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カテゴリ:神様のこと 聖書のこと
最近久しぶりにヨシュア記を読みました。 旧約聖書のヨシュア記です。知っている内容のはずなのですが、 読み返すと新しいことを主が いろいろと見せてくださいます。 読んではとまり、考えて 読んではとまり、 読んだことを思い返して を繰り返しておりました。 信仰について、 考えさせられました。 他にも神様の法則というか、 いろんなことを神様に教えてもらって めっちゃ恵まれました。 それで、ちょっと今日はヨシュア記から。 いよいよイスラエルの民が エジプトの奴隷生活から脱出をして 海がドバーっと分かれて逃げ切って 神様のおっしゃる「約束の地」に向けて 旅をしているのですが いよいよ、いよいよ、 約束の地が目の前に来ました。 ここまでたしか11日くらいで来れるのに 荒野の旅は40年もかかりました。 不信仰だと同じ山の周りをグルングルンまわっちゃうんですよね。っていうのはまた別のレッスンになりますので、話は戻ります ヨシュア記 3:1-17 ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。 三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、 民に命じた。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。 契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」 ヨシュアは民に言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」 ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。 主はヨシュアに言われた。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」 ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、こう言った。 「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。 今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」 ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。 春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、 箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。 主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。 長いですが、ヨシュア記3章すべてをお読みいただきました。 この話をスルっと読んでみて、いかがでしたでしょうか。 モーセを通して神が海を分けて乾いた地をイスラエルの民が歩いたというのは記憶に新しいころです。出エジプト記ですね。 それと似たようなことが、ここヨルダン川で起こっています。 この時は、季節柄、川の水量がものすごいことになっていて、水があふれそうになっているということが分かります。 もう少し、想像してみてください。 今自分の目の前に濁流の川があります。 ものすごい量の水が、ものすごい勢いで、目の前を流れています。 あなたは、神輿のようなものを担いでいます。 あなたは、その足を、この勢いのある川の中に入れることができますか? ツルッと滑って流されてということは安易に想像がつきます。 しかし、このお話を見てみると、どうでしょうか。 ポイントはですね、いつ、水がストップしたか、なんです。 いつ、川の流れがストップして、水が壁のようになった、と書かれていましたでしょうか。 自分で戻って読んでみてください。 箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。 重要なポイントですね。 水際まで来たら、水の流れが止まった、のではないのです。 この濁流の水に足を入れたとき、足を入れてから、自分の足を濁流に入れた後に!!水が止まったんです。 これは、信仰の大きな一歩です。 信仰とは、『ほら、このムコウに行くのだけれども、そこの水辺に着いたら、水を分けてあげるから、それで地が目の前で乾いてたら、歩いて渡りなさいね』ではないのです。 それでは、信仰がいりません。 神様のおっしゃる信仰とは? 第一歩、この祭司たちが川に足を踏み入れた瞬間、濁流でまさか水が止まるなんてありえないけれども、神様の御言葉を信じて、神様を信じて、ものすごい流れの川の水に足を一歩踏み入れた。 そうすると!!川の水が壁のようになり、乾いた地を渡ることができました。 これって、私たちも同じだと思うのですね。 主を信じて自分にできる範囲で主に従うと 主が!自分にはできないことを成し遂げてくださいます 私の留学物語を見て、「すごいなー!」って思ってくださる人はたっくさんおられると思います。 それはまるで、川の水が壁となり、イスラエルの民がその乾いた地を歩いて渡った、ような感じです。 見ているだけならば、 へーそんなすごいことがあるんだーーって、自分では体験できません。 ですがもし、あなたが、私もNorikoさんみたいな神様との人生を歩みたい!と思うのであれば、そう願うのであれば、水際で見ているだけでは何も起こりませんよ、ということです。 神様は、いつも招いておられます。 こちらです、と言っておられます。 その濁流の川への第一歩をあなたは、その足を浸しますか? 神様を信じて、神様に応答しますか? 神様に応答しなければ、 自分のものにはなりません。 いつまでも、他人事、 遠くから見るのみ。 しかし! あなたも、 ヨルダン川を渡ることができます。 神様は愛ですから、強制はしません。 あなたが望むか、望まないか、です。 信じるその第一歩とは、イエス様に自分の神様になってほしいって祈ることかもしれません。 私を救ってください、信じる心を与えてください!って神様に祈ることかもしれません。 教会に行ってみること、かもしれないし、 聖書を買って、自分で読んでみることかもしれません。 私がお伝えできることは、 足を川に浸した、一歩濁流の川に自分が行動して、信じて一歩踏み出してから、水が止まった、ということです。 きっと、きっとですが、あのとき祭司が信じることができず、水にビビってしまってただ、水辺で見ているだけなら、イスラエルの民に奇跡は起こらなかったと思います。 神様は、いつもそうだな~って私も思います。 信仰には必ず、行いが伴うのです。 信じるという第一歩、踏み出してみませんか。 そうすると、あなたの人生でも、その踏み出した瞬間に目の前に道が開けますよ。 そして、乾いた地を歩いて、約束の地へと渡ることができるのです。 見学者では終わらずに、どうぞ、神様を体験する人生、始めてみてくださいね。 『イエス様、まだよくわからないけど あなたのことを神様だって信じます。 私の不信仰を助けてください。 イエス様が十字架で死んでくれたから、 私の罪が赦されることもありがとうございます。 信仰の第一歩を今、踏み出します。 私を新しい道へと導いてください。 イエス様の御名によって、お祈りします。アーメン』 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない」と言っている。 ローマ人への手紙 10:11 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 ローマ人への手紙 10:13 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.04.05 16:31:55
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