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2024.09.25
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カテゴリ:反戦平和

マスコミの戦争責任の罪深さに驚愕する! あなたたちは本当に(反省)しているのか? 「菊タブー」は、今も健在で(洗脳)は続けられている!!   2024-9-25    はんぺん

戦争が始まるずっと以前から国民を煽り続けたメディアの責任が、気になっていた。本当に、彼らは、自分たちの(戦争責任)と向き合えているのか? (戦争反対)は、叫べど、戦争の最大の犯罪者=ヒロヒト(裕仁)は、特等席で、特別扱い・・・戦争犯罪を糾弾される事無く、彼はのうのうと生涯を全うした。

 

多くの国民の被った、むごたらしい惨状とは、あまりにも、違いすぎる・・・ここに(正義)は、あるのか?  

歴史を過去から学ぶということは、戦争責任に、きっちりと向き合い、ケジメを付ける事だったが、マスコミは、忖度を積み重ね、同じ(過ち)を繰り返し続けている・・・・

  長いモノに巻かれろ・・・というわけだ。そのバックにあるものは何か?
戦後マスコミでは、
何度か、戦争責任の問題を取り上げようとした試みはあったが、軍部の強硬派に対する批判・反省だけは見られたが、戦犯ヒロヒト(裕仁)の戦争責任まで、至ることは、無かったのだ・・・・

  当時、軍部に迎合した・・・ある時は、軍部意向の先を忖度して、挑発的な報道を競い合った、醜い過去を我々は、知っている。

 

戦後マスコミは、本当に、戦争責任を自覚し、自己批判したのだろうか? 前から疑問に思っていた。 

戦後の彼らは、一貫して、国体護持(天皇制存続)で、「菊タブー」を固守してきたのではないか?

朝日・読売・毎日・産経・日経・東京・・・などの商業新聞は、右並びに(天皇制批判)を避け続けてきたことを 我々は知っている。

 

日本国憲法の最大の欠陥は、1章「天皇」である。これは、GHQのマッカーサーが、日本占領政策で、天皇制を利用しようとした結果の産物だ。

 (洗脳)されきった日本国民を懐柔し、抵抗を削ぐための、巧妙な(仕掛け)だったと思う。そもそも 君主制度は、共和制のアメリカ民主主義とは、相反するハズだった。アメリカ民主主義のプラグマティズムが、如何なく発揮された。

 戦後マスコミは、リベラルポーズを取りながら、天皇制やヒロヒト(裕仁)の戦争責任に対する報道をスルーすることで、(国民洗脳)を開始した。 何という事だろう・・・

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

 

――――――――――――――――――――――

じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか  神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家  2023-6-23  現代ビジネス

太平洋戦争末期の昭和20323日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。そして41日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。あれから78――

  テレビもインターネットもない時代、人々が戦況を知る手段は新聞とラジオだけである。ラジオのほうの音源はほとんど残っていないが、幸い、新聞は各社のものが縮刷版などとして、現代でも国立国会図書館などで読むことができる。

絶望的な戦況のなか、新聞は沖縄戦をどう伝えたのだろうか。情報量が総じて他紙と比較し多かった朝日新聞の紙面を中心に振り返る。(当時の新聞記事は新仮名、新字体に直して表記する)

 

始まった沖縄戦「竹槍なくば唐手で」

沖縄戦が始まるはるか以前から、新聞紙面の多くは戦況の記事で占められていた。朝日新聞の名物コラム「天声人語」も、昭和151940)年9月、「有題無題」と改題されたのに続き、昭和181943)年1月から201945)年9月までは「神風賦」に変わっている。昭和20年には用紙不足のため、新聞は12面だけの簡単なつくりになり、娯楽、文化記事や広告の多くも掲載されなくなって、ほとんど戦争一色の紙面になった。

沖縄戦が始まるよりも前から日本本土への空襲がはじまり、また日本の沖合いを遊弋(ゆうよく)する米艦隊への体当り攻撃(特攻)も繰り返され、紙面にはほぼ毎日、その種の記事が掲載されている。新聞だから、掲載されている記事は、前日以前の出来事についてのものである。

 

昭和20319日の朝日新聞2面には、〈国民学校(初等)を除き 全国授業を停止 向こう一ヶ年 増産へ、防衛へ、〉の見出しで「学徒総動員」の記事が掲載された。また322日には、〈硫黄島遂に敵手へ 最高指揮官陣頭に 壮烈・全員総攻撃 敵の損害三万三千〉との見出しで、硫黄島失陥が、最高指揮官栗林忠道中将の最後の無電とともに報じられている。

