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経済状況が悪い中で
大きな不安と試練の中で 戦いながら歩んでいる方が 多いのではないでしょうか。 子供のころから塾に通い、 「有名大学を出ていれば大丈夫!」 とばかりに遊ぶ時間を惜しんで 一生懸命勉強してきたのに 今は、 良い大学=良い雇用の保障にはならないという 大変苦しい時代になってしまいました。 今日は、聖書から、 試練と誘惑について考えてみたいと思います。 まず、試練について見てみましょう。 私の兄弟たち。 さまざまな試練に会うときは それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると 忍耐が生じるということを あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。 そうすれば、あなたがたは、 何一つ欠けたところのない 成長を遂げた、完全な者になります。 新約聖書 ヤコブの手紙 1:2-4 数週間前に、 この試練について書かせていただきました。 今日は、その続きの「誘惑」について見てみたいと思います。 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 新約聖書 ヤコブの手紙 1:13 さまざまな試練があったように さまざまな誘惑があります。 誘惑と言えば、性的な誘惑が日本では莫大です。 アメリカでは、日本といえば「ポルノ」 と言われる時代になってしまったほどです。 よって、そのような性的「誘惑」もあれば、 「食べ物」への誘惑もあります。 「怒り」を自分の中で好き放題遊ばせる 「怒り」への誘惑もあります。 「プライド」という誘惑もあれば 「だらしなさ」という誘惑もあります。 聖書は、だれでも誘惑に会ったとき と書いてありました。 「もしも」誘惑に会ったときではありません。 ここから、生きている限り人は100% なんらかの誘惑に会うことが分かります。 なんと、イエス・キリストでさえも 誘惑をお受けになられたのです。 しかし、キリストは罪を犯さなかった。 誘惑に負けることなく勝ったのです。 よって、「誘惑を受ける」こと自体は、 罪ではありません。 だから、「誘惑されている! なんて弱い、情けない自分なんだ!」 と自分を責める必要はありません。 だれだって、誘惑を受けるからです。 しかし、だれでも誘惑に会ったとき 神によって誘惑された と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり ご自分で誰を誘惑なさることもありません。 しかし、誘惑を受けるとき、 その誘惑がどこから来ているかを知るべきです。 それは、神からは来ていないと断言できます。 どんな誘惑にも、神は一切絡んでいません。 上の聖句にある通りです。 ここでおもしろいのが、 先程の「試練」と「誘惑」ですが 新約聖書の原語ギリシャ語では 同じ言葉を使っているのです。(Peirazo) 日本語訳の段階で同じ言葉ですが 試練と誘惑に分けているのですね。 では、試練と誘惑の大きな違いとは? 試練は、私たちを強めます。私たちを成長させます。 試練は、私たちを神に近づけます。 誘惑は、私たちを弱めます。私たちを滅ぼします。 誘惑は、私たちを神から遠ざけます。 試練の対処法は、忍耐です。 誘惑の対処法は、誘惑から「逃げる」ことです。誘惑の場でじっと耐えたり忍耐することではありません。その場から「逃げる」!!これが、誘惑への対処法です。 神は、私たちに時に試練を送られます。その理由は上にあるとおりです。神は、私たちに誘惑を送ることは断じてありません。理由は、下にあるとおりです。 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。 新約聖書 ヤコブの手紙 1:14-16 目から心に入ってくる誘惑から逃げることをせず、 誘惑を心の中で育てると、罪を犯します。 行動に出るのです。 そして、罪は、一時的な欲求を満たします。 しかし、そのあと、すぐに死がやってきます。 体が死ぬ、というだけの意味ではありません。 もちろん、罪のゆえに体は死にます。 しかし、心も、人生にも 罪は死を招くのです。 だから、一時的な「誘惑」にあっても 「だまされてはいけません。」と聖書は教えているのです。 罪は、一時的な喜びだけでそのあとは あなたを弱め、あなたを滅ぼし、あなたを殺す。 だから、だまされてはいけません。 罪は、死を生むのです、とヤコブは教えています。 しかし、その教えのあとすぐに、まったく話題が変わったかのような内容が聖書に書かれています。 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。 ヤコブの手紙 1:17 誘惑のことを話しているのに、突然どうしたのでしょうか。 人生で良いものはすべて、神様から来ているんだよ、人生であなたにとって良いものはすべて、神様から来るんだよ、と教えています。 アメリカの牧師先生は、こう教えてくださいました。 私たちが誘惑を受けて、誘惑から逃げるのではなく 罪を「選ぶ」のはなぜか。 それは、その誘惑を受けている部分において 「神様はその部分を祝福してくださるだろう!」 と神様のすばらしさを信じていないからであると。 その通りだと思います。 神様が絶対にこの部分も祝福してくださる!と信じていれば 誘惑に落ちないのではないでしょうか。 しかし、なぜ落ちるのか。 それは、エバを見れば良く分かります。 サタン(悪魔)がエバにしたことは、 「ほら、こんなにいいものを神様はあなたに与えないんだよ。」 と、神様の「素晴らしさ」を疑わせたのです。 そしたらエバは「そうか、神様は与えてくれない。 では、自分でなんとかしなければ」と罪を犯したのです。 私自身もそうでした。誘惑に負けた部分は、 私が一番神様の良さを信じるのが難しい部分でした。 「ここは祝福してくださらないだろう。。。」と。 でも、そうではない!だまされてはいけない! とヤコブは教えているのです。 すべての良い賜物は、神様が与えてくださるんだよ! 神様を信じなさい!!だまされてはいけません!!!と。 しかしもし、騙されてもうでに罪を犯してしまい どん底にある場合。すでにやってしまった場合、 どうすればいいのでしょうか。 回復は、可能です。 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 新約聖書 ヨハネの手紙 第一 1:9 神様の前にひざまつき、罪を告白してください。 神様は、その罪を赦し、悪から清めてくださいます。 罪は、死をもたらしますが、 ごまかして、うまく隠していたら あなたの中で罪は死にません。 罪はあなたの中で育ち、あなたを弱め、 あなたを苦しめ、滅ぼし、殺します。 罪があれば、神に告白してください。 神はそこからあなたを解放するために こうすすめておられるのです。 神は、罪の性質をご存知だからです。 自分が誘惑に会ったとき、 誘惑に会ったことで自分を責めません。 イエスも誘惑にあったことを覚えましょう。 自分が誘惑に会ったとき、 神から来ていないことを覚えましょう。 自分が誘惑に会ったとき、 自分を滅ぼすため、死を招くためであるという その誘惑の目的を覚えて即座に逃げましょう。 自分が誘惑に負けたとき、 ごまかそうとせず、かくそうとせず、 そのままの罪を神に正直に告白しましょう。 神は、すべての不義からあなたを清めてくださいます。 愛する兄弟たち。 だまされないようにしなさい。 新約聖書 ヤコブの手紙 1:16 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.03.31 01:18:59
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