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私は神様の前に罪を犯しました。 心が折れて砕かれ、心が引き裂かれ、 自分の犯した罪を覚えて 悲しみに打ちひしがれていました。 自分はもう、聖書のことを教えない、 教えることはできないと考えていました。 心が悲しみと苦しみで満たされていたとき、 神様は、私に親友と電話で話す機会を与えてくれました。 1時間ぐらい話したでしょうか。 何年ぶりだろう。。。 やっぱり親友とはすごいものです。 私が反クリスチャンであったときから 私を知っている彼女。 どれだけ時が二人を分けていたとしても 一瞬にしていつもの関係に戻る。 彼女と話していると、話の流れでなんとなく 誰にも口にしなかった、自分の罪を告白していました。 苦しくて仕方がないと。。。 神様に罪を告白し、 罪にかかわった人々にも、 自分の罪を告白すると彼女に言いました。 ごまかして生きるより、 人々からどう思われても、神の前に正しくありたいと。。。 そして、自分の教会の牧師にも 本当の私の姿を知ってもらおうと思い、 罪を告白しました。 するとです。 私の罪を知った人々の中で、 2つのグループに分かれました。 グループAの人々は、私を見下げました。 そして、離れようとします。 そして、私の罪を周りに言い広げます。 ものすごくがっかりしたのでしょう。 自分と同じように私を見下げる仲間がほしいのでしょう。 グループBの人々は逆でした。 グループBの私の親友は、 電話越しにこう言ってくれたのです。 『Nori、私はNoriはやっぱりすごくいい人だと思う。 私はNoriのことを心から尊敬する。』 初め私は耳を疑いました。 尊敬に値しない、罪深い自分を知っているからです。 すると、親友はこう続けました。 『Noriがやったことは、悪いことやった。 だけどね、Nori。 本当に悪い人はね、そういうことをしても のうのうと生きていけるねん。 Noriが心を痛めていることこそが、 Noriの内に神様がいてくれている証拠やで。 私はそんなNoriを心から尊敬するわ。』 罪の生み出す結果がどうであれ、 罪の告白が正しいことであるから、 この世では人生遠回りになるかもしれないけど それでいいやないか、という話になりました。 心から泣き崩れ、親友の愛に私は癒されました。 教会の牧師先生も、グループBでした。 それでも、それでも、 神様は私を用いてくださると、信じ、 そう祈ってくれました。 こんなにダメ人間な私なのにです。 私は、二つのグループについて、 ずっと考えていました。 どうして、こうも違うのだろう。 グループAと、グループB... そして、あぁぁぁぁ!そっかぁ~~! と気づいたのです。 それは、グループAの人々は、 私の行いを愛していた人々なのです。 私が神学生で、リーダーをして、と、 私の「やっていること」をただ愛していた人なのです。 だから、私が悪いパフォーマンスをしたら 愛が冷めるとでもいいましょうか。 でも、わかったことは、グループBの人々は、 「私を」愛してくれている人々です。 私という人を、Norikoを!!愛してくれているのです。 この差、うまく説明できませんが、 分かりますでしょうか。 なるほど!と私はすごく納得したのですが(^^;) だから、グループAの人が私を見下げても 別にかまいませんでした。 ただ私の行いを愛していたのですから、 そりゃ仕方ないです。 でも、グループBの人々が私の人生にいることに 心から神様に感謝を捧げました。 そして、神様の愛は、 グループAではなく、グループBの愛であると 知ったのです。 神の愛を、深く味わったのです。 神は私の行いを愛しているのではなく、 私という存在そのものを、愛してくださっている。 親友が言ってくれたように、 私の罪はダメだけれど、 それでも私に対する愛は変わらないのです。 増えも減りもしない。 同じ愛で、主は愛してくださっていると知りました。 この愛は、自由を与えます。 愛されようとしなくていい。 どんなにつまづいても、愛し、励まし、 主がへりくだって、死んでくださったからこそ 私を下からぐっと上へと引き上げてくださる。 そんな大きな愛があると、 何も恐れず、自由に生きていくことができる。 するとです。 今度は、自分が神様のことを グループAの愛で愛していたと 悟らせてくださいました。 そっか!!! あれをしてくれたら神様を愛し、 あれをしてくれないから、神様を愛さない。 これは、本当の愛ではありません。 神様がどんなことをなさったとしても、 神を愛する。 これが、本当に、神を愛していることなのだと。 すると、旧約聖書に出てくるヨブのことを思い出しました。 ヨブは、、、本当に神様を愛していたんだと。。。 グループBの無条件の愛でもって、 主を愛していたのだと。。。 私も無条件の愛で主を愛したい。 そう祈っています。 愛は選択です。 そう主を愛したい。 だって、無条件の愛で、 主は私を愛してくださっているから。 心が痛んだのも、神様の愛のゆえ。 主が義でいてくださったことに感謝しました。 私から罪を取り除くための洗浄、清めのためでした。 主のなさることはすべて、 時にかなって美しい。 神様だけでなく、周りにいる人たちへの愛も グループAの条件付きの愛ではなく、 無条件の愛で愛していくことができますように。。。 主よ、あなたの愛を私にお与えください。 アーメン。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 新約聖書 ローマ人への手紙 5:8 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。 この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。 新約聖書 ヨハネの手紙 第一 1:9、2:1-2 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 新約聖書 ローマ人への手紙 8:38-39 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.02.01 11:18:15
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