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カテゴリ:愛について
今日の東京は雨です バスを待ちながら忙しい街並みを見ていると 傘をさしても濡れながら 急ぎ足で駅に向かう人が多く目に入りました 雨。。。 気分は晴れないかもしれない。 けれど、私は雨を見ながら 今日も神様に支えられ、 私たちの必要が与えられていると 感謝しました 雨はお出かけの日には嫌だけど 雨が降らなければ、私たちは生きることはできません。 こうやってちゃんと神様は 雨を今日も降らせてくださって 私たちの大切な水の資源を 与えてくださっています。 雨は「お約束」ではないと思うんです。 ちゃんと雨を必要な量だけ 神様が与えてくださっている。 降りすぎてもダメだし、 少なすぎてもダメ。 神様の恵みを今日も感じました。 そんなことを考えながら 私の人生を振り返っても 神様は私を支え、恵みを雨のように 降り注いでくださっているとこれまた感謝しました。 アメリカでの留学にしても、 お仕事にしても、教会にしても、 住むおうちにしても、お友達にしても、 家族にしても、私には、 主観的に自分にはすべてベストが与えられている と心の底から思っています。 人と比べてではなく、 自分で得ることができる中で 最高、最善、まさにベスト が与えられた、と思っています。 私はあれ?と考えることがありました。 私は神様を近年数年間疑い 教会から離れたときがありました。 しかし、その間も、 神様は私を支えてくださいました。 私が最悪の状態にあったとしても、 神様は私に対しての態度?を変えませんでした。 どうして?どうして?どうして? 毎週日曜日に教会に行ってなかったよ? 毎日聖書も読まないし、 毎日祈りもしないし、 ましてや、神様への奉仕なんてしないしない。 全然しない。 だから、楽できたw でも教会行ってます―とか、 奉仕してまーす!とかが、 神様から最善を受ける「条件」なんじゃないの?? どうでしょうか。 「おりこうさん」「いいこちゃん」 「神様のためにあれやってるし。」 「神様のためにこれやってるし。」 自分の行動で、神様からの祝福を 私たちは「得る」のでしょうか。 そんな「手段」なのでしょうか。 それが「条件」なのでしょうか。 「行い」によってしか、 神様の愛を保てないのでしょうか。 私の過去の記事をご覧ください。 *************** 今年の学びのテーマは愛なのですが、 真の愛についての学びが飛び込んできました。 教会で育ってきた人たちは こんなことは「当たり前」なのかもしれませんが、 私にとっては、そうなのか。。。という新しい恵みになりました。 真の愛とは、一体何なのでしょうか。 下記は、Atty藤原先生の真の愛についての メッセージのサマリーです。 愛の基準、価値観 『真の愛とは、 好き、欲しい、必要、 (I need you. I want you.)ということを超えるものです。 「愛」という言葉を聞くときに 「大好き」と同意語になっているのではないでしょうか。 テレビや友人などのアドバイスは 「あなたは本気でその人のことが好きなの? 本気で好きなんだったら。。。 その人のことが本当に必要なんでしょ?」 それとは愛は違うよ、と聖書は語っています。 「愛する」ということは、 「好き」という言葉と分けていかなければなりません。 「愛する」ということは 「その人のことが欲しい」、ということから分けていかなければなりません。 「愛する」ということは、 「その人が自分にとってどうしても必要だ」 ということからもわけていかなければなりません。 どうしてかというと 「好き」とか「その人が欲しい」とかは、 全部「自分が!」なんです。 「愛している」と言いながら 自分の気持ちを満足させるために その人を使っているからなんです。 「必要なんだろ。一緒にいたいんだろ。好きだったら本気でいけよ!」 というテレビや友人のアドバイスは、 愛とは違うということなんです。 愛とは、 自分にとってその人を用いて 自分を深い所で満足させるということではなくて、 その人にとっての最善を求めることです。 相手の人に何が必要かを考える。 それが愛です。 大好きなんだけれども、そばにいてほしいんだけれども 場合によっては、 その人を去らせなければならないこともあります。 大好きなんだけれど、大切なんだけれど、 一緒にいられない、ということもあるのです。 その人の人生の方向性を考えたときに。 その人にとっての最善を求めていくときに。。。 それが、愛なのです。。。 なるほどでした。 やっぱり、恋は己を考えること。 恋は自己中心的。 愛は、相手の最善を、ベストを考えること。 そのために、その人と共にいることを選んだり 相手のベストを考えて 愛しているからこそ 去らなければいけないときもある。 私にとっては「大好き」という感情が 最重要ポイントだったけど それって、まったく私の中に愛がなかったんだなぁと 今更ながら気づきました。 自分を満足させるために 「好き」という名目のもと 相手を利用していたわけです。 好きというような感情も大事だけれど もちろんあったほうが良いけれど、 感情だけではなく、意思をもって決断していくこと その方が大切なのだと学びました。 愛は I love you I need you I want you という感情を超えるもの。。。 神様が私たちのベスト、最善を いつも願い望んでおられるのは、 神様が「愛」だからなのですね。 納得。 *************** 一度納得したことを忘れていました そうなんです。 こんな私に良くしてくださり、 こんな私にいつもベストを与えてくださるのは 神様が、「愛」だからんです 神様は愛みたいな感じ、ではなく、 神様は愛そのものなのです。 ですから、神様のなさることはすべて 「愛」に基づいています。 自分の満足を得るために 私を、あなたを利用することは決してありません。 神様は、愛だからです。 神様が私のことを考えるとき、 自然と私の最善、私にとってのベストを考え 私にとって最高のものを神様が望んでくださっています。 神様は、愛だからです。 そのことが、ストーンと心の中に落ちてきました。 そうすると、すべてが感謝になりました。 大震災を2度経験して大変でしたが そのことも私にとっては必要であった。 心の傷も、私を高ぶることから守ってくれる。 私の疑いの日々も、 教会になかなか出会わず苦労した日々も 同じ道を歩む人々を見下すことから守り なおかつ理解することができる。 だから、疑う人たちが私に心を開いてくれる。。。 すべて益です。 神様の愛に感謝です。 いたらない私にでも、愛は愛。 また神様は愛だから、 神様ご自身を誰にも押し付けません。 クリスチャンは、 他のクリスチャンに強いられて 信じるのではありません。 もし強いられた、 無理やり「入らされた」人がいたら、 考え直した方がいいです。 キリスト教に強制はありません。 だから、強制されたのなら 異端の可能性が高いです。 キリスト教はすすめますが、 強制しません。 神様は信じることを強制しないんです。 私たちが信じるのは、 神様の愛を知って、その愛に応えているだけ。 "私たちは、私たちに対する神の愛を知り、 また信じています。神は愛です。" ヨハネの手紙 第一 4:16 イエス様を信じることが イエス様の愛に応えることなのですね。 またさらにそれは、 イエス・キリストを御父がこの世に送ってくださったことにより どれだけ私たちを愛してくださっているのかが分かります。 "神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって私たちに、 いのちを得させてくださいました。 ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。" ヨハネの手紙 第一 4:9-10 私たちの最善を考えて 神様はイエス様をこの世に送られたのですね。 もっと神様の愛を知りたいです。 祈っているので、神様はもっと 神様の愛を見せてくださると思います。 そのときまた、ここでシェアさせていただきますね。 "私たちは愛しています。 神がまず私たちを愛してくださったからです。" ヨハネの手紙 第一 4:19
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Last updated
2017.05.04 13:19:06
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