  328日、〈敵機動部隊の一部 慶良間列島(沖縄)上陸〉〈沖縄本島を砲爆撃 敵、更に本格的上陸を狙う〉との記事が一面トップに掲載された。いよいよ連合軍による沖縄侵攻が本格的に開始されたのだ。

  29日の一面には、〈満十七、八歳召集 召集規則改正公布 区域制限を撤廃〉として、日本全国の徴兵検査未済の満17歳、18歳の少年が、防衛召集、臨戦召集の対象になったとの記事が掲載された。

同日の二面には、中央省庁との打ち合わせのため上京した、沖縄県内政部庶務課長への取材記事が掲載されたが、そのタイトルは 〈合言葉は一人十殺 竹槍なくば唐手(からて)で 老幼も起つ沖縄県民〉とあり、内容も〈住居を焼かれたって、家財を失ったって、最後に勝てばいいではないか〉〈鉄砲がなければ竹槍で行こう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう――この決意だ〉.

  その意気はよしとしても、米軍の近代兵器を相手に竹槍や空手で戦えるとほんとうに思っていたのか、いま見れば正気の沙汰ではないような言葉が並ぶ

  また、〈街に村に義勇隊〉と題する記事には、千葉県下の飛行機会社では男は竹槍、女は薙刀の訓練に励み、伊豆下田では町長を隊長とする義勇突撃隊が、静岡県では日露戦争で戦った在郷軍人の老兵を中心に「上澤護国隊」がそれぞれ結成され、八王子では「多摩神武隊」と称する隊が結成、武道の有段者を集めて町道場で練武を始めたなど、幕末にタイムスリップしたかのような内容が記されている。

大本営発表以上に戦意旺盛だった社説

 そして331日、一面トップに〈沖縄本島に船団近接 艦砲射撃、逐日激化す〉と、沖縄本島への敵上陸が近いことをうかがわせる見出しに続き、「リスボン二十九日発同盟」として、〈英の主力艦も参加 敵側発表〉と、沖縄攻略戦にはイギリス海軍も参加しているという外電記事が掲載された。

 

世界中を敵に回したといっても過言ではなかったこの時期、海外からのニュースは、中立を宣言していたポルトガル・リスボン経由で同盟通信が新聞各社に配信した記事が主で、一部はスウェーデン・ストックホルムやスイス・チューリッヒからの特電、さらにグアム島の敵信傍受から入手したニュースなどに依っていた。

  41日、沖縄本島に米軍が来襲。日本軍は、182千名の米上陸部隊にほとんど無傷のまま上陸を許した。米軍はその日のうちに沖縄の2ヵ所の飛行場を占領し、早くも43日には小型機の離着陸を始めている。米軍の上陸を、翌42日の新聞は、〈沖縄本島に敵上陸〉と、大見出しで報じた。

  この日以降、毎日のように沖縄の地図入りで現地の戦況を伝える記事が掲載されるが、「大本営発表」の誇大な「戦果」(この日の見出しでは「更に十五隻撃沈破」)の部分をのぞけば、比較的正確に状況を伝えているようにも思える。「大本営発表」以上に戦意旺盛に見えるのが「社説」で、この日の社説では、〈周到、冷静にしてしかも果敢なる統帥、用兵をもってせば、再び水際に追い落とすことすら期待し得るであろう。いまこそ、この一戦に総てを集中すべきである〉……などと書かれている。

 

以下、主な見出しを列挙してみよう。

43日(一面)〈沖縄本島に上陸の敵、兵力を増強中 撃沈破更に四十一隻〉〈本土侵攻の足場 沖縄に犇(ひしめ)く敵の戦略〉

44日(一面)〈沖縄本島の守備部隊 果敢な邀撃戦展開 荒鷲、空母等三十一隻屠る〉〈敵、両飛行場押う〉

45日(一面)〈敵、北谷南方に進出〉〈島袋、泡瀬の線に侵寇〉

そして46日。前日に小磯内閣が総辞職し、鈴木貫太郎海軍大将に組閣の大命(天皇による任命)がくだったニュースが一面トップになる。鈴木総理は二面のインタビューで「この戦い必ず勝つ」「私はただ戦争あるのみ」などと激越な談話を寄せているが、これは国内の主戦派に対するいわば目くらましであり、鈴木は総理就任を引き受けたときから自分の内閣で戦争の幕を引く覚悟であったと、かつての海軍関係者、たとえば二・二六事件で鈴木貫太郎とともに叛乱軍に命を狙われた岡田啓介元総理の次男・岡田貞寛などは私に語っている。現実にいま、目の前で戦われている戦闘に気を配りながら和平を模索するというのは容易ではなく、誰にでもできることではなかったのだ。

