カテゴリ:北朝鮮
「帰国事業」は、取り返しのつかない(地獄への片道切符)。「無償治療」「無料教育」は大ウソ!!それを後押しした日本リベラルの黒歴史! 2024-10-5 はんぺん 多くの若者たちが、明るい未来、希望のある未来を夢見て、「帰国船」に乗った。それが、取り返しのつかない(地獄への片道切符)だとは、誰も知らなかった・・・というか(真実)は、隠され続けていたのだ。 帰国者からは、北朝鮮当局の目に触れないような形で、後から(帰国)しようとする同胞たちに、「来るな!」「絶対来るな!」という(合図)が、何度も送られたという・・・その結果 「あちらこちらから色々怪しげなうわさが立つようになった」(本文) 北朝鮮や朝鮮総連の(大ウソ)が広まり、帰国事業は縮小していく・・・が、すでに帰国した約93,340人の在日同胞は、見捨てられていった。 多くの帰国者たちの乗った、帰国船(万景峰号)が、清津港に着いた時に、自分たちの(選択)の、取り返しのつかない大失敗に気が付いたという・・・ しかし、後戻りはできない!! そこから、飢えと貧困、病魔との壮絶な闘いが始まった・・・・ そこは(共産主義の大躍進)(地上の楽園)とは、ほど遠い現実だった。・・・朝鮮総連や朝鮮労働党は、偽の宣伝で、在日同胞を(洗脳)して、この帰国事業を強行したが、これに、もろ手を挙げて協力したのが、新聞・ラジオなどのマスコミと 在日同胞の人権の御旗を掲げて、主導した(日本共産党)(日本社会党)だった・・・・ 戦後リベラルの(黒歴史)というわけだ。(自民党などは、差別的に在日朝鮮人を(やっかい払いできる)として 消極的に支持したが、社会主義バンザイの共産党、社会党の果たした大きな役割は、(犯罪的)であり、その(罪)は、あまりにも大きすぎた!
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――― 北朝鮮に「23歳で送られた男」の告白…日本で憧れた「地上の楽園」に渡るまでの“壮絶すぎる半生” 李 泰炅脱北者・・・「地上の楽園」の生き証人 2023.03.09 現代ビジネス(週刊現代) 1959年から1984年まで、約93,340人の在日同胞が、北へ送還された。彼らは、身体の具合が悪ければ無償で治療を受けることができ、学びたければ無料で勉強することができるという謳い文句にのせられて、すべての人々が平等に暮らす「地上の楽園」に住めると、胸に希望を膨らませ、北朝鮮へ渡ったのだった。 1959年に、日本で生まれてすぐ北へ送還されたとしたら、現在、63歳になる。彼らは、生まれたときに日本の風に当たっただけで、物心がついたときは、すでに、北朝鮮の領土にいたことになるわけだ。 しかし、日本での生活と北への送還を鮮やかに記憶し、北朝鮮で死ぬような経験をし、その後韓国に定住した、歴史の証言者がいる。 北朝鮮に渡ってわかった「真実」 1961年1月、23歳で北に渡った、「北に送還された在日同胞」脱北者であるキム・チェク氏は、今年、86歳だ。彼は、韓国に定住している「北に送還された在日同胞」として、存命する証言者なのである。 先日、私は、7〜8年前から存じ上げていたキム・チェク氏に電話をかけた。ちっぽけなスマートフォンから、勢いよく、今にも唾が飛び出してきそうな声が、鼓膜を震わせた。 「あ! お久しぶりです。忘れずに電話していただき、ありがとうございます」 15歳以上年上のキム・チェク氏だが、彼はいつでも、私に対して礼儀正しい。 「ご連絡が遅くなってすみません。一度お目にかかりたいと思っています」 私は、控え目に言葉をつないだ。 祖国への思い・・・・ 「私は今、身体の自由が利かなくて、老人ホームに居ます。今は、すべてを放棄しました。話し相手ぐらいにならなれるかと…」 彼は、人生の晩年に、天涯孤独な人間として、老人ホームで、ひとり寂しく、死を待つ身に置かれているようだ。 できることなら、私は、キム・チェク氏を、日本、北朝鮮、韓国と渡り歩いた在日同胞の歴史の証言者として、『世界ギネスブック』にでも登載したい心情である。
