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周りの人の自分に対する態度や,評価や,好き嫌いや,周りの人だけでなく,自分を取り巻く状況...そこに自分の本当の価値はない. たとえ振られても,その好きな人に嫌われても,その相手の判断の中に自分の真の価値はない. 仕事を首になっても,その状況の中に自分の価値はない. 「自分」というものは,それらの中にはない. 普通は自分を卑下してしまう.しかしそれは,人の態度,評価,状況,そのような中から自分を探そうとするから.そのような中から自分が誰かということを判断しようとするから. 私たちの本当の揺らがない価値,人の意見や状況に左右されることのない確固とした自分は,どこに根ざされているのか. 聖書を読むと,キリストは,人々から文句を言われ,さげすまれ,つばをかけられ,たたかれ,嫌われ,虐待され,苦情を言われ...それはそれは,ひどい行いを生涯受け続けていた.キリストに従う者よりも,キリストを嫌い,キリストを馬鹿にし,足で砂を蹴って彼に埃をかける.そんな人のほうがはるかに多かった. しかし... キリストは自分のことを一度たりとも卑下していない. キリストは,自分のことを一度たりとも「ダメだ...」と語っていない. キリストは,一度たりともlow self-esteemにならなかったのだ. なぜか. それは,人や,人の評判や評価や,つらい状況や,そんなところに自分の真の価値は存在しないと知っていたから. なぜなら,キリストは,御父からの自分に対する完全なる愛を知り,その愛の中で自分は生かされ,御父との愛の関係の中に自分の本当の価値を見ていたから. 私たちもそうなのです. 人の中に価値を見い出そうとするものは,人に依存します. 日々生きる中で,自分は自分の価値をどこに置いているか,確認して生きていきたい.自分の「成功」に自分の価値を置いていないか,「人」に価値を見つけようとするから,人を喜ばせようとすることに必死になっていないか. 私たちは,御父が私たちを愛するがゆえに,私たちがまだ罪人であったときにこの世に御子であるキリストを送り,キリストを私たちを救うがゆえに犠牲にし,私たちの罪をその罪のないキリストの体に負わせ,十字架に架け,私たちの罪の罰である死を,キリストが身代わりになって受けて,死んでくださった. そして,死から三日後,御父はその力によりキリストを死からよみがえらせた.それは,私たちへ救いの手を差し出す神さまの愛の現れ.人と神が罪によって隔たれた関係を和解するため,神が和解の道(キリスト)を自ら与えてくださった.それは私たちを買い戻すため.神であるのに自分が自ら死に,私たちを生かすため. それほど,私たちは神さまに愛されている.それほど,価値のある者とされている.自分の愛する御子であるキリストを捧げるほどに,私たちを愛されている神さま.あなたは高価で尊いと,神さまは聖書の中に私たちのことを語られているのです. そこに,私たちの真の価値があるのです. だから,古い生き方,古い人生から神の前にへりくだって悔い改め,「あなたを新しくしよう!」と言ってくださる愛の神さまを信じて,その福音を日々あおぎ見て,そこに日々自分のIDENTITYを見い出して生きる.たとえ人生が同じ状況にあったとしても,心は主にある喜びと平安で満たされる.そんな人生を送ってみたいと思いませんか?詳しくは,HOMEの右,フリーページのキリスト教プチレッスンをご覧下さい.m(_ _)m 父がわたしを愛されたように,わたしもあなたがたを愛しました.わたしの愛の中にとどまりなさい. もし,あなたがたがわたしの戒めを守るなら,あなたがたはわたしの愛にとどまるのです.それは,わたしがわたしの父の戒めを守って,わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです. わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは,わたしの喜びがあなたのうちにあり,あなたがたの喜びが満たされるためです. わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合うこと,これがわたしの戒めです. 人がその友のためにいのちを捨てるという,これよりも大きな愛はだれも持っていません. キリストの言葉:新約聖書 ヨハネの福音書 15:9-13 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.13 09:42:01
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