 報じられた沖縄上陸

46日には、沖縄方面の連合軍艦船に対する航空総攻撃「菊水一号作戦」が行われ、7日には沖縄へ向かう途中の戦艦「大和」以下、巡洋艦、駆逐艦が撃沈された。そのことが新聞に報じられたのは49日のことである。

  〈沖縄周辺の敵中へ突撃 戦艦始め空水全軍特攻隊〉〈空母等十五隻撃沈 撃破十九隻 わが方も五艦沈没〉といった見出しが並ぶ。4817時の大本営発表をもとに書かれた記事だが、過大な戦果はさておき、〈戦艦はじめ空水全軍特攻隊〉の小見出しと、〈我方の損害 沈没 戦艦一隻 巡洋艦一隻 駆逐艦三隻〉と記されているのが目を引く。

  じっさいに「大和」とともに沈んだのは、軽巡洋艦「矢矧」と、駆逐艦は「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」の計4隻だから、大本営発表は駆逐艦1隻分、損失が過少になっているが、海軍はここで「戦艦一隻」の喪失を認めているのだ。

  昭和2049日。「我方の損害 沈没 戦艦一隻」とは、7日に米軍機に撃沈された「大和」である

「大和」の存在は秘密とされ、記事にも艦名は書かれていないが、これは、海軍の関係者が見れば「大和」のことだというのが一目瞭然だった。

  というのは、日本海軍の戦艦のうち、「武蔵」「陸奥」「扶桑」「山城」「金剛」「比叡」「霧島」の7隻はすでに沈み、かろうじて浮かんでいた残りの戦艦も、「長門」と「榛名」は220日付で警備艦に格下げされ、「伊勢」「日向」も31日付で呉鎮守府の予備艦(浮き砲台)に指定されていて、艦隊の戦力として残存するのは「大和」ただ1隻だったからである。

 

NHKで時代考証を担当するシニアディレクター・大森洋平氏によると、佐世保鎮守府で勤務していた父・大森幸男少尉(故人)が無線で一報を受けたとき、

「『沈没 戦艦一』って、『大和』しかないじゃないか、『大和』がやられたのか、と、目の前が真っ暗になった」という話をしばしば聞かされたという。

同じ49日の二面には、〈「神雷」の鉢巻の威力 額で叩割る空母 神風特攻隊沖縄へ発進〉と、やはり現代の目から見れば「鉢巻で戦うのか?」と疑問符がつくような見出しが躍っている。

この見出しに続く記事には、「長官〇〇中将」(おそらく第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将)による、〈大激戦に選ばれ特攻隊として敵に突っ込むは諸子の本懐であろう、戦争は腕でやるものではない、十分腹に力を入れ落ち着いてやれ、楽しんでやるのだ。〉との訓示が記されているが、「楽しんでやるのだ」と聞かされた二十歳前後の若い隊員たちはどう感じただろうか。

 

410日の一面には、〈沖縄の敵反復来攻 三千六百名を殺傷〉との記事が載っている。この面にはまた、日本側索敵機が撮影した、海面を埋め尽くすかのような敵上陸部隊の写真が、5段抜き1枚、3段抜き1枚という異例の大きさで掲載された。46日の「菊水一号作戦」で、敵戦闘機と戦い、特攻隊の前路を切り拓く任務で鹿児島県の笠之原基地を出撃した第三五二海軍航空隊の植松眞衛大尉は、生前、私に次のように語っている。

  昭和20410日の一面には、日本の索敵機が撮影した沖縄の米上陸部隊の写真が大きく掲載された。 「雲の多い日でした。一面の雲海の上を高度5000メートルで飛び、沖縄上空に到達すると、中城湾に、海面を埋め尽くすほど多数の敵艦艇がひしめいているのが見えた。それまでに見たことも想像したこともないほどの数です。私は零戦12機を率いて30分間、上空警戒にあたりましたが、その間にも特攻機が敵艦に突入したと思われる黒煙が、幾筋も立ち上るのが望見されました。しかし、どう見ても味方の飛行機よりも敵艦艇のほうがはるかに多い。たとえ特攻機が全機命中しても、敵にかすり傷程度しか与えられまい、そんなことをふと考えました」