キム・チェク氏は、1937年、宮城県の仙台で生まれた。彼の父は、炭鉱で働き、必死になって家族の面倒をみたが、貧乏からは抜け出せなかった。貧しいからこそ勉強しなければと、小学校、中学校、高等学校にまで通ったが、大学入学は不可能だった。 それでも、希望と勇気にあふれた彼は、17歳の若さのとき、ひとりで東京に上京し、2年間、夜間大学の社会学科に通った。 おカネがなくて、衣食住に困ることも多々あったが、マルクス哲学と『資本論』という本は、一時でも手放すことはなかった。 1958年8月、20歳という血気盛んな青年時期に、在日韓国人の北への送還事業の火付け役となった、在日本朝鮮人総聨合会川崎支部永留分会の同胞たちによる、帰国実現デモに参加した。 デモに参加した在日同胞たちは、集団決議として、その切実な心情を訴えた手紙を、金日成主席に送った。金日成主席は、祖国の懐に帰りたいという、差別され無視されている在日同胞たちの念願を熱裂に歓迎すると演説し、それをきっかけとして、翌年、「帰国」という名の悲劇が始まったのであった。 青年キム・チェク氏も、他の同胞と同様に、先頭に立って、その運動に一役買った人物のひとりだった。
「無償治療」に「無料教育」と… 資本主義の矛盾、社会主義の優越性、誰もが幸せに暮らせる平等な社会、「千里馬」運動、大躍進する朝鮮、「無償治療」、「無料教育」など、「地上の楽園」に憧れる心が、日増しに強くなっていった。 こうしてキム・チェク氏は、不公平な社会に対する不満と、社会主義とマルクスの共産理論に憧れ、ソ連留学を夢見て、「世界革命」という大きな抱負を抱いて、北への送還を決心したのだった。
1959年12月に最初の「北朝鮮帰還船」が出航し、約1年が過ぎた1961年には、北朝鮮について、あちらこちらから色々怪しげなうわさが立つようになった。だが、信念を貫く強靭な心を持つ彼は、うわさはあくまでもうわさとみなし、「帰国宣伝」の広告塔として先頭に立った。彼を通じて、数多くの在日同胞が、北へ送還されたのだった。 このとき、朝鮮総連の人間が模範となり、率先して帰国しなければならないという指示が伝わってきた。キム・チェク氏も、切望した北への送還を決心することになったのだが、「万が一怪しいうわさが本当だったらどうする? うわさが本当なら、ソ連に逃げよう! 世界革命の発信地であるソ連に行って、社会主義革命にこの身を捧げよう」と、心に決めたのであった。 そうして、「地上の楽園」の広告塔として、幾多の在日同胞を「北へ送還」させてきた、自分自身も、第25次帰国団の青年団長として、「帰国」することになったのだった。 「審査」から「帰国」まで 「北への送還」から63年が経ったが、北への送還事業に関心を持つ、人権活動家、北朝鮮専門家は、いまだに数多くいる。 当時、20歳以上の大人に限っては、最後の帰国審査を行ってから北へ送還させたのだから、人道主義的であった・・・ということに対して、現在では反対に、北朝鮮と朝鮮総連の宣伝によって北へ送還させたのだから、非人道主義的であり、詐欺であると叫ばれている。 当時23歳だったキム・チェク氏のおぼろげな記憶によると、「帰国審査」室には、日本および国際赤十字社の審査員や、記録係など、数多くの人たちがいたということだ。 うわさによれば、審査過程で、帰国しないと言い出して大騒ぎが起きたこともあるという話だったが、キム・チェク氏によれば、少なくとも自身が帰国するときまでは、そんな奇跡的な事件は、一度たりとも起こらなかったという。 また、朝鮮総連からの注意事項で、食べ物は伝染病の可能性があるので制限したという話はあったが、強制的に食べ物を集めて海に捨てたというようなこともなかったという。
63年前、第52次北朝鮮帰還船に乗った23歳の青年団長キム・チェク氏は、甲板で両手を広げ、冷たい風を受けながら、近づく世界革命を夢見て、2泊3日の旅程を終えたのだった。 これは、歴史的にいろいろと問題を残した、93,340人の北への送還における、ある特別な物語のひとつである。
さらに連載記事『“在日2世”の脱北者が、北朝鮮の「大嘘」を暴く…! 日本から「北朝鮮に送られた人たち」の“生存率”と“現在”を徹底調査した…!』では、日本から北朝鮮に渡った人たちの“知られざる真実”についてレポートしよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.10.05 00:00:13
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