TVにて『錦繍』をみました。
<錦繍>原作: 宮本輝「錦繍」脚本&演出: ジョン・ケアード 音楽・演奏: 藤原道山 出演: 鹿賀丈史 余貴美子 馬渕英俚可 西川浩幸 西牟田恵 神保共子 清水幹生 高橋長英 その他 宮本輝さんの小説を舞台化した『錦繍』(7-8月に銀河劇場にて上演)をNHKでやっていたので観ました。鹿賀丈史さんが主役ですし、レミゼのジョン・ケアードさんが演出というのが、どんな感じになるのだろう?と興味深かったのですが、実際の舞台は観にいけなかったため、TV放映してくれたのがありがたかったです。鹿賀丈史さんと余貴美子さんという元夫婦がやりとりした書簡をふたりを含む10人のキャストたちが流れるようにその内容を次々と語り継ぐような形で演じられる形で、こうした作品は初めてだったので、すごく新鮮でした。朗読劇という響きから、ああ、ふたりが舞台で手紙を読むのかな?なんとなく子守唄になってしまいそうなゆったりした眠りをさそうものを想像していたのですが、見事に裏切られました。手紙を読んでいる、という形はとりつつも、実に計算されつくされたよどみないセリフがつぎつぎと連なっていく舞台。落ち着いた丁寧な口調で美しい日本語がときには激しく、ときにはためらいがちにそして嗚咽を交えたり嘆きを含みながら、ストーリーが次々と展開されていくのが、そのテンポのよさや不思議な緊迫感のある空気のせいか、3時間を越える長さなのに、とてもきびきびと飽きることなく心地よい流れとなってずっと集中力が途切れることなくはいってきました。鹿賀演じる夫がある女性と起こした無理心中事件から別れることになった夫婦が秋の蔵王で偶然再会することになり、それを機に手紙をやりとりするようになり、封印された扉をすこしずつ開けるかのように手紙が綴られることでさまざまな事実があかるみにでていくのですが、とてもシンプルな舞台に椅子をならべてあるだけで背後には金屏風のような日本的な金色のスクリーンが象徴的にかけられているだけ。そして小道具もないので、それぞれの役者さんは自分の役割+夫婦ふたりの手紙の一部も分担しながらセリフのように語ったり、パントマイムのような演技をしていくのですが、その言葉の流れと動きとが実にうまく配され、違和感を感じずに綺麗な色とりどりでありながら派手ではないタペストリーや織物が連なるような、あるいは静かな河の流れに揺られていくようにストーリーに吸い込まれていきました。音楽も藤原道三の静かな尺八の音だけなので、セリフがよく浮きだし、何次元的といえない奥行きを与えています。また劇的な場面等にはモーツァルトのレクイエムがかかるのですが、このCDは演出家のジョン・ケアード氏の私物だそうです。とにかく舞台全体がミニマムで余計なものがなにもないところで、照明や声色や間やパントマイムを駆使し、男女の心の機微や運命的なできごとや皮肉な展開などを淡々としていながらドラマチックに伝えていこうとする、非常に新しい手法だな、と思いました。「手紙」といってももちろん紙を読み上げるのではなく、まったく普通の舞台のように何も読まず、淡々と何人もが分担するように交互にセリフを口にしていくわけですが、ほんとに細部まで計算されつくされたメロディーを聴くような自然な流れになっているのが不思議なほどでした。絵のないところに絵が見えてくる、表現というのはモノが揃っていなくてもできるのね。人間に想像力という素敵なものがあったことをあらためて確認できます。鹿賀さんは舞台の中心でまさに言葉の独白を続け、舞台に寝そべったり列車に乗ったり、さまざまな動きをします。淡々と落ち着いた中にも抑揚をつけ、脈拍が速くなるような状態になったり、かっと目を見開いたり目を細めたり。横たわるときの足の組み方がちょっとだけY一郎さんみたいだったのでドキドキ。その鹿賀丈史さん演じる靖明の運命を狂わせた複数の女性役が馬渕英俚可さん。馬渕さんは、余さん演じる妻の再婚相手の情夫をも演じるわけで、まさに「魔性の女」がぴったりに見えます(例の恋は何年の「いっちゃん」を誘惑したのもこの女優さんでしたっけ)この女性はすごく強烈なキャラクターなのに何故か夢か幻か、実際はいなかったのでは、と思わせるかげろうのような色彩の薄さをもっています。まさに影に惑わさせれた男、という感じなのです。男を奪った女性に対して余さん演じる妻は単純な嫉妬に狂うというのでなく、嘆き悲しむだけでもなく、自分の胸のうちをじっと見つめることで発見されたことすべてを綴ろうとしていて、それは感情的と言うよりはむしろ理性的であるといえるほど、クールな客観性、文学性を帯びていて、だからこそ余さんのまっすぐ前に響くセリフが聞く人を不愉快にさせずにメッセージを届ける力をもつのだと思いました。この元夫婦はなぜか生々しさがまったくなく、むしろ他人行儀のままというか、一定の距離感を保ったままです。それがまたもどかしさがある反面清々しさをもたらし、潔癖な空気が維持されていたように思いました。「生きているのも死んでいるのも同じ」あるいは「業」という言葉がキーワードにでてきます。運命に逆らったり夢中で願望を叶えようと祈るというのではなく、ただ自分の心の中に存在していた感情のかけらをすべて手紙という形に書き出す(=吐き出す)ことで、なにか昇華に似た現象が起き、問題が解決してすっきりしたわけでなないけれど、いつのまにかひとつの段階をクリアして、次の一歩を歩みだす光を見出した、という結果につながっていたのでは、と思います。知的障害のある亜紀(余さん)の息子役の方は膝をつきながら移動することで小さい子を演じていました。この足手まといにも思えた少年が最後には亜紀の生きる力にもなる、それは奇跡にも近いことですが、原作者の何があっても生きる、ということへの強い肯定が感じられ、大きな感動というより、じわっと静かに言葉にださない思いがあふれる、まさに日本的な情緒的でありながらウェットになりすぎず西洋的なドライな感覚が加わった、絶妙なバランスの上に成り立つ貴重な作品だな、と思いました。