  ――植松大尉が空から見て感じたように、この写真で先行きに悲観的な感想を持った読者も多かったのではないだろうか。

 

特攻隊を大特集

414日には、ルーズヴェルト米大統領が12日に急死したとのニュースが、リスボン発でもたらされた。新聞には、〈戦争挑発の張本人〉とのルーズヴェルト評のほかにも、〈新大統領にトルーマン昇格〉〈米の戦意変らず〉などの記事が載っているが、じっさい、ルーズヴェルト大統領の死によって戦況が変わることはなく、それどころか後任のトルーマン大統領が日本への原爆投下を決断することになる。

 

昭和20414日、アメリカのルーズヴェルト大統領死去が報じられた

以後も沖縄の戦況については連日、報道されているが、内地への空襲が激しくなると、割かれる紙面は相対的に、4月上旬ほどには大きくなくなる。

  5月に入るとイタリアのムッソリーニ元首相が殺害され、ドイツが降伏したとのニュースが入る。517日の一面では、〈首里北方で大激戦〉〈那覇近郊に侵入〉〈敵出血四万七千 上陸軍の半数屠る〉の見出しとともに、〈戦局楽観許さず 沖縄に敵の攻勢急調〉と、ここ数日で敵の攻勢がいよいよ激しくなったことが記されている。

九州、台湾の基地を飛び立った特攻隊の戦果は連日のように報じられ52728日には米軍の制圧下にある沖縄の飛行場に強行着陸し、敵機や飛行場施設を破壊する陸軍の「義烈空挺隊」のニュースが掲載されたりもしたが、沖縄の戦況は不利になる一方だった。

  〈ロケット機に乘って 敵艦船群へ体当り 本土南方沖縄周辺 神鷲三百三十二勇士〉4段の大見出しのもと、一面の半分以上を割いて、特攻兵器「桜花」の初出撃の模様と、414日の第四次桜花出撃までの特攻戦死者332名の氏名が掲載された。「桜花」は、頭部に1.2トンの爆弾を搭載し、母機の一式陸上攻撃機で敵艦隊近くまで運ばれて、切り離されれば搭乗員の操縦で敵艦に体当りする、まさに人間爆弾だった。

 530日、毎日新聞は二面の12段を費やし、「桜花」の3本の記事で大特集を組んだ。そのなかに、412日、米駆逐艦「マナート・L・エーブル」に命中、撃沈したとみられる土肥三郎中尉の発進の模様を、生還した母機の三浦北太郎少尉が語る記事が掲載されている。「マナート・L・エーブル」の艦体が、沖縄本島から北に140キロ、水深1380メートルの海底で発見されたニュース(202368日讀賣新聞オンラインほか)は記憶に新しい。

 

沖縄戦最終局面の混乱

64日、〈那覇、首里に敵侵入〉、いよいよ沖縄戦も最終局面を迎える。この日の紙面で目を引くのは、二面下段に、日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)によるベートーヴェンのコンサートが日比谷公会堂で66日から5回にわたって行われ、前売り中という広告が掲載されていることだ。

指揮者は尾高尚忠、現在も指揮者として活躍している尾高忠明氏の父である。プログラムは交響曲「第九」で締めくくられてられているが、310日、525日をはじめ、たび重なる空襲で焦土と化した東京で、観客はどのような思いで「歓喜の歌」を聴いたのだろうか。

  612日の一面トップは、〈我、戦線を整理敢闘 小禄、島尻地区に勇戦〉の大見出しで、〈沖縄本島南部地区の我部隊は其の後敵に打撃を与えつつ逐次小禄及南部島尻地区に戦線を整理し優勢なる敵に対し引き続き勇戦奮闘中なり〉との大本営発表が記されている。「戦線を整理敢闘」とは聞こえはいいが、要するに島の南部に追い詰められたのである。

 

