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Happy Noriko

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2017.04.05
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今回のお話はクリスチャンになる方法の続きでもありますが、偶像についても書いてみたいと思います。

まずは、短いのでゆっくりと聖書をお読みください。
この前の続き、ヨルダン川を渡った話が3章で
今日は、イスラエルの民が
ヨルダン川を渡った後の第4章です。


民が皆、ヨルダンを渡り終った時、主はヨシュアに言われた、 

 「民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、 

 彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』」。 

 そこでヨシュアはイスラエルの人々のうちから、部族ごとに、ひとりずつ、かねて定めておいた十二人の者を召し寄せ、 

 ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたの神、主の契約の箱の前に立って行き、ヨルダンの中に進み入り、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、おのおの石一つを取り上げ、肩にのせて運びなさい。 

 これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならば、 

 その時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。 

 イスラエルの人々はヨシュアが命じたようにし、主がヨシュアに言われたように、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、ヨルダンの中から十二の石を取り、それを携えて渡り、彼らの宿る場所へ行って、そこにすえた。 

 ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。 

 箱をかく祭司たちは、主がヨシュアに命じて、民に告げさせられた事が、すべて行われてしまうまで、ヨルダンの中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。民は急いで渡った。 

 民がみな渡り終った時、主の箱と祭司たちとは、民の見る前で渡った。 

 ルベンの子孫とガドの子孫、およびマナセの部族の半ばは、モーセが彼らに命じていたように武装して、イスラエルの人々に先立って渡り、 

 戦いのために武装したおおよそ四万の者が戦うため、主の前に渡って、エリコの平野に着いた。 

 この日、主はイスラエルのすべての人の前にヨシュアを尊い者とされたので、彼らはみなモーセを敬ったように、ヨシュアを一生のあいだ敬った。 

 主はヨシュアに言われた、 

 「あかしの箱をかく祭司たちに命じて、ヨルダンから上がってこさせなさい」。 

 ヨシュアは祭司たちに命じて言った、「ヨルダンから上がってきなさい」。 

 主の契約の箱をかく祭司たちはヨルダンの中から上がってきたが、祭司たちの足の裏がかわいた地にあがると同時に、ヨルダンの水はもとの所に流れかえって、以前のように、その岸にことごとくあふれた。 

 民は正月の十日に、ヨルダンから上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。 

 そしてヨシュアは、人々がヨルダンから取ってきた十二の石をギルガルに立て、 

イスラエルの人々に言った、「後の日にあなたがたの子どもたちが、その父に『これらの石は、どうしたわけですか』とたずねたならば、 

 『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。 

すなわちあなたがたの神、主はヨルダンの水を、あなたがたのために干しからして、あなたがたを渡らせてくださった。それはあたかも、あなたがたの神、主が、われわれのために紅海を干しからして、われわれを渡らせてくださったのと同じである。 

このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」。



まぁなんと、説明がいらないですよね。
読んだまんまです。


昔、私の父が言いました。


「Norikoの教会は、本物なんか?」


「本物やで。なんで、偽物に見えた??」


「だって、何もないやないか、教会に」

「教会になにがあるん?」

「絵とか、マリア像とかないやないか」

あー、カトリック教会のこと言ってる・・・

私がまだクリスチャンになりたての頃でした。

私は、その時はまだ信仰的に若かったので

ああいうカトリック教会の石像も

良くないと思っていたんですね。

だから、批判的なことを父に言った覚えがあります。

「だってね、見て、聖書にはこう書いてあるねん、パパ」


「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 

それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。 


聖書にはこう書いてあるやん?
偶像はよくないねん。
だから、別になくても本当の教会やで。


父は最近話してくれたことがあって、
実は私の祖父が亡くなる前
聖書を読んでいたらしいのです。


そして、父の父は警察官で非常に厳しく
心を開いて話すような人ではなかった。


しかし、夜とか、
祖父はずっと聖書を読んでいた。


そして、これだけは読め、
と父にも話していたそうです。


クリスチャンだとかは一切言わなかったが
祖母がやっていた小さなパン屋さんがあり、
そこで雇うのは、カトリックのシスターのみだったそうです。


だから、家に帰ったら
なぜかシスターが何人もいたと


なんということでしょうか。


それで、祖父が秘密で訪れていた
カトリック教会にも父が足を運んだこともあり
きっとそこで、マリア像とか
イエスキリストの十字架の像とかを見たのでしょう。


だから、父の中ではそれが教会であり、
あまりにもすっきりとしたプロテスタント教会では
何かが違うぞ、と感じたのでしょう。


今の私はどう思っているのか。


それは今読んでいただいた聖書にある通りでございます。


まずポイントとしては、
十戒の方がヨシュア記よりも先に書かれています。



あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 

それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。


と書かれた後に、神様はこう命じておられます。


民が皆、ヨルダンを渡り終った時、主はヨシュアに言われた、 

 「民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、 

 彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』」。 


自分たちが今渡ってきた川の中から石を12部族ごとに各1つ取ってきて、それを宿る場所に据えなさいと。


それは、見られるためが目的、であるから、石像になりますでしょうか。


その石を見たとき、心の矢印がどちらに向くかということが大切ですよね。


偶像を拝んではならない、ひれ伏してはならない。


それって、その偶像自体を神様に仕立てていますから、神ではないものを神とする、ことで偶像になります。これを神様は禁じておられます。


カトリック教会でも残念ながら、マリア像を神として拝んだりする人はいます。ですが、それは歪んだ理解をしている人がいるだけで、カトリック教会が悪いわけではありません。


私がバチカン市国を訪れたとき、自分の信仰が非常に緩かったのですが、数多くの石像や絵画、美術品を見ました。


もちろんそれらの前にお金を置いたり、花を置いたりしている人はたっくさんいました。


しかしですね、それらの美術品を見たときに、私は神様を思い出したんです。


あ、パウロだ、あ、ペテロだ、あ、イエス様だ、あ、そうだ、あの聖書の話だ、あ、神様って、すごいな~~クリスチャンってめっちゃかっこいいな~


それだけではありません。


前に地元で行っていた教会で、ある女性の話を直接聞きました。


大学の卒業旅行でバチカンを訪れたのだそうです。


そして、もちろん彼女も石像や、建造物、絵画に感動したらしいのです。


しかし、彼女は感動だけにはとどまりませんでした。


なんと、本当に驚きなのですが、


絵画を見ただけで、イエス様が自分のために死んでくれたこと


聖書の話が描かれているのを見て、理解し、


キリストを信じたのだそうです。


説明する人はいなかったけれども


絵を見て理解し、


すぐに自分の理解が正しいかを確認するため


帰国して教会に飛び込んだそうです。


そこで聖書を通して話を聞いたとき


自分の見て感じたことと一致したため


すぐに信じて洗礼を受けたそうです。


ほんの数百年前、


一般の人の手に聖書はありませんでした。


聖職者しか手にすることができなかったんです。


ですから、


聖書がないから、


教会でわけのわからんラテン語で話を聞いても


理解できないやないですか、庶民は。


それで、


きっと当時は絵を見て


聖書の物語が語り告げられていたと思うんです。


「神様はね、こうやって海を分けて


イスラエルの民を救ったんだよ」



「イエス様はね、


こうやって自分たちの罪のために


身代わりに死んでくれたんだよ」


「これはね、弟子のペテロがね


イエス様のことを知らないって言ってしまってね。。。」




石像の目的は何か、です。


お供え物をして
自分を守ってもらおうとする
それは、偶像を神にしていますから
主はダメだ、とおっしゃっています。


おまんじゅうやお花で
人はあなたのために動いてくれますか?
神様に対して、どうですか?
神様に対して、それはどうですか。
どう感じますか。
あなたに、花やお菓子を渡して
守りまたえ、と人に言われたらどう感じますか?


神様は、それではいけない、
とはっきりとおっしゃっておられます。



イエスキリストこそが、
神様への最高のお供え物なのです。



そして、そうだ、
イエスキリストこそが神様に対して
最高のお供え物なのだ!と理解して
信じる信仰こそが
神様に喜ばれることなのです。


像を見て
神様の偉大なる御業を思い起こす。


像を見て
神様に自分の心が向く。


それが、ここヨシュア記で語られていることであります。


ですから、ただ単に偶像を見てあかんと裁くのは
違いますよ、ということ。


↑昔の自分への反省点です。
ちょっとは成長したかな、わたし(笑)


イスラエルの人々に言った、「後の日にあなたがたの子どもたちが、その父に『これらの石は、どうしたわけですか』とたずねたならば、 

 『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。 

すなわちあなたがたの神、主はヨルダンの水を、あなたがたのために干しからして、あなたがたを渡らせてくださった。それはあたかも、あなたがたの神、主が、われわれのために紅海を干しからして、われわれを渡らせてくださったのと同じである。 

このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」。








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Last updated  2017.04.05 22:14:21
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