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2024.08.22
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カテゴリ:学生運動

「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ③ 2024-8-22 はんぺん

 赤軍派は、京都大、同志社大、大阪市大など安保ブンド(社学同)の拠点校を中心とした関西グループと 関東では、東京の明治大2部、多くの高校生を集めて、1969年9月に旗揚げした。

 

69年後半から71年にかけて、次々と過激な闘争を実行したが、成果のあがらない中、幹部や中央軍兵士が逮捕され、崩壊状態になっていくが、永田洋子たちの京浜安保共闘(革命左派)と組んで、連合赤軍を結成する。

 

「この頃の新左翼の党派間では、実現不可能だが、より過激な主張や戦術を主張するほど 人が集まるという傾向があった。赤軍派の「過渡期世界論」「世界根拠地論」が若い活動家に受けて、多くの若者が赤軍派のもとに結集した。

 

ハイジャック事件の「成功」は、新左翼各派から称賛されている。

  プロレタリア革命を目指す以上、労働者の支持が不可欠だが、赤軍派に呼応した労働者は関西に少数いただけ。大半が、学生、それも闘争経験がほとんどない未熟な高校生が多いというのが、70年以降の赤軍派の実態だ。」(P191~192)

 

「戦力の衰えた赤軍派は、1970年末頃から政治路線の異なる日本共産党革命左派(京浜安保共闘)との合同を探り始めている。

革命左派は、日本共産党革命左派神奈川県常任委員会が、正式名称で、通称 革命左派。その大衆組織が、京浜安保共闘である。毛沢東思想を信奉する革命党で、武装闘争を中心に活動してきた。(P212)

 

712月、獄中の最高指導者 川島豪を奪還するために、栃木県真岡の銃砲店を襲い、猟銃や縦断などを奪った。警察から指名手配されたリーダーの永田洋子らは、しばらく北海道で逃亡生活を送っている。

 

一方、赤軍派は M作戦で資金を得たものの、武装蜂起のための武器がない。

資金の乏しい革命左派と武器が欲しい赤軍派が合体。 この年の暮れには、赤軍派軍事組織の「中央軍」と、革命左派の軍事組織である「人民革命軍」が、統合されて 連合赤軍となった。(P212)

 

(革命ごっこ)も、ここまで行くと、(妄想)では済まされない。狂気の世界ではないか??  

戦後間もなくの1951年ころ、(今にも革命が起こる!)と言って、日本国内の武装闘争を志向した日本共産党の非合法極左テロ組織が、あの有名な「山村工作隊」だ。

農村を拠点とする毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国の建国に成功したのに倣ったものだが、日本の農村で「農村部でのゲリラ戦」を想定したものだったが、暴力革命への支持は広がらなかった

 

日本共産党の流れを汲んだような、この革命左派。毛沢東の教えに倣っての、あり得ない(革命ごっこ)に、なんと考えれば良いのか?

 

「連合赤軍から森恒夫、革命左派から永田洋子がリーダーとして、「兵士の共産化」「銃による殲滅戦」を標榜して、71年暮れから群馬県榛名山に山岳ベースを作って合宿、軍事訓練を行った。その過程で同志12人を「総括」してリンチ、死に至らしめた。  遠山美枝子は、その一人で、72年1月7日に亡くなった。残ったメンバーのうち5人は、「あさま山荘事件」を起こし、逃亡した者も全員逮捕された。(P212)

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ウイキペディアから・・・ (4全協)

日本共産党第4回全国協議会「軍事方針」、1951年(昭和26年)2

米帝国主義者と売国奴に対して頑強不屈の地域闘争を行い、自衛闘争を発展させ、その中から遊撃隊をつくり出し、その発展を指導しなければならない。労働者階級は小部隊による遊撃隊を組織し、敵勢力の武装勢力を分散・撹乱・襲撃しなければならない。

 

この遊撃隊は、拠点工場や経営と統合し、農山漁村の遊撃根拠地はつねに大都市、大工場と結合し、労働者階級の指導のもとに発展しなければならない。遊撃隊は自らを守り、敵に対して発展してゆくことのできる根拠地をもたなければならない。

 

遊撃隊の根拠地は第一は地域闘争の中心である大経営であり、つづいては山地・山村地帯である。これらの地域は、数百年前から、農村社会を形作ってきたところであり、革命的な農民運動の歴史さえもっている。その生活は幾重にもはりめぐらされた封建的な圧迫、搾取、容赦ない税金、供出、さらに増大する失業によって、ニ~三年で部落全体が滅亡するところさえ少なくはない。農民は全く滅亡か、革命かに直面している

 

これらの山地・山村の根拠地に対しては、大経営の労働者が山村地帯の革命工作を行い、その根拠地をつくらなければならない。

例えば、京浜、阪神、北九州、中京、空知、札幌とその背後には、これらの根拠地帯を作ることが絶対に必要である。

遊撃隊は、反米救国の民族民主統一戦線発展の武器であり、人民解放軍への発展をめざして行われる。

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歴史は、無残にも繰り返された。

戦後日本の一時代、日本共産党は、この(4全協)の軍事方針のもとに、山村工作隊、中核自衛隊の極左方針を出し、1952年からの1時期だが、地下に潜って、武装闘争を実行した。

 

(ウイキペディアから)

19521月札幌の白鳥一雄警部射殺事件、東京・青梅線の貨車暴走事件、東京小河内村の山村工作隊一斉検挙と大小無数の武装衝突事件が起こった[5]。東京のメーデー事件(2人射殺、1,230人検挙)、東京新宿駅前・板橋岩之坂交番所などでの火炎瓶騒擾事件(3人射殺、102人検挙)、大阪の吹田事件、77日名古屋の大須事件(121人検挙)といった街頭衝突で、デモ隊は盛んに火炎瓶を投げて警察へのテロを行った[5]

 

20年後の1969年ごろから、赤軍派や革命左派は、理由付けは違えど、同じ「革命ごっこ」を 繰り返したのだ・・・・

(狂気)について、よく考える。

冷静になれば、あり得ない暴走が、何度も繰り返されてきた。

文革での紅衛兵の熱狂、ヒトラーへの熱狂、金王朝への熱狂・・・作り上げられた熱狂であっても、確実に、自分だけでなく、周囲の他人さへも、縛り上げてしまうことの恐ろしさについて・・・

 

特に、エリートすらも、冷静さを失わせる、この熱気、狂気は、いったい何だろう・・・

(ウイキペディアから)

「当時、日本共産党は細胞とよばれる基礎組織を日本全国の学校や党員の職場などで結成していたが、元東京都学連執行部の森田実(政治評論家)によれば東京大学教養学部細胞指導部中核自衛隊、山村工作隊へのスカウトを行っていた。

 

遠山美枝子が、仲間から死に至るほどのリンチを受けた末に、亡くなったのが、197217日。そんれから、52年もが経過した。

洗脳と狂気のために、犠牲となった若者たちだが、一切の同情があってはならない・・・といつも思う。

 

 同時に、あの時代に生きた僕も含めて、「私だったかもしれない」と考えることにも、激しく同意する。人間の弱さというよりも、僕は 人間の(限界)だと思うようになっている。

あの山崎が、樺が、赤軍兵士たちが、僕だったかもしれない・・・それは、誰も否定しようがない事だ。

 

「高原(浩之)と同じくハイジャック事件の共同共謀正犯容疑で70年6月に逮捕され、71年は拘置所にいた上原に 遠山(美枝子)が最後に面会にきたのは その年の12月、山(アジト)に入る直前だ。

 『そしたら銃による殲滅戦をやるって言うんだ。看守がいるから、うかつなことは言えないけどね、やめとけやめとけ、そんなのできっこないと。客観的にもそんな条件はないと。半分冗談めかしてね。そしたら、僕のあだ名はオバQだから、キュー、それは日和見主義よって言ったの。僕、びっくりしたんよ。そういう言葉で言う人やないからね。

 

そのあとは話が ちぐはぐになってね。それが最後。ともかく僕は止めたんや。真岡事件の銃のことは知ってたから、そんなもんは油紙に包んで埋めとけと言ったんや。今から思ったら、あんなことを知っていたら、もっと真剣に止めたよ。首相官邸に飛び込んだりするかもしれないから、だめだと』(P224)

 

この本を読んでいて、僕が、一番、許せない言葉がある。

遠山の夫で、赤軍派の最高幹部だった高原浩之が、遠山の死の3年後に、遠山から獄中の高原に宛てた手紙の返信「三年後の返信」を書き綴っている・・・その中の一節・・・・・

「二人で活動をやめるかやめないかという話になったとき、お互いに じゃあやめようと言えないんだよね。そういう政治路線を共有した上で一緒になったんだから、やめると言ったら離婚することになるから、結局どちらからも止めようとは言い出せずに、やろう、やろうとなるんだ。僕自身、首相官邸占拠、塩見(議長)奪還と言いながら、そんなことできるはずがないと思っているんだから。だけど、あとにひけないんだよ」(P191)

 

京都大学からきた、遠山の夫、赤軍派の最高幹部の高原浩之が、過激な方針を大衆に訴えながら、その本人自身が何と考えていたのか・・・「そんなことできるはずがないと思っているんだから。」とは・・・・

 

(青2才)が(青2才)をオルグする・・とは、そういう事だった。こういう無責任な連中に踊らされて、多くの若者たちの人生が壊された、命が奪われた・・・

 

以前、このブログで、こう書いた・・・

今ごろ「もっと他のやり方があった」(重信房子)と言われても、殺されたものは・・・永遠に浮かばれることは無い。なぜ、彼らを死刑にしないのだろうか? 

今でも、強く強く、そう思うのだ。

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

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1969年 7月6日  7.6事件・・・ブント内の凄惨な内ゲバ事件

    8月28日  赤軍派結成総会 議長:塩見、政治局員は、高原浩之、田宮高磨ら7名。

   9月4日  赤軍派大政治集会(葛飾公会堂)

   9月5日  全国全共闘連合結成大会(日比谷野外音楽堂)の参加

   9月22日 大阪戦争  交番を攻撃し、48人逮捕

   9月30日  東京戦争  交番に火炎ビンを投げ、38人逮捕。

  1021日 国際反戦デー 新宿駅襲撃、パトカー襲撃、ピース缶爆弾使用 

   1029日  赤軍派中央委員会で、首相官邸武装占拠計画を決定

   11月5日  秋蜂起(首相官邸占拠闘争)の軍事訓練のため、山梨県大菩薩峠の山小屋に、主に高校生活動家らが集められたが、凶器準備集合罪、爆発物取り扱い罰則で、53人逮捕。(大菩薩峠事件)  

(参考) 大菩薩峠事件(ウイキペディア)

事後の捜査によって議長の塩見孝也ら重要メンバーの多くに逮捕状が執行され、赤軍派は大打撃を受けた。逮捕投獄されたメンバーは獄内グループ、獄外は獄外グループと呼ばれた。

  獄外グループのうち田宮高麿らは国際根拠地論によりよど号ハイジャック事件を起こし、よど号グループと呼ばれた。また重信房子らは国際根拠地論の連携先にパレスチナ解放人民戦線を選び、テルアビブ空港乱射事件に国際義勇兵として参加し、後に日本赤軍として一連の日本赤軍事件を起こした。

  国内に残った獄外メンバーの森恒夫らは京浜安保共闘(革命左派)と融合して連合赤軍を形成し、山岳ベース事件、あさま山荘事件などを起こした。

  塩見ら獄内グループは、出獄後に再建グループを形成した。

 

1970年  116日  武装蜂起集会  

     228日  重信房子、パレスチナへ渡る

     315日  ハイジャックに参加予定の塩見が、逮捕。高原浩之が、最高責任者になる。森恒夫が、指導部に入る。

     331日 日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡る


・・・・中央委員会が、
PBM作戦を発案。

  P・・・ペガサス作戦で、要人を人質にして、獄中の塩見議長を奪還する。その後、毛沢東統治下の中国に亡命して革命の根拠地とする。

B・・・ブロンコ作戦で、日米の政治中枢、ペンタゴンと霞が関を占拠する同時多発テロ。

M・・・マフィア作戦で、金融機関を襲って革命資金を調達するというもの。  

     67日  高原浩之(最高責任者、遠山美枝子の夫)が逮捕される。

    1230日  赤軍派と革命左派が、初めて接触

1971年 1月  赤軍派中央委員会が、分裂。ゲリラ戦を主張したグルプが排除される。遠山が、革命戦線救援責任者になる。

    23月 森恒夫の指揮によるM作戦で、千葉・横浜・宮城・米子の郵便局や銀行支店を襲撃。奪取総額は、500万円を超える。

    9月14日 統一赤軍結成集会

    12月  赤軍派と革命左派、合同軍事訓練を始める。

    122021日 新党合意を発表。「連合赤軍」となる。






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最終更新日  2024.09.06 14:18:21
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