そんななか、当時の日本としては米軍に「一矢を報いた」記事が、620日に掲載される。〈沖縄の敵司令官戦死 アッツの宿敵 中将バックナー〉で、グアム島放送局によると、沖縄方面の連合軍最高指揮官である米第十軍司令官バックナー中将は、181315分、日本側の砲弾により即死したとある。「アッツの宿敵」というのは、1943年、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が、バックナーの指揮下にある第七師団の上陸により玉砕(全滅)したことを日本側も把握していたからだ。

  だが、622日を境に、沖縄からの報告が途絶える624日には〈新垣、摩文仁中心に 拠点を確保激闘 沖縄本島 皇軍血闘続く〉25日には〈沖縄に輝く牛島部隊の偉功〉として、沖縄の第三十二軍司令官・牛島満陸軍中将とその部隊に感状が授与されたとの記事が一面を飾っているが、じっさいには623日未明、牛島中将は参謀長・長勇中将らとともに自決していた

  現在、この日は日本軍の組織的な戦闘が集結した日として、沖縄県が制定した「慰霊の日」とされている。海軍の最高指揮官・大田實少将は、66日、多田武雄海軍次官に宛て、「沖縄県民斯く戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」との電文を打電し、613日、米軍に包囲され孤立した豊見城の壕内ですでに自決している。

国民を煽り続けたメディアの責任

626日の一面トップは、〈沖縄 陸上の主力戦最終段階 軍官民一体の善戦敢闘三箇月〉〈二十日敵主力に対し 全員最後の攻勢 殺傷八万、撃沈破六百隻〉〈皇軍の神髄発揮 米、戦史類なき出血に呻く〉などの見出しが躍り、牛島満陸軍中将、大田實海軍少将、島田叡沖縄県知事の顔写真が並んでいる。

   19日に牛島中将が訣別の打電をしたことが記され、22日以降の状況が詳らかでないことがここで初めて明かされるが、陸海軍は22日で沖縄が事実上失陥したことは把握していて、航空部隊による沖縄方面への組織的な特攻出撃は22日で終了、以後は散発的になっている。

  昭和20626日、〈沖縄 陸上の主力戦最終段階 軍官民一体の善戦敢闘三箇月〉とあるが、622日以降の状況が詳らかでないことも明かされている。牛島満陸軍中将、大田實海軍少将、島田叡沖縄県知事の顔写真が並ぶ

牛島中将、長参謀長の自決が日本の新聞で報じられたのは630日のことで、これは沖縄を占領した敵国アメリカの、サンフランシスコ放送で報じられたニュースから得た情報だった。

   牛島満陸軍中将が長勇参謀長とともに自決したことを報じる昭和20630日の記事。すでに沖縄は連合軍に制圧されているため、サンフランシスコ放送からの情報である

以上、昭和20年の新聞報道をもとに沖縄戦を振り返ったが、沖縄のニュース以外にも、連日のように日本のどこかの街が空襲で焼けたという記事が掲載されている。戦況としては、もはや連合軍に手も足も出ない状態だったにもかかわらず、特攻隊出撃のニュースも連日報じられている。

 

太平洋戦争がはじまった当時、軽巡洋艦「長良」航海長だった薗田肇大尉(当時)は、かつて私にこう語った。

  「開戦の日、昭和16128日の朝、艦橋に上がってきた艦長・直井俊夫大佐が、何と言われたと思いますか? 開口一番、『こんな馬鹿な戦争を始めやがって!』ですよ。相当大きな声で、艦橋には第一根拠地隊の司令官も参謀連中もいましたが、誰も異をとなえなかった。むしろ、ウチの艦長、相当な反体制派だぞ、と一同痛快に感じたものです」

旧海軍の士官の多くは、アメリカ、イギリスを敵に回して日本が勝てるなどとは考えていなかった。戦前の海軍では、海軍兵学校を卒業、少尉候補生になれば、必ず練習艦隊で海外をその目で見る。日本が米英を敵に回しての戦争に勝てるはずがないことぐらい、皆がわかっていたはずである

  陸軍にも良識ある軍人はいただろう。それなのに、現実に戦争は始まった。一人一人は「勝てない」と思っていても、起きるときには起こってしまう、しかもいったん始まってしまえば、終わらせるのはさらにむずかしい。

結果的に、沖縄県民や空襲被災者をふくむ多くの民間人までもが犠牲になってしまった。

・・・・・なぜそんなことになったのか、戦争が始まるずっと以前から国民を煽り続けたメディアの責任も合わせて、これからもしつこく検証していく必要があるだろう。

 






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最終更新日  2024.09.26 11:40:50
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