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やはりそうですよね。
こわかったんですよね、戦国時代のトップたちは。 クリスチャンが。 自分の言うことを聞かないしね。 信念があるので。。。 その一発目の「ヤバイ」を感じてその自分の脅威に対して守りの行動に出たのが豊臣秀吉です。 キリスト教を禁止するほどに、日本人がクリスチャンになっていたんです。当時。戦国時代に。 今みたいに1%そこらでは、国は動きません。 なんてことのないことです。 ご自由にどうぞ、ってなもんです。 しかし、キリシタン大名が20人を超えてきて、 その家族、家来の武士たち、平民、そこらへんの人全部がキリシタンになり洗礼を受け、寺がどんどん教会化していき、布教活動も勢いを増していくとビビったんだと思います。 『秀吉はかねてから右近(キリシタン大名の高山右近)をはじめキリシタンの信者たちが信仰の面では彼の権力に及ばないところにあることを知っていた。 彼らにとってキリシタンの神への奉仕は封建的な主従関係優先するものだった。 京都の大徳寺で秀吉が信長の法要を行った時、右近はそれが偶像礼拝に連なるものとして焼香することを拒んだ。たとえ秀吉が命じても右近はそれに従わなかったであろう。 秀吉はまた信者たちが神父たちを尊敬し、信仰の上では、独裁者である彼の手の届かないところで神父たちの意のままに行動していることを十分承知していた。 そして九州に来てはじめてポルトガル人に接したのが、そのポルトガル人たちが神父に対して格別の敬意を示していることを知り、またポルトガル船が、小型のフスタ船でも強力な戦闘力を備えていることを知った。 しかもそのポルトガル船の入港する長崎は教会領として政治の圏外に独立した都市になっている。 将来もし教会がキリシタン大名たちに働きかけてその勢力を結集しさらにポルトガル人を動員してこれを支援させるならば、信長を悩ました石山本願寺以上に強大な政治権力を築き上げることができるにちがいない。 このような疑惑と危惧が蓄積され構成されて高まっていた不安の念が、施薬院をはじめ側近の重臣らの、右近打倒のための中傷や非難によって誘発され、一挙に爆発するに至ったのであろう。』 178頁 キリシタン大名 岡田章雄 そこに至るには布教活動に全力で取り組んだ当時のイエズス会(カトリック教会)の努力のみならず、キリストの救いを心から信じたクリスチャンが多く誕生し、洗礼を受け、またその救いのメッセージである福音、ゴスペルを、家族や友人、家来に勧めたことが広がるきっかけとなったと思われます。 もともとキリシタン大名たちは『それぞれ仏教の信仰をもってはいたが、仏教はただ伝統の上にその抽象的な教義を展開するだけで、彼らの心の支えにはならなかった。』90頁 しかし、具体的に創造主である神様と直接的につながることができる道を開いてくれたイエス・キリストへの信仰は、生死を日々意識していた不安定な時代の人々、また海外の新しい風に魅力が重なって、どんどん憧れの念を含めてキリシタン大名が増えていったと思われる。 それを恐れた秀吉は、そのあと26人のキリシタンを長崎で処刑する。迫害がスタートした。 その後、江戸時代、ことに徳川家康の時代を境にキリシタンへの迫害はますます力を増し、日本国から1人もキリシタンを出さない、いれば皆殺しにする、ということで、キリスト教を根っこから切り捨てる活動に出た。そして、それが永続的に続くように、という方法であったがゆえに、今現在も日本ではキリスト教が広がりにくい文化となっているのである。 しかし、文化の壁など神様にはなんてことないことではある。一番の成長していない原因は、ここからは持論であるが、日本人のクリスチャンが周りに口を閉ざしているからと断言して言える。自分がクリスチャンであることを隠している日本人クリスチャンも非常に多い。それは、自信がないことと、聖書をしらないことによる。弟子訓練がされていないということである。日本人のクリスチャンに神様のすばらしさを教える、伝えると、おいしいレストランに出会ったら周りに伝えずにはいられないように、伝えはじめる。知らないから、伝えられないのだ。神様が外国人宣教師を日本にたくさん送るよりも、日本人のクリスチャンが真の神を知り、出会い、神様の愛に感動して周りに強制ではなく話したりすすめたり愛したりする、それだけで、たったそれだけで、私は確実に日本は生まれ変わる、と信じてやまない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.08.01 14:24:02
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