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今までなんで気がつかなかったのでしょうか. 今の今まで!!遅すぎ...>< 私は自分の思う以上に,かなりの「日本人」なようです. アメリカでの神学校での学び,こんな小さなことを初めからわかっていれば, ちょっとは学びへの向き合い方,受け止め方が違っていたのではと思います. 日本での教育は,現在は変わりつつあるものの, みなさまのご存知の通り"What IS."を教えようとします. FACTを教えるのです.『答え』を渡すのです. ですので,日本の教育現場に行きますと ディスカッションはありません. レクチャーで先生が『答え』を一方的に一方通行に教え,生徒がノートを取る. 生徒は「答え」を受け取り,暗記する. テストではそれらの「What IS」を暗記する. そして,テストで覚えられただけの分の点を得ることができる. 1192つくろう鎌倉幕府. こんなんを暗記させたら日本人はピカイチです. だから,英語のグラマーも日本人はアメリカ人以上にできるのはそこでしょう. わたし自身の学びスタイルは,この教育スタイルにピッタリと当てはまる. そりゃそうだ.そのような教育を14年も受け続けてきたのだから. この日本の教育方法は,魚が欲しいという者に,魚を与えるやり方です. しかし,アメリカやオーストラリアは違う. 彼らの学ぶスタイルは,魚が欲しいという者には,『釣りの仕方を教える』方法である.「自 分で魚を得よ」である. もちろん,日本のやり方だと,いつも与えられなければ魚を手にすることができない.これでは,なかなか頭での自立は難しいかもしれない.自分で考えて自分で生み出すことをトレーニングされていないから. しかし,アメリカのやり方は,魚を欲しいときに自分で手にいれることができる『手段を教える』ようです.答えを与えるのではなく,答えを得るための手段をトレーニングするようです. ですので,彼らの教育は主にディスカッションです. 先生が「ほら,これが答えである.」と与えるのではなく,先生は疑問などを投げかけ 生徒達はそれぞれに考え,そして,自分の意見をしぼり出す. すると,やはり他の意見もあるわけで,自分の意見がそれによって研がれ 固まっていく...ようは,Critical Thinkingをトレーニングしようとする方法なのです. わたしは神学校に行って大混乱に陥ったのはここにあったと断言します. っていうか,気づくのがおそすぎ~~~>< 教授も誰も「答え」を与えてくれないのです.(;_;) 聖書を学びに行ったのに,「答え」がない... だれも「教えてくれない...」と感じてしまっていたのです. なぜなら,「こんな意見もあり,あんな意見もあり,こんな見方もあり,あんな見方もあるよ.」そして,わたしは聞く.「で,その答えは?」ない...がっびーーーん...(><) ギリシャ語など,科目によってはもちろん「これは,これ.あれは,あれ」と教えてくれるけど(こんなんは,やっぱ強い!!),神学とかって,これはこの人の意見で,あれは,あの人の意見で...みたいで私は正直戸惑った.そして,「では,Norikoの意見は?」と聞かれると...ない...「いやだから,その答えを学びに来たんですけど?なんで私にその答えを聞くんですか?」みたいな...^^; これは,もちろん子供の頃から聖書を学んでいる人達と比べると,私の聖書や神学に関する知識があまりにも未熟であるということもさながら,結局のところ,critical thinkingが非常に弱いという自分の『弱点』に到達する. ただ,「あぁ,教授は私が神学校から卒業したときに,自分で調べ,自分で考え,自分で魚を得ることができるようにその手段をトレーニングしておられるのだ」と考えればいいんやなぁと. 「だから,どないやねん!」という「答えを与えてもらおう」というちょっと甘えに似たアプローチではなく,自分が頭で自立し,自分でdiscover the Truthできるようにその手段を学び中なのだと思えば,自分の意見に対して,counter-evidenceを頭の中で考えたり,いろいろ自分で整理したりとすることを自ら進んで行なっていたのになぁと... 両方の教育方法には良い点も悪い点もある.だから,どっちが正しいというのではなく,自分のprogramすでにされてしまった弱点を知り,学びに向き合っていくことが,これからの大きな助けになればいいなぁと思う,今日この頃.とほほほほ... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.05 10:15:59
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