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カテゴリ:神様のこと 聖書のこと
1ヶ月ほど、ミニストリーを一人で まわしているのですが、主は素晴らしいです 毎週、確実に、もれることなく、 助け人を送ってくださっています やっぱりこのミニストリーは主のものであると ますます確信が与えられている今日この頃。 今日はそこでの学びを分かち合いたいと思います。 神が誓われた、という箇所なのですが、 その前に、、、 誓いとは何のためにするのでしょうか。 先生は結婚して48年ですが、結婚して間もなかった頃 よく奥様に聞かれたそうです。 「わたしのこと、愛してる?」って。 「愛してるよ。」って言っても、 「信じられない。」と答えが返ってきたそうです。 そして、毎日毎日、奥様が聞いてきたそうです。 それで、毎日毎日、愛してるよって だんな様は答えたそうです。 「ほんとに、愛してるんだよ~~~!!」って。 でも、それでも信じられなかったので 「神様に誓える?」と聞いてきたそうです。 すると、誓えるよと、愛を誓ったそうです。 すると、奥様はそれ以来、 彼の愛に安心するようになったそうです。 誓いの目的とは何でしょうか。 それは、約束であれば、 その約束を堅いものにするためです。 言葉であれば、 その言葉を確かなものにするためです。 そのために、誓うのです。 そのことを頭において 今日の聖句を見てみましょう 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。 それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨(いかり)の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。 新約聖書・ヘブル人への手紙 6:13-20 ここでは、神がアブラハムと結ばれた契約のことが 書かれています。 わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。 という約束を神様は誓わたとあります。 アブラ(ハ)ムと神との契約は、土地、子孫、 そして、あなたは私の民となり、私はあなたの神となる、 という神様との関係、この3つの祝福を 主は約束されました。 その約束を、アブラ(ハ)ムは信じました。 アブラハムが約束を信じたのに、 どうして、神様はその契約を わざわざ誓われたのでしょうか。 それは、旧約聖書の創世記に戻ります。 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」 旧約聖書 創世記 15:1-8 約束をアブラ(ハ)ムは信じたとありますが、 最後に書かれてある彼の言葉はこうです。 「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」 私達と同じように、 アブラ(ハ)ムは、疑いながら信じていました。 私達もそうではないでしょうか。 信じていながら、疑ってしまう時があります。 アブラムもまさにそうでした。 神は一切うそをつきません。 「こう」と言われれば、必ず、そうなるのです。 だから、神様が言われたら、 「いやでもね。。。」はないのです。 しかしアブラムは、「いや、でも。。。」 という疑いがあるのを主はご覧になられました。 すると、そのアブラムの疑いに対して、 神様は何をされたと思いますか? 見てみましょう。 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」 彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。 旧約聖書・創世記 15:9-17 ここでは、動物をほふる、 いけにえの儀式の話が出てきます。 この時代、契約を交わすとき、 動物を二つに切り、その2つに切られた体を 離して置きました。そして、その契約者は その2つに裂かれた動物の間を 歩いて通りました。 それは、何を現しているかというと、 「もし私がこの契約を破った場合、 この動物と同じ運命を受け取る。」 という意味がありました。 よって、契約に命をかけたということです。 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。 私たちの神は焼き尽くす火です。ヘブル 12:29 と書かれてあります。 聖書には、主は火として表現されることがあります。 モーセの見た火もそうでした。 ここで、主がアブラムの切った 契約の切り裂かれたものの間を 通られたのです。 自分がこの契約を破った場合 自分が同じ運命をたどると。 もちろん、神は契約を破りません。 でも、間を通って誓われたのは、 こういう理由でした。 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。 自分の約束の変わらないことを 契約の堅さをはっきりと示そうと思われ、 誓いをもってそのことを保証してくださったのです。 疑うアブラムにそこまでしてくださった主。 主を賛美せずにはいられませんでした。 それはまた私達が力強い励ましを受けるためであり、 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨(いかり)の役を果たすためであったのです。 この主が誓ってまではっきりと示してくださった希望は、 いかりとなって、私達を堅く立たせるのです。 Our covenant God is absolutely amazing. PS:クリスチャンは、アブラハムの子孫です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.06 18:44:39
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