カテゴリ:学生運動
「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ④ 2024-8-23 はんぺん ・・・・・遠山美枝子は、なぜ、山(アジト)に入ったのか? 1971年12月1日、遠山美枝子は、山(アジト)に入り、帰ってくることは無かった。 なぜ、山(アジト)に入ったのか? は、著者(江刺)のこの本の目的の一つだが、答えは、この本の中にあるようだ。 遠山は、高原浩之(最高幹部)と、結婚して、中絶もした。逮捕者・脱落者が続出して、組織(赤軍派)が崩壊しつつある中で、トップの妻が、自分だけ抜ける事は出来なかったのだろう。
獄中の高原(夫)や、最大の同志であり理解者(重信房子)の中東脱出という状況の中で、孤独と戦っていたと思われる。 連合赤軍トップに上り詰めた森恒夫に対しては、遠山美枝子は不満を感じつつも、山(アジト)の軍事訓練以外の選択肢は、考えられなかった・・・と著者(江刺)は言いたいのだと思う。
そう、彼女は、重信房子とは対照的に、真面目で、おとなしくて、静かだった・・・と多くが認めている。その彼女が、なぜ、「山」に入ったのか? 誠実な人間だったから、理論的にではなく、状況的に(!)自分を追い込んでいったモノと思うしかない。
小柄で華奢な彼女に務まりそうもない雪山の訓練に参加したのはなぜなのか? 「美枝子は思いつめたら、そこから逃れられないタイプだった」(夫:高原) 1971年の晩秋、遠山は、山(アジト)に入り、帰ってこなかった。
「赤軍派が結成される前、第2次ブントが勢力を伸ばしていた1967年頃、村田・蔵本・重信・遠山らは同志だった。しかし、69年に(7.6事件をキッカケにして)ブントが分裂して、塩見孝也や高原らが赤軍派を結成したとき、去就は分かれた。生死の岐れ道だったともいえる。「あのとき あっち(赤軍派)に行っていたら、わたしは今、生きていないかもしれない」と言う人に何人も会った。」(P13)
同志だった村田(早稲田大のブント活動家で、明治大にオルグに入り重信や遠山を指導した)だが、分裂時には、赤軍派には行かなかった。
「わたしは赤軍派には行かなかった。何人か相談にきたけど、自分がいかないのがせいいっぱいで、止めなかったんだ。」(P13) 「遠山さんに謝罪するとすれば、止めなかった事だ。遠山さんにマムシ(村田のあだ名)どうするのって聞かれたが、自分がわからないのに人を止める自信はなかった。山(アジト)に行ったあとも彼女はわたしが後追いでくると思っていた。彼女は、なぜ行ったかって? 赤軍派の理論じゃない。何となく行ったんだと思う。」(P14)
村田は、50年近く、自らに問い続けてきた苦悩を滲ませながら、「あの事件が怖いのは、自分が加害者になっていたかもしれないということですよ」と繰り返した。(P16)
クラケン(蔵本健、明大2部やブントの活動家仲間)が、言葉を継ぐ。 「僕は早い時期にブントを離脱したから、赤軍派には行かなかった。(中略)あの頃、どこの党派に行くかというのは、理論とか、あの本を読んで感動したからというんじゃない。人的なつながりですよ。誰かに奢ってもらったから、その党派に行ったという人もいるから」(P14)
高原夫妻(美枝子の死後、高原は美枝子の双子の姉と結婚した)を筆者(江刺)に引き合わせたのは、西村朱美。 彼女は、大手前高校(中核派系の反戦高協の拠点校だった)出身の山崎博昭(羽田闘争で死んだ)の同級生だった。彼女の進学先の明治大は、中核派ではなく、社学同(ブント)の拠点校だった。
「山崎君が京大に行って中核派だけど、わたしが入った明大の政治学研究会は、中核派とは違う風が吹いているなと思ったら社学同系だったの。だから のちの赤ヘル系になった。党派選びは、そんなものだったかも・・・」(P18)
これらの発言は、2018年3月18日の遠山美枝子の墓参時に、著者が、参列者から聞き取ったモノだ。50年近く後の(昔:活動家)の生々しい記憶に基づいているが、(青2才)だった当時の活動家たちの(革命ごっこの無責任さ)を強く、強く指摘しておきたい。
(命を懸けた革命?)が、そんないい加減な動機で始められたのか? そんな党派選びで、運動をはじめ、学生大衆を(無責任に)扇動していたのか!! 僕は、はらわたが煮えくり返るほどの憤りを感じている。 これまでの僕のブログでは、そのあたりは、相当に指摘している。
高野悦子も、山崎博昭も、遠山美枝子も・・・みんな(未熟)だった! 「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」
「マルクスがさあ・・・」だの「レーニンの原理は・・・」などとブッテいる活動家がどこまで、その理論を正確に理解しているか? 誰にも分からないが・・・僕は、いつも怪しげさを覚えていた・・・が、そんなものなんだ・・・と、僕自身が、その無責任さの中に埋没して、それで良し・・・と安易に考えてしまったが、その怪しげさの行きつく先が、多くの悲劇的結末だった。
また「学生集団でも党派でも 指導し、支配するのは男、受け身で支配されるのは女という構図ができあがった。(略)人間解放を掲げた全共闘運動でも 女性解放の視点はほとんどなかった。」(P240)
「新左翼党派の中でも最左派の赤軍派は、徹底した男性優位集団で、男性幹部を家長とみなし、活動歴の多少、年齢の上下でヒエラルヒーがあり、女性はひっくるめて幹部である家長の命令に従わなければならなかった。」(P243)
これが、日本で「革命」を起こそうという集団の(真の姿)だった。 いかに、取り繕うとも、空文句ばかりの烏合の衆だった。中身の無い自称革命家気取りで、多くの若者たちを 地獄に誘いこんでしまったのだ。 重信も含めた彼ら、彼女らの(犯罪)は、限りなく糾弾されねばならない!!
皆さんは、どう思われるか? はんぺん お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.08.26 05:52:32
コメント(0) | コメントを書く
[学生運動] カテゴリの最新記事
|
|