カテゴリ:学生運動
「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ② 2024-8-21 はんぺん 「1967年10月羽田事件の参加者は2,000余人ということで、樺さんが死んだとき、国会を取り巻いた学生、市民、労働者、数十万人とは、ケタが違う。 評論家の大宅壮一が書いているのが、世間の見方の一方を代表している。 「日本は、経済的にも安定した中産階級が、国民の9割を占め、レジャームードにすっぽりつかっている。この国に革命が起きると本気で考えている人間が、いったいどれだけいるだろうか」(大宅壮一:『現代』1968年1月号)」(P121)
しかし、1967年の10.8羽田事件をきっかけに、学生運動に飛び込んでいった人も多いという。僕は、以前から、ベトナム反戦運動に、高校生として参加していたが、その僕にとっても、この10.8羽田はショックだった。耳目衝動的な(闘い)に憧れて、舞い上がってしまったのだ。
2,000余名の(命を懸けた)学生たちの(闘い)に、感激!して、遅れまじ!!と、気をはやらせる自分がいたのだ。マスコミは、(暴徒)(暴力学生)と一斉に非難を始めたが、それが逆に、僕たちの闘争心を掻き立てたのを、今でも思い出す。
僕は、当時、何もできない高校生だったが、何人かの友人・知人に、(三派全学連支持)の手紙を書きまくったのを覚えている。 ここまで行くと、もはや(催眠術)の類にもなっていくが、多くの(青2才)が、生まれていったのだ。
「この日を境に学生運動に飛び込んでいったという人も多い。事件の翌日から各大学で抗議集会が開かれ、13日には京都大学で学生葬が、行われている。山崎と京大で同学年の上野千鶴子が、初めてデモに参加したのは山崎の追悼デモで、1か月後の第2次羽田闘争に参加したと回想している」(P124)
「山崎博昭は、大阪の名門、大手前高校の出身で、先輩に全国全共闘議長の山本義隆、同級に作家の三田誠広、詩人の佐々木幹朗らがいる。 遠山美枝子の母は大手前高校の前身の大手前高等女学校の卒業生である。また遠山の関係者とわたし(江刺)をつないでくれた西村朱美も この学校の出身で、山崎と同級だ」(P119)
「7.6事件」というのがある。それが、1968年7月6日に、起きたからだという。内容(経過)自体は、以前、僕は別のサイトで知っていた。
4.28沖縄闘争の評価(総括)をめぐってのブント内の内ゲバ事件で、この対立が、赤軍派を生んだ。 赤軍派の主流は、京大、市大などの関西ブントで、ブント内左派・・・「世界党・世界赤軍・世界プロレタリア統一戦線建設」が、スローガン。それまでの同時多発、火炎ビン、解放区づくりなどは、敗北だったという。 関西派が、赤軍派に、関東グループが、ブント主流派・・・という事になった。
この「7.6」の内ゲバ事件が、重信、遠山の在籍していた明治大で起きた。 その内容は当事者たちの多くのなまなましい証言があり、(極めて凄惨な)とだけ言っておく。(P151~156) 新左翼内で、初めての死者が出た事件だった。
この場に、重信も遠山も居た・・・だけでなく、(ゲバルトの当事者ではないが)大きく関わっている。この時点では、新左翼の活動家たちのように、彼女らも(正常な判断)が、出来なくなっていたと思われる。
内ゲバ事件の当事者、関係者の心理状態は、そういうものだ。極度の興奮状態が、正常感覚を奪い去ってしまう。
後に遠山美枝子の夫になる高原浩之は、赤軍派最高幹部だった。 その彼の言葉が残っている・・・「なぜ内ゲバをするのかって? それはね。ブンドの中で対立があり、あの時、赤軍派フラクは孤立していたんだ。僕らはオルグしても多数派になれない。リンチをするのは自分の位置を守るためにやる。そうでないと組織が維持できないという恐怖感だね。そういう支配の論理が働いている。自分は間違っていないと自分で合理化しながらリンチをやっている」 (P156)
この分裂騒ぎの中で、関東グループの中で、明治大2部学生を中心に、10名ほどが、赤軍派に合流したが、その中に重信や遠山が、入っていた。今から思えば、それが、運命の分かれ道だったという事になる。
重信は、ともかく遠山美枝子が、赤軍派に合流したのには、恋人である最高幹部の高原浩之の存在が大きいだろう。遠山は、従って、赤軍派の創設初期からのメンバーだったことになる。
当時の重信や遠山は、ブント内では、連絡アポ、ガリ切り印刷、物資の調達、電話番などの機転の効く雑用(使い走り)で、重宝されていたようで、重信はともかく、遠山が理論的に、赤軍派に共鳴して参加したとは、全く思えない。
僕の経験からもいえる事だが、民学同の第2次分裂(1969年)の時に、僕の支部内で、(当時40数名の同盟員がいたが)、双方が多数派工作を展開したのだが、暗黙の了解の恋人関係の数組があって、別々になるような事は、ありえない雰囲気だった。
そう(理論というより、人間関係)で結びついていた事例を 僕は、相当見させてもらって・・・それも、行きがかり上、仕方がないのかな・・・と思っていた。
『赤軍派議長の塩見が、提唱した思想と方針は「過渡期世界論」「前段階武装放棄」「国際根拠地論」の3つにまとめられている。マルクスの過渡期論にならって、現在(1960年代後半)は、共産主義革命への過渡期にあるとして、その革命の前段階である武装蜂起をする。そして世界革命実現のために海外の労働者国家に渡り、その国をオルグして革命の根拠地にしようという。』(本文)
「証言 連合赤軍」で赤軍派幹部だった八木健彦が語っている。 「首相官邸を占拠して、それでどうするっていうのは、普通誰も考えない。我々も考えていない。塩見だけは考えていたの、佐藤栄作(首相)を捕まえて、そこで大衆団交をやるって。(略) イメージとしては、当時としては大学の、全共闘の・・・大衆団交をやったでしょ、ああいうイメージ」 そこで何日か、佐藤栄作を捕まえていれば、日本全国で同志が立ち上がるだろうというイメージだったという。」(P164)
「これが塩見の唱えるところの「前段階蜂起」で「獄中通信1号」によれば、佐藤栄作を逮捕し、人民集会を行い、一切の機動隊を霞が関から撤退させ、政治犯の釈放、安保条約の廃棄、日韓条約廃棄・・・・」などを獲得するのだという。」(P165)
あまりにも 阿保らしい、陳腐な発想だが、独善、洗脳とは、恐ろしいと・・・これはもう(妄想)の領域だろうが・・・ (青2才)の妄想=革命ごっこに付き合わされて、多くの若者たちが、命を落としたのだ!
「現実には、赤軍派は「大阪戦争」「東京戦争」に取り組んだものの、小規模な闘いに終わり、幹部や高校生部隊(赤軍派には高校生も多かった。洗脳しやすかったのだろう)が逮捕され、脱落者がおおぜい出た。それでも大菩薩峠で武装訓練をして首相官邸を襲撃しようとして、警察に一網打尽にされ、また多くの逮捕者が出た。 犠牲者が出ても、中央委員会はさらに旅客機のハイジャックを強行。赤軍派が唯一成功した作戦だと言われるが、乗っ取りメンバーは、目的地のキューバではなく、経由地のつもりの北朝鮮に留め置かれたまま、50年以上が経過している。」(P165)
「荒唐無稽な革命ごっこ」・・・何が、無責任かと言って、彼らの(運動?)には、その後の計画が無い事だ! バリケードスト自体が、解放区づくり自体が、大学解体自体が、自己目的化されて・・・それの実現後のプログラムが無ければ、最後には投げ出すしかないだろう・・・これが、無責任運動なのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.28 12:56:37
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