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クリスチャンだからといって,毎日がオー・ハッピー・デー!!なわけではありません.毎日がこの世的祝福に満たされ,大満足で簡単な人生が送れるというわけでもありません. 人生が苦しくなったとき,神さまをどのように知ればいいのでしょうか. 苦しい状況になったとき,「神は私を見放された」,そう考えるべきでしょうか. 苦しい状況になったとき,「やっぱり神はいない.助けてもくれない.」そう信仰をあきらめるべきでしょうか. このような感情に犯されたことのないクリスチャンは,珍しいと思います.大きかれ小さかれ,あるものです.人間ですもの. しかし,一般と違うのは,そんな中でも希望があるということです.普通は絶望に終わる状況でさえ,希望があるのです.苦悩と希望が共存する.痛みと喜びの共存はキリストにあって可能であるということです. その希望は,祈りを通して,また聖書を通して与えられます.なぜなら,聖書を読むことは真の主を知ることであり,自分の現状を人間的な小さな窓から見るのではなく,神様の目線から見ることができるようになるヒントが与えられるからです.主のご性質,真実,御心は聖書に現されているからです. イスラエルの民はエジプトの地で奴隷でした.彼らの苦しみの嘆きを聞かれた主は,彼らに約束を再確認します.「私が蜜とミルクのあふれる地をあなたがたに与えよう.」(約束の地は今でいうイスラエルの国です.)そして主は,彼らをみごとにエジプトから脱出させ,その約束の地へと導き始めました.(詳しくは,旧約聖書の創世記,それに続いて出エジプト記をお読み下さい.) どうでしょうか.自分がこの導き出された民の一員だったとすると,どうでしょうか. 喜び踊るでしょう.奴隷ではなく,主が自由の身にしてくださったのです.そして与えてくださるという素晴らしい地に旅立つのです. しかしです. 現実は,日々荒野を歩きます.1年,2年,3年とその旅路は『荒野』なのです.そしてしまいには食べ物がなくなります.お腹がすいてペコペコです.「神さまは本当に私を導いておられるのだろうか!!どうして約束の地へ導いてくださると言ったのに,なんでこんなに苦しい思いをするのか!これならば,奴隷としてエジプトとして死んだほうがましだった!!」神に裏切られたかのような状況が目の前に広がったのです. すると,神は彼らの嘆きを聞かれ,うずらを宿営地に覆わせ,肉を食べさせました.そして,マナという新しい食物を日々その日からお与えになりました. 今度は,水がなくなりました.また苦情を言う民.「こんなんだったら,エジプトで死んだほうがましだった!!」あれだけ「エジプトから出たい.奴隷は嫌だ!苦しすぎる!」と嘆いていたのにです. すると,主は,リーダーであるモーセに語った. 「民の前を通り,イスラエルの長老たちを幾人か連れ,あなたがナイルを打ったあの杖を手にとって出て行け.さあ,わたしはあそこのホレブの岩の上で,あなたの前に立とう.あなたがその岩を打つと,岩から水が出る.民はそれを飲もう.」 旧約聖書 出エジプト記 17:5-6 岩から出た水によって,民ののどはうるおいました. それでもイスラエル人は「主は私たちの中におられるのか,おられないのか.」と言って,主を試みたのです.(出エジプト 17:7) 私たちの人生も,今現在,荒野を旅しているのではないでしょうか. 神さまが,「約束の地」(天国)へ導こうとしてくださっているその旅路なのではないでしょうか. 食べ物がなくなり,お腹がすく.水がなくなり,喉が渇く.そのことで心も乾く.不景気もあって,「乾く」旅路を歩むことがあるのではないでしょうか. そして,「神はいるのか!いないのか!」と嘆きたくなるときもある. しかし,真実は,その答えは,聖書から分かるように,どんなに苦しいときも神はずっと彼らと共におられたのです. 哀れみ深く,恵み深い主は,その時その時に必要なものを与え,恵みを降り注いでくださっていることが聖書を見て分かります. 「神はいるのか!いないのか!」は,彼らの感情にすぎなかったのです.どう感じたか,であり,真実ではなかったのです.なぜなら,神は実際ず~~~~っと彼らと一緒だったのです.ひと時も,彼らから目を離さず,ずっと守っておられたのです.真実ではなく自分で神を「感じなかった」その自分の日々かわる「感情」を信じたのです. 私たちも「神はいるのか!」と感じるとき,それは,感情にすぎない.感情は日々変わります.右へ左へ,波のようです.感情は当てにはなりません.聖書からも分かるように,神はずっと私たちと共にいるということが聖書を通して分かります.そう「感じない」時でさえ.神様は信じるものを見捨てず,決して離れないと約束してくださってもいるからです.(新約聖書 へブル人への手紙 13:5) 荒野でも主はそうでした. 主は,昼は,途上の彼らを導くため,雲の柱の中に,夜は,彼らを照らすため,火の柱の中にいて,彼らの前を進まれた.彼らが昼も夜も進んで行くためであった.昼はこの雲の柱,夜はこの火の柱が民の前から離れなかった. 旧約聖書 出エジプト記 13:21-22 結局のところ,神さまは約束を成就されました.荒野の40年という旅を通して,約束の地をイスラエルの民に与えたのです. 苦しみの中,そのように与え,恵みを現すことによって「私が主である」ということを彼らに教え,体験させたのです. ですので,人生が苦しみでいっぱいになるとき,荒野をさまようとき,恐れなくていいのです.そんな中でも主は約束してくださっています.「わたしの恵みは,あなたに十分である」(新約聖書 コリント人への手紙 第二 12:9)と. ですので,「そう感じない...」という自分の感情を信じるのではなく,確かな聖書に残された神様の約束を信じましょう. 主の名を呼び求める者は,だれでも救われる. 新約聖書 ローマ人への手紙 10:13 主ご自身があなたの先に進まれる. 主があなたとともにおられる. 主はあなたを見放さず,あなたを見捨てない. 恐れてはならない. おののいてはならない. 旧約聖書 申命記 31:8 あなたは知らないのか.聞いていないのか. 主は永遠の神,地の果てまで創造された方. 疲れることなく,たゆむことなく, その英知は測り知れない. 疲れた者には力を与え, 精力のない者には活気をつける. 若者も疲れ,たゆみ, 若い男もつまずき倒れる. しかし... 主を待ち望む者は新しく力を得, 鷲のように翼をかって上ることができる. 走ってもたゆまず,歩いても疲れない. 旧約聖書 イザヤ書 40:28-31 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.09 12:44:41
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