に方をしなければならなかったのかを、明らかにしたいと思います」(P29)
「今まで、お目にかかった遠山さんの周辺におられた男性も、女性も、口をそろえて「遠山や永田(洋子)や森(恒夫)は、自分だったかもしれない」と言われます。(P29)
この(自分だったかも知れない)に共感して、僕は この本を手に取った。 僕自身が、のぼせあがった英雄主義よろしく、いっぱしの革命家気取りで、飛び込んでいった、無責任な学生運動。 (青2才)が、(青2才)を、オルグ(勧誘)するという(茶番)・・・その犠牲になって、結果として、可能性多き人生をダメにした若者が、多くいた。
大手前高校の山崎博昭の同期生たちは、大学進学後、各セクトに入って活動を始めたが、多くが、賢明にも、その(幼稚さ)や(非現実性)に、見切りをつけて、70年安保闘争のピーク?までには、早々と撤退している(総括無しに?)
僕の入学した大学には、社学同(赤軍派の前身)というセクト(党派)が居た。その中からは、西浦隆男、赤城志郎、森恒夫や田宮高磨(よど号ハイジャック事件で北朝鮮に行き、現地で死亡)のような赤軍派に参加するものが・・・・
この森。田宮の2人とは、(入学年度が、違ったので)面識は無かったが、その当時の社学同市大支部の何人かのメンバーの顔や名前を今でも、よく覚えている。 彼らは、今、どうしているのか? と。何人かは、赤軍派、日本赤軍に参加しただろうし、それ以外の多くのメンバーは、見切りをつけたのだろうか??
弁天橋で死んだ「山崎博昭」について、以前ここで こう書いた。 「未熟なことは、罪ではない。それをとりまく環境が、彼、彼女を成長させうるか否かを決める。」 あの弁天橋の上で、山崎のそばで(闘っていた?)同じ中核派の誰か別の人間が、代わりに殺されていたこともありうる。それは、人生は偶然の積み重ねと言えることだから・・・・しかし、山崎を弁天橋上に導いたのは、彼の環境の所産だ。彼は、環境に恵まれなかったのだ・・・
僕は、たまたま、構造改革派のグループからのオルグを集中的に受けたがゆえに、その方向の運動に関わることになったが、もし我が大阪市大に、民青と社学同しか、運動体が無かったら・・・あの当時の僕は、たぶん社学同に、オルグされて、加入させられていたと思う。
(青2才)とは、そういうものだ。 物事を正しく理解する下地もなく、多くが、その場の雰囲気(勢い)、人間関係などで、運動に関わっていったのが、当時の状況だった。 何という時代だったのだろう・・・と今では思う。
「遠山美枝子や永田(洋子)や森(恒夫)は、自分だったかもしれない」というのは、当時の状況そのものだった。 いかに(大義)を振りかざした運動が、いい加減なものであったか!ということなのだ。
それと、舞い上がっていた当時の(活動家)の時代錯誤的な状況認識の(過ち)も、(洗脳)という魔物の前には、見過ごされてしまった。これは、今すぐにでも民衆の怒りが爆発して革命が起きると夢想した極左派=トロツキストだけではない・・・多かれ少なかれ、僕たちにも、共通するものがあったと思う。
(参考) 『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ④ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.25 05:08